私たちの目にするすべて、体験するすべては、私たちのこころが紡ぎ出している映像の世界です。
私たちは自分のこころの中から投影された世界を生きているのです。
しかし、自分が生み出しているものを目にしているわりには、気に入らないものばかりだ・・・と感じてしまうかもしれません。
それは、こころのなかの癒されていない怖れや罪悪感を、外へと映し出してしまうからなのです。
さらに、その映し出されたものに対して自らが抵抗して闘ってしまうとき、私たちはそれらをさらにリアルでパワフルなものにしてしまいます。自分で自分を脅かすということが起こってしまうのです。
抵抗するということはまさに、抵抗している対象にエネルギーを注入することになるので、それは自分にとってまぎれもなく現実と感じられ、支配力があるように思われるのです。
その不快さから逃れるため、それらを変えようと頑張るとき、その好ましくない状況にさらに力を与えることになってしまいます。すると、その状況からなかなか脱することができなくなってしまうのです。
好ましくない状況に消え去って欲しいのであれば、取るべき行動はただひとつだけです。
それは、目のまえで扉をバタンと閉めてしまうこと。それとかかわらないこと。無視してしまうことなのです。
無視することで、それらをリアルにしていた抵抗のエネルギーが断ち切られ、エネルギーを失ったものは目のまえから消えてゆくことになります。
私たちはついつい、気に入らないものに対して闘ってどうにかするという姿勢をとりがちです。コントロールこそが解決策だと信じているからです。
ほんとうの解決策は、それを存在させている注意というエネルギーのコンセントをただ抜いてしまうことなのです。
気に入らないものに対して、ドアをぴしゃりと閉めてかかわらないこと、反応しないこと、注意を向けないことが大切です。
赤ちゃんがなかなか泣きやまないとき、くるくる回る玩具やヘンな音が出るもので気をひくと、赤ちゃんの注意は即座にそれらにクギづけになり、ピタリと泣きやむということが起こります。
注意は、中途半端に分散しておくことができないのです。向けられる先は、ひとつだけなのです。
大人でも、体に痛みを感じているとき、思わず引きこまれるような映画を観たり、美味しいものを口にしたりすると、痛みのことはすっかり忘れてしまったりします。
自分が望まないものは、抵抗や闘いによってどうにかしようとするのではなく、ただこのような注意の転換を使うことがポイントになります。
望まないことに対する注意を遮断すべく、ただ注意のコンセントを抜いて無反応状態を作り出しましょう。すると、それらはしだいに消えてゆくことができるのです。
ふだんの生活のなかでも、目のまえにあらわれるものごとに対して次から次へと反応するのではなく、少し身を引いて画面全体をふんわりとながめることが大切です。
世界や出来事に対していちいち意見をしたりジャッジしたりしないで、無反応を作り出します。
それは、穏やかで安らかな無関心の状態です。ひとつを掴むことなく、全体をふんわりと見ているだけです。
自分というエゴが世界に反応して、抵抗したり、コントロールしようとしなければ、人生にはある流れが存在していることに気がつくかもしれません。
それは、もともとそこにある法則であり、宇宙の秩序そのものです。
その法則は、自分ひとりで頑張る必要はなく、すべてのことにおいて面倒を見てくれる愛そのものなのです。
どんなふうに面倒を見てもらえるかは、それを体験してみないことにはわかりません。必ずやその答えやそのなりゆきに、ちょっとびっくりしながらも、満足することになるでしょう。
私たちが何かに反応して、それを掴んだり取っ組み合ったりしなければ、その愛の法則が現れて、解決に向かって穏やかにリードしてくれます。
私たちがするべきことは、ただ安心してリラックスしてながら画面の後ろに下がり、「いったいこれはどのように解決されるのだろう?」と面白がりながら、静かに見守っていることです。
毎回示されるその結果そのものが、ゆるぎない流れへの信頼を培ってくれることでしょう。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )