〜自分が与えるものこそが、自分が受けとるもの〜、こんな言葉を耳にしたことがあるかもしれません。
これこそが、私たちが生きているこの世界で働いている不動の法則です。
与えたものしか受けとれないのです。あるいは、与えてしまったのなら、受けとるしかないのです(苦痛や痛みもです)。
「与えるものが受けとるもの」というこの言葉をきくと、「そうか! だったら気前よくじゃんじゃんモノを与えれば、さらにじゃんじゃん戻ってくるのか」と、モノを与えることに一生懸命になってしまう場合があります。
これはそもそもモノのことではなく、モノよりも以前にある「こころの姿勢」「動機」のことを言っています。
たとえものをジャカジャカ与えようとも、そこに「自分は足りない」という根強い欠乏感があるのなら、「足りない」という気持ちを再確認していることにすぎなくなってしまいます。
欠乏を信じ、他から与えられることを期待しているので、「人は豊かだけれど、自分は足りない人なのだ」という信念を強めることになってしまいます。
「与えるもの」とはモノではありません。モノよりも前にあるこころです。
そのこころ、動機こそが、与えられて戻されてくるように感じます(なぜなら、すべてはひとつなので自分で自分にしていることになるからです)。
どのような結果を手にするのかは、どのような気持ち(動機)でそれを行ったかとイコールになるわけです。
欠乏から? 怖れから? 罪悪感から? あるいは、感謝から? 慈愛のおもいから? 喜びから?
自分のなかが欠乏や怖れや罪悪感でいっぱいでありながら、「そうか、与えればうまくいくのだな」とせっせと与えてみても、結局受けとる体験はやはり欠乏や怖れや罪悪感を感じさせるものになってしまいます。つまり、動機と結果は同じ内容だということです。
欠乏感を感じながら、「モノをたくさん与えて、豊かになろう」とジタバタするよりも、自分の内側に目を向けることをしてみましょう。
欠乏感も怖れも罪悪感も、正面から無条件に受けいれてあげることでやわらいできます。避けず、無視することもなしに見てあげることでほどけてゆくことができるのです。
そして、自分のこころを静かにさせてあげましょう。凪のように、安らかに穏やかに落ち着かせてあげましょう。
安らぎのなかから世界を見られるようにいたしましょう。
そうすることで、自分とひとつである源(すべてであるもの)に自分を与えることになります(源こそが静けさ、安らぎそのものなので、そのすべてとひとつになります)。そしてそこから、すべてを受けとることになります。
なによりも、自分自身が自分に戻ってきたように寛いで、真の自分の感覚を思い出すことになります。
すると、目のまえで波だっているように感じたあれこれが、静かにほどけて解決してゆくことを目にするでしょう。
安らかな自分自身こそが与えるもの。世界やまわりの人へとわかちあう贈りものにいたしましょう☆
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )