「私たちのこころにある秘められた目的が、何を目にするのかを決めている」
「秘められた」ってことは自分でも気づくことができない想いがこころにあり、それこそが自分の目にする世界をつくっている?!
私たちは物理的な世界に住んでいて、その物理的な世界は自分の外側に存在している、と信じています。そして、その世界からやってくる刺激の数々に反応し、折り合いをつけること。
それが、私たちが考えている「生きること」。
でも、(現在の量子物理学でも言われていますが)じつは世界とは私たちのこころのなかに存在しているイメージであると言われています。つまり、意識がただ夢を見ている状態です。
そして、自分でも気づくことがない秘められた「こころの想い」というものを、つねにイメージにして世界という形で見つづけているというわけです。
実際、外側というものは存在せず自分のこころが発信しているならば、目にするものに反応してしまうと、自分のこころのなかにある思いこみをどんどん強化することになります。
知らぬまに、世界という形をとった自分の思いこみの被害者になってしまいます。自分は外と闘っていると思っていても、じつは闘っている相手は自分自身なのですね。
人生とは、自分の外側に存在する世界とかかわることだ ・・・ と信じる時点で、私たちは世界という名の自分のこころのなかに閉じこめられてしまいます。自分のこころがつくりだしたイメージの、登場人物の一人と化してしまったのです。
世界というものは、自分が信じていることしか映しだせないのだとすると、同じことのくり返しを生きることになります。景色は変わっても根底にあるパターン・力動は変わらないからず、なにかが同じなのです。
昼がきて夜がくることも、暑い日があって寒い日があることも、大雨があって干ばつがあることも、生まれて死んじゃうことも ・・・ 私たちのこころが正気でないことをあらわしているイメージにすぎません。こころが分裂していることから、つねに相反する二つのあいだを行ったりきたりする二元性という葛藤に悩まされているのです。
そうなると、人生も登ったかと思うと下って、下ったかと思うと登る ・・・ これもこころのなかの二元性のあらわれであり、当然の成りゆきとなります。
しかし、私たちは自分で何がどうなっているのかまったくわかっていないので、それを修正するすべがありません。
そもそも、目に映るものが自分の外にあると思ってしまった時点で、コントロール不能になってしまい、世界 対 自分という葛藤のドラマに巻きこまれてしまったのです。さらに、その被害者であると信じることで、自分のこころのなかの世界にどんどん取りこまれてゆきます。
何かがうまくいかなくなったとき、必死で外側のことを変えようと努力すると ・・・ 一見うまくいったように思えても、じつはなかなか長続きする結果にはつながりません。
なぜなら、自分に何かを思いこませたり、信じたりという表面的なこころのパワーを使って変化を起こそうとしても、少しは変わったような錯覚は起こっても、やはりそれは表面だけのこと。心底のパターンが変わるという、真の変化にはいたらないのです。
じゃあ、真の変化はどこからやってくるのでしょうか?
それは、こころのなかに囚われている自分(この世界にいる自分)に頼らなくなったときです。こころのなかの世界の囚われ人には変える力がありません。
囚われ人がホンモノの自分であるはずがないからです。これがニセモノであるなら、必ずホンモノがいるはずです。
まずは、「目にしてることにだまされない」ことが重要です。「自分が見ていることは、こころが見たいように見ているからそうなっている」ということを理解する必要があります。こころによって、知覚は自在に変わるからです。
「ヘンなものが見えている!」「ああ、これは私のこころ自体がおかしいからだわ」と、過度なリアクションをすることをやめます。
そして、「自分のこころは、じつはこのような葛藤(問題)を信じていたのだ」と改めて認識します。私こそが望んでそれをしていたのだ、私がこうしていたのだ、ということを受け入れます(被害者をやめます)。
私はイメージのなかに囚われている人なのか、それともそれを外から観察している存在なのか、もう一度選びなおします。
イメージの外にいる制限のない存在、大いなる無限のワンネスとひとつである存在であるなら、自分の当然の権利である完全さを求めてよいはずです。
囚われ人のニセモノの自分を頼りにすることなく、自分の正気の部分である高い意識(ハイヤーセルフと呼んでも、スピリットと呼んでも、エンジェルでもかまいません)とつながり、訂正のお願いをします。「自分がでっちあげている世界を手放したい」「ここから脱出して、ほんとうのことを見たい」「ほんとうの自分を体験したい」と。そして、間違ったこころとその結果となった知覚を取り消してもらいましょう。
この取り消しをしてゆくことは、自分の勘違い、つまりこころのゴミを取り除いてゆくことです。
こころのゴミはたまりすぎて、間違った人格を主張しはじめました。私になりすましているニセモノです。ニセモノだからこそ、落ちこんだり、行き詰まったり、とち狂ったことをしてしまいます。
結局、自分の人生に立ちはだかるように見える障害は、どこか外側から急にやってくるのではなく、自分のこころがゴミでいっぱいになってしまったために目のまえの世界(というイメージ)をゴミ捨場にしてしまったのです。そして、それを見て「なんでこんなところにゴミ(問題)が!」とびっくりしているだけなのです。
でも、たんねんにこころのゴミを取り除く習慣をつけてゆくと、もう外の世界へゴミ出しをする必要はなくなります。あるがままの自分、ワンネスとしての完全な力をもつ自分が輝きだすことができるようになります。
すると今度は、ゴミの山ではなく、自分のなかにある真の輝きを目のまえに映し出すことができるようになります。この輝きのなかには完全さがあるので、何かを引寄せる努力をする必要も、なにかをクリエイションする必要も、違った自分になる必要もありません。
自然体のこころでありながら、安らかさが感じられるようになります。なぜなら、自分が目にしているのは、自分のこころのなかにあるほんとうの安らぎだからです。
こころのゴミ出しをしてゆくと、ネガティブな記憶、感情、思いこみが少しずつ清算されてゆきます。
それらは、すべて「こんなことがあった!」「あんなことも起こった!」という過去の思いなので、ゴミがどんどんなくなると、自分にとっての過去というものもあまり意味をもたなくなってゆきます。
過去を手放すと、現在の目にするものに対しての見方がまったく変わります。なぜなら、私たちは何を見たとしても、すべて過去の知識、判断、思いこみ、記憶をつかって、「これはどういうものか」「どういう意味があるのか」を決めているからです。過去を手放すとラベリングがなくなり、すべてがただのまっさらな「あるがまま」へと落ち着くのです。
これによって、世界の見え方、意味がまったく変わり、新しい知覚が生まれます。
それはある意味、罪のない知覚、無垢の知覚といえるかもしれません。
この無垢な知覚は二元的ではないので、相反するものを含むことがなく、自分を守ろうとする必要もなくなり、怖れや不安という感情も少なくなってゆきます。
私たちの受けてきた教育では、外に見えるものを判断して、どうするか行動を決めるように教わってきました。
でも、残念ながら真実はまったく逆なのでした。外に見えるものが好きでなかったら、いったんスルーして反応せず、まずは原因であるこころへと立ち返ること。自分のこころのなかのイメージを見ているのだ、と認めること。
そしてこころのなかにある分裂や、攻撃、怖れの想いに気づくことで、それらを危険物処理班である高い意識にひとつひとつ申告して、きっちりと処理してもらうことです(これは、自分のこころのドラマの登場人物にすぎないエゴである自分にはできません)。
ひとつひとつ片づけてゆくと、知覚が変化してゆきます。外にあったはずのすべてが、だんだんこころのなかに戻ってきます(外というものがなくなってきます)。まるで、手袋が裏返るようなヘンな感覚(どんな感覚?!笑)。
そして、必ず自分がもともともっていた輝きや完全さというものにふれる瞬間が多くなってくるのです。そうすると、こころに安らぎが生まれ、より高い意識とのプロセスを信頼することがでるようになります。流れを信頼できると、新たな循環が生まれます。
お部屋もこまめな掃除機がけが必要なように、こころもこんなお片づけの習慣をもってみることによって、アタマで考えているのとはまったく違った変化というものを体験できるようになったりするのです。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )