22-02-27 目に見えることの向こうがわ

 

相手の表情、相手のとる動作や行動、相手の発する言葉 ・・・
これらから私たちは相手のことを理解できたと思っているし、状況も判断できると思っています。

なぜなら、こどものときから実験や観察という視覚に頼る情報集めを教えられてきたので、目にできるものこそは真実を教えているのだ、と信じてきたからです。

こどものケンカの常套句も、「だったら証拠を見せてみろ!」と目に見えるものを要求します。(覚えあります?!)いつも、見えるものが真実の証となってきたのです。

でも ・・・ そもそも、ひとりひとりの目に映っているものって、共通でもなければ普遍的なものでもありません。各々にとってまったく違うのです。

同じ道をしばらく一緒に歩いて、この道に何があったのかを尋ねてみてください。

ある人は散歩中の犬に気づくかもしれないし、またある人はお店にディスプレイされたお洋服が目にとまるかもしれません。お洋服に気をとられた人にとって、犬は存在していないも同然なのです。

そんなふうに、私たちは真実を見ている、というよりは、自分にとって好ましいもの、興味をひくもの、都合のいいものしか見ていません。

そうなると、人の表情にも、行動にも、自分のおなじみのものしか見えてこないわけです。

もし、自分にとってのおなじみが不愉快な感情であれば、きっと世の中は不愉快な人ばかりとなることでしょう。

自分の都合だけで「目にしているもの」の向こうがわに、ほんとうの意味が隠されています。

それが見つけられないと、ずっと欺かれたままとなります。

どんなふうに欺かれるかというと ・・・ 華やかな包装紙に包まれたおっきなモノは、華やかだから、大きいから、きっとステキなものに違いないと思って持ち帰ると ・・・ じつは中身はカラッポ、いえ、悪くすればゲジゲジやムカデや気持ち悪いものでいっぱいかもしれません。

外観と中身(そのものの意味)はまるで一致しないので、外観だけで判断するとこんな間違いをくりかえします(いいモノを選んだつもりが、なぜかいっつも最悪だ・・・という)。

でも、先入観という邪魔ものがいなくなり、外観にだまされなくなると、自分とそれがひとつになることができるため、それがおのずと中身を明かしてくれるようになるのです。

先入観さえなくなれば、外観という目に見えているものをとおりこすことができ、核心に達することができます。

そうすると、人のこころの深いところを理解できるようになり、何が起きているのかを知ることができます。

どなりちらしたり暴力をふるう人を、私たちは横暴で強い人だと感じてしまいがちですが、

目に見えていることを手放して、先入観をもたずにひとつになってみると、その人がいかに怯えて、こころに闇を抱えているのかを感じとれるかもしれません。コワいからこそ、先に攻撃していたと気づくかもしれません。

一見、冷静で静かな人も、ひとつになって感じてみると、こころの深いところに怒りや憎しみが横たわっていることに気づくかもしれません。

目に見えるものにすぐに反応するのではなく、先入観をもたずにひとつになって感じることをしていると、ほんとうのことが見えるようになってきます。

そして、さまざまなことを深く理解できるようになり、はじめて自分のこころも正しく理解できるようになります。

自分のこころ? そんなのとっくに理解している、って?!

いえいえ、じつはいちばんわかっていないのは自分自身のこころです。

私たちは自分自身を癒すために(癒しはここに存在している全員にとって必須です)、ひとつひとつ自分のなかに置きざりにされた悲しみや怒りや怖れや絶望に気づき、それを意識して受けとめたら、ハイヤーセフルに手渡して取り去ってもらう必要があるのです。

人のこころのなかにあるものに気づき受けとめはじめると、自分のこころが明かされるようになり癒しが加速します。

なぜなら、私たちはひとつのこころだから。癒しはつねに同時に進行してゆくのです。

すぐさま目にしたものにおなじみの判断を下すのではなく、こころをカラッポにして、目にしているカタチの向こうがわまで見られるようにいたしましょう。

 

 

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