夜中の1時すぎごろになると、たびたびバイクのエンジン音がして、数分ハデに「ドドドドド!!」とふかしていたかと思うと、「バリバリバリッ!!」と破裂音のような爆音とともに走りさってゆくのです。
うるさ〜〜い(怒)☆ とくに、こんな熱帯夜つづきで寝つけないでいるときには、「この音のせいで眠れないじゃないか!」とバイクの音にすべてのイライラをぶつけたくなります。
どうやら近所で夜中まで仕事をしてるおにいさんが、路駐してあるバイクで帰途につくらしいのですが、ここまで無意味に音を大きくする心理って、いったい?!・・・ (汗)
それはやっぱり、「注意をひきたい」「目立ちたい」につきます。それも、なまじっかな音じゃダメで、ここまで大きな音にしないと「誰も自分に気づいてくれない」という見捨てられ信念。
トシの離れたお兄ちゃんお姉ちゃんのなかで育ったため、いくつになってもおチビ扱いで、まっとうな発言権が与えられなかった ・・・とか、両親が二人とも働いていて、忙しさのあまり自分の言うことに対して真剣に耳を傾けてもらえなかった ・・・とか(他にもいろいろありますが)、そんな無力感から爆音で気をひきたくなったりするわけです。
そんな理由をイメージすると、その爆音にむかって「ハイハイ、ちゃんと気づいていますよ〜。お仕事おわったのですね。遅くまで疲れたでしょう? 今から、帰るのね。気をつけて帰ってくださいね」なんて、こころのなかで声をかけちゃったりします。
でも 、そんなことを言っても結局は ・・・ 外に見えていること、自分が目にしたり体験していることって、「必ず」や自分のなかにある思いの証であって、私と無関係ではありえないのですね。
つまり、自分のこころのなかに「隠しもっている」、無意識化して自分でも気づいていない思いを、外に見ることによって、他の人のこととして片づけているのです。つまり、自分のもっていたくない思いを「外の世界」に捨てて、知らんふりしているわけです。
そうなると ・・・ あら、イヤだわ(汗)。思いっきり音をだして声をはりあげていたのは、誰? ・・・ 「私」ではありませんか?!(苦笑)
「私はここにいますよ! 誰か気づいてください! かまってください! そうじゃないと、存在していないように感じているんです〜(泣)」と、自分のなかで声をはりあげている存在がいるのに、その声に対して「黙れ! 女々しい! そんな声など聞きたくない」とおもいっきり無視しようとします。
その無視の結果として、「外」の出来事に見えるようなトリック(投影=こころのなかの隠された思いを外に捨てて、人のなかに見る)を使って、女々しい自分を否定しようとするわけです。
けれども、この女々しく聞こえる思いでさえも、じつは「過去」の遺物であり、自分の「本当の思い」ではありません。恥じる必要などないのですね。
しかし、それをまだ現在の思いだと勘違いすることで、恥ずかしく思い、無視して、封印して、投影します。誰か他の人のなかに見て、それを責めることによって、ずっと同じことをくり返してしまいます。それは、取り消されることがありません。
どんな思いにしても、私たちの思いにはものすごいパワーがあります。
聖書で言われているように、「山をも動かす」パワー。その思いは自分の世界に表現されて、必ず自分のもった思いをそのまま体験することになるのです。
そんな自分のパワフルさに私たちはうすうす気づいているようで、だからこそ自分の思いに脅威を感じて、その思いと正面から向き合いたくないのです。どこかで、見て見ぬふりをして、あいまいにしておきたいのです。
たとえ、それがニセモノの思いであるにしても、それを放置して、野放しにすることで、いつしかどれがホントの思いなのかわからなくなってしまいます。そうして、自分自身がその思いに騙されるということが起こります。
だから、何かに腹がたったり、動揺するときに、その出来事の「被害者」になって終わりにすることもできるし、
あるいは、怒りや動揺を、自分のなかに抑圧されて気づくことができなくなっていた思いを探求するためのアラームとしてとらえることもできます。
強烈に腹がたっているときこそ、自分のなかにその間違いがあることに気づくチャンスなのです。
まずは、「すべては私の思いの結果」であり、「これは私のこころのなかで起きていることだ」と外に見ていたことを、自分のなかに取り戻してみます。人ごとではなくて、私のなかの出来事ととして感じてみます。
すると、すぐに「あ、これはまさに私のことだ!」と気づく場合もあるし、まったく合点がいかない場合もあります。
そのときには、怒りや動揺の気持ちを掘り下げてたどってゆくことで、新たな気づきをえることができます。それはいつでも、「やだ〜! 私ったら、こんなこと信じてたの〜?」という笑っちゃう信念です。
そして、その探求を正直にして、ちゃんと気づいて受けとめてゆくと、同じことが起こったとしてももやは反応することがなく、どうでもよくなっていたりします。
あるいは、出来事自体が消え去ってなくなってしまったりします。(学びが終わったのですね!)
私の場合、気づきをえて「あのバイクのおにいさんじゃなかった! 私だったのね!」と認めたあたりから、音が消え去りました。
バイクのおにいさんがいなくなったのか、音がしないバイクに乗り換えたのか ・・・ 不明ですが、私のこころのなかのいにしえの「見捨てられ」信念が正面から見られて、手放されたので、おにいさんの存在も私の意識のなかから消え去ってしまったのでした(チャンチャン♪)。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )