Q:「いろいろな本に、“ すべては完璧です ”と書いてあるのを目にします。しかし、私にはその “ 完璧さ ”の意味がまったくわかりません。いろんな状況は、完璧とはほど遠い状態です。いったい “ すべては完璧 ”とは、どういうことなのでしょうか?」
A: たしかに、たしかに ・・・。以前、私もそのように思ったことがありました。「完璧って言われても ・・・ ぜんぜん思うようになってないしぃ〜」って。
そもそも、“ 完璧さ ” ということじたいが、「私が望む」「私がイメージする」私の好きな完璧さではないのです。「私が望む」完璧さは、私の欲求、ニーズにあっていて、私だけに利益があり、私がこうだと信じている幸せへとたどり着くためのもの。
でも、その「私」「私」と声高に主張している存在がクセモノなのです!
「私を幸せにしろ〜〜〜!!(怒)」って。 ・・・ その「私」っていったいどなたですか?
私たちが「私」というとき、それは個人である自分です。身体をもった孤立した私というエゴが、「あの仕事がしたい」だの、「将来こうなりたい」だの、「ああなるべきだ、こうならなければならないのだ」と願望を抱いていて、それが叶わないと「ぜんぜん完璧じゃないじゃない」とぼやきます。
その「あ〜したい、こ〜したい」のベースになっているのは、じつは怖れをベースにした自己防御の気持ちなのです。怯えている気持ちが動機だということです。
怯えているからこそ、自分の主張が叶わないとキケンだわ、安全に生きていけないわ、大変なことになるわとあせりまくり、いろいろな願望としての「あ〜したい、こ〜したい」が生まれてくるわけです。
でも、私たちを運んでくれている大きな人生の流れは、何も怖れることがないまさに「完璧な私」に気づくことに向かって流れているので、そんな小さなエゴのおびえた叫びなど、どうだっていいわけです。
それよりも、「なんでそんなにコワがっているんですか〜?」ということのほうが先決問題です。
「なにがコワいのか?」 ・・・ 私が思うような道筋で、私が思うような成果をあげ、私が思うような成功と幸せをくれ〜〜!、さもないと・・・。こんなにせっぱつまっていて、自分にとっての本当によいことがわかっているのでしょうか?
結局、完璧さとは誰にとっての完璧さなのか ・・・ なのです。
小さなエゴの自分から見た完璧さなのか、それともホンモノの限界のない自分から見た完璧さなのか、ということなのです。そして、それぞれの完璧さには、それなりの結果がついてきます。
無限の宇宙のなかでおびえたように小さくしている存在の幸せは、まわりの大きさにのまれないように闘うことかもしれないし。無限の存在にとっての幸せは、すでにそこにあるので何もしなくてよいことでしょう。ただ受けとるだけ。
私たちはつねに、自分のこころの状態の反映を目にするこになります。自分が小さなエゴとしての自分だと思っている限り、完璧さは見えないし、また覚えることもやめられないというわけです。
エゴが口をひらいて、価値判断したり、文句を言ったり、コントロールしたり、抵抗したり、画策したり ・・・ エゴが参画してくることによって、もともとそこにあった完璧さが跡形なくなくなってしまいます。
「完璧さ」とは、エゴが手をふれていないことによる完璧さなのですね。
だから、人生の流れに対して口をはさみたくなったら、逆にエゴに質問してみましょう?
「なんで、文句を言いたいの?」「なんで自分の思いどおりにならないとイヤなの?」と。結局は、「そうでないと、困る」「大変なことになる」・・・そして「生きていけない」「死んじゃう」というところまでたどりつきます(汗)。
それってホントのこと? とりあえず今は生きているし・・・。今ここには問題はないし。 ・・・ そして、今に問題がなければ、それでOKなはず。未来だって、いつも今になるわけだし。
エゴが叫んでいるときには、ただ静かに見守っていてあげましょう(そう、この見ている方がホンモノの自分です!)。しだいにエゴの大騒ぎも静かになって消え去ってしまいます。相手にしなければ消え去るのですね。
また、しばらくするとエゴは参戦してくるかもしれませんが、そのたびに静かに見てあげましょう。見るやいなや、エゴは口を閉ざしてしまうのもおもしろいところです(けっこう素直じゃありませんこと?!)。
このくり返しで、うるさいエゴもだんだんと静かになってゆきます。
ホンモノかニセモノか、どっちの自分を大切にするのか? 大切にしたほうが健やかに育ってしまうというわけです。
「完璧さ」を知りたかったら、静かにしてみること。ニセモノの自分を。
「完璧さ」は、エゴに黙ってもらって、この今という現実に指一本ふれないでいてもらうことで現れてきます。
それは、忍耐するこころと信頼する力も必要となります。何か言いたくてもジッと口を閉ざし、静かに見守りながら待つこと。
エゴの提供しようとする幸せは、どれも最後にはくじかれて痛みに変わって、私たちを苦しめるけれど、この現実という流れのなかにもともとそなわっている完璧さは、エゴの妨害さえなければちゃんと花ひらいてくれるものなのです。
なので、エゴのおしゃべりが始まったら、すぐに気づいて、そこから離れて、ただ見てみることをしましょう。そして、本当の自分であるハイヤーセルフをたびたび思い出して、しっかりとナビをしてもらえるようにお願いいたしましょう。
「完璧さ」は創り出すものではなくて、すでにそこにあるもの。私たちがエゴで汚さない限りは、静かに受けとることができる贈りものなのですね。 ( ・◡・ )♫
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )