不安な気持ちになったとき ・・・ 私たちはそのことばかりについて考えてしまう傾向があります。
「お金がない!どうしよう?この調子でいったら来月には・・・云々」
「身体の調子がおかしい。これ以上ひどくなってしまったら、将来はどうなる・・・云々」
私たちは考えていれば問題を放置することなくかかわっているように感じるので、少し安心できるのです。
しかし、考えは未来へ未来へと前のめりに広がり、ありもしないストーリーを紡ぎだすことで不安をさらに増大させてしまいます。
ということは、「あれこれ考える」ことじたい解決にはまったく役立っておらず、逆に不安だけをあおってしまっている、ということになります。
そもそも不安な気持ちがこころに浮上してきたということは、それをそのまま感じて、受けとめて、終わりにしなければならないのです。
それらの感情は、自分のなかで長いあいだ拒絶され、無視され、こころの奥深くに抑圧されて無きものにされてきました。
しかし、これらの感情こそが自分が目にする世界へと投影され、自分にとって障害物となる問題へと姿を変えてしまいます。 まさに、自分の人生の流れをはばんでしまう原因となるのです。
これらの拒絶されてきた感情は、何度々々も浮上することによって受けとめてもらうことを求めています。
それら受けとめることこそが、自分の目のまえに立ちはだかる問題を消滅させることにつながるからです。
感情を受け止めるとは、あれこれの価値判断やストーリーをくっつけることなしに、ただそのままの感じを受けいれて感じてあげることです。
そもそも私たちは、「感じる」ということに慣れていないようです。
なぜなら感じはじめると、その感じに呑みこまれてしまうような怖れを感じるので、それをさけるためにすぐさま感情を思考へとすり替えてしまいます。
あまりにも思考依存症に陥っているので、あるがままの感情を受けいれることをすっかり忘れてしまっているのです。そのために、強い感情が浮上するとキケンきわまりないことが起こっているように感じて、あるがままに感じるこころはすぐに閉じてしまいます。
いつも考えでアタマをいっぱいにすることで感じる余地を残さずにいれば、何も感じることがなく安全でいられる!と信じてしまいます。たとえ、その思考が自分を幸せにしないものであっても、感じるよりは思考する方が安全だと勘違いしてしまうのです。
しかし、ある感情を感じることをさけるということは、幸せを感じることもできなくなってしまうのです。
先日、多くのスターを育て、メガヒットを生み出してきた米国の有名作曲家でありプロデューサーである男性のドキュメンタリーを観ていました。
彼は何十年もスタジオに缶詰めで多忙きわまりない日々を過ごしてきました。もちろん仕事では大成功を治めているのですが、そんなワーカホリックが災いして女性関係はうまくいかず、奥さんは寂しさのあまり次々に去って行きました。そして、五回めの結婚にいたりました。
そんな彼のひとことは、「セラピー?まっぴらゴメンだね。自分の内側をみるなんて、コワくてとてもできない」。彼の言葉は、「ぜったい立ちどまるもんか!自分の気持ちを感じてしまったらおしまいだ」という感じのものでした。
止まることを知らない回遊魚状態の彼は、そもそも内側を見たくないからこそ決して立ちどまって安らかな時間をもつことはないのです。
立ちどまってしまったら ・・・ 静かにしてしまったら ・・・、自分自身と向きあわなければならなくなります。絶対見たくない!と断言していたものと対峙しなければならなくなるのです。
ただただ動き回る状態はある意味、薬物中毒のような状態であり、自分をフラフラにすることによって何もわからなくして、感じていることを誤摩化してしまいます。
ほんとうの意味での幸せとは、こころが静かに安らいでいることです。
安らかなこころには、安らかな世界が映ります。それは、自分をフラフラにしていては見ることができない世界です。
そして、深い安らぎを自分のなかに感じるためには、安らぎを乱してしまうこころのなかの抵抗勢力である強い感情を無効にしてゆくことが必要となります。
そのために闘う必要はありません。ただ抵抗勢力である感情を受けいれて、消し去ります。無条件に受けいれられたものは、支えであるエネルギーを失って、ただ消滅してゆくからです。
自分のなかにどのような感情が湧きあがってきたとしても、判断したり、抵抗したり、拒絶したり、抑圧することをやめてみましょう。
不安や怖れ動揺が顔をだすと、私たちはすぐにそれらに言葉をくっつけることで、感じることをやめて考えはじめます。「なぜなの?」「どうする?」「原因は?」「何が間違った」というように・・・。
これは、脇道にそれてしまっているのです。「感じる」のではなく「考える」というルートに入ってしまいました。
そうではなく、なにひとつ言葉をつけることなく、ただその感情をありのままにして、感情に感電するがごとく感じることを自分にゆるしてみましょう。ただ、その感情とともに存在してみましょう。
言葉がなければ、それは「不安」でも「怖れ」でも「動揺」でもなく、ただビリビリ・ジンジン・シクシク・ドキドキ・ズンズン ・・・とう感じだけなのです。怖いものではありません。
言葉というものに逃げこまずに、正面から正々堂々と、丸ごと感情に自分を開いて感じてみましょう。
抵抗なく受けいれたものは、自分自身のなかでひとつになり、ようやく姿を消すことができるようになります。
そのためには、言葉を減らして静かになり、いったい自分がなにを感じているのかに敏感になってみましょう。
これを習慣化していると、かつての「不安」も「怖れ」も自分をおびやかすようなパワーを失い、安らかさや穏やかさを感じる瞬間がふえてゆきます。
こころが静かだと、目にうつるものも穏やかになってくることでしょう。こころと世界の良い相関関係が起こるので、こころも世界もともに癒されてゆきます。
感情に怯えて逃げていたときとは違う世界、もっと穏やかで、安らぎに満ちて、安心できる、優しさにあふれた世界、それを自分も目にすることができることを知って、自分の感情と向きあうことをはじめてみましょう。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )