私たちがモノごとを見るとき、
根底にある「思い」が間違っていると、そこから「間違ったものの見方(価値判断)」が生まれてしまいます。
その結果、「間違ったものの見方」からは「恐れ」が生じ、そうなると目にするものすべてが自分にとって敵のように感じてしまいます。そして、その敵から身を守るために、つねに戦うことになります。
間違った思いは、たえまない戦いへとつづきます。
たとえば、「ここは、コワイことが起こるキケンな所だ」という無意識の「思いこみ」があると、なにを見ても「何かが間違っている」という「価値判断」が生まれ、そうなると身を守るためにつねに臨戦態勢となり、戦いが日常となるのです。
戦おうとすれば罪悪感を感じることになり、その罪悪感を中和するために自分を痛めつけるということでバランスをとろうとします。そうなると、人生はイバラの道になります。・・・
すべては、最初の自分の「思い」、こころのなかにある考えによって生まれるので、自分を幸せにするのも不幸にするのも、自分のこころだ、ということになります。
残念ながら、私たちは自分の思いが間違っていることになかなか気づくことができません。
たとえば、誰かが自分を無視したり、攻撃的な態度をとってくるとき ・・・ おっと! もう、この時点で間違ってしまっていることに気づきますか? 無視や攻撃的というのも、自分が勝手にはっているレッテルにすぎません。事実ではありません ・・・ その間違ったレッテルの結果、自分は傷つけられたのだと信じてしまうのです。(ほんとうは、自分の価値判断が自分を傷つけたにすぎません。悪気はなくても、そういう態度しかとれない人だったかもしれないからです。)
なにを見ても「自分めがけて、それが起こっている」と感じてしまうのは、それだけコワレモノのような弱い自分を感じているのかもしれません。
そうでなかったら、「あれ?この人、態度がおかしいけれど、何かあったのかな? 大丈夫かな? 何か助けられることはあるかな?」と歩み寄って手をさしのべようとするからです。
でも、コワレモノという自分を信じてビクビクしていると、なにもかもが自分への攻撃だと感じてしまうのです。
自分を傷つけないものの見方をするために、一番よいのは「まったく価値判断をしない」ことです。
恐れや怒りを感じているなら、すでに自分が間違った判断をしてしまったがゆえに、それが自分をおびやかしているからなのです。
しかし、なにひとつ言葉を使わないで、カラッポのこころでものごとを見るとき、そこには自分独自の攻撃のストーリーが入りこむことがないので、そこからでっちあげの戦いのストーリーが展開してゆくこともありません。
価値判断せずそのままにしておくことによって、ものごとはあるがままに進行します。そして、すべての人にとっていちばんよい展開となるのです。
コワく感じるときには、自分の価値判断が完全に間違っていた、と知りましょう。
間違った価値判断をしていたことに気づいたら、「私は間違っていました」ということを正直に認めましょう(「間違っていた」と認めないかぎり、決して正しくはなれないのです)。そして、からっぽのこころで、ハイヤーセルフとともにそれを一緒に見てもらいましょう。
「すべてはよきことのため!それだけが起きていることの理由」であることを受け入れましょう。
私たちは期待したもののみを見ることができます。
恐れを期待して、まんまとそれを見て、それと戦うのではなく ・・・ 完全な愛を期待して、完全な愛こそを目にして、安らぎのなかで生きる練習をいたしましょう。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )