人生の偉大なマスターたちは、「あなたの人生にイエスと言いなさい」「人生を受けいれることこそが、幸せへのカギである」と教えています。
アウシュビッツから生還したヴィクトール・フランクル氏も、極限の体験にさらされた過去をふりかえりながらも「それでも人生にイエスと言う」というタイトルの著書を書かれました。
たしかに、一日の自分のこころの動きを調べてみると、あからさまな拒否の態度を示すこともあれば、微妙な抵抗の感情であったり、あるいはもっとかすかな「ざわっ」という嫌悪感だったり・・・。これらはどれも「ノー!」という拒否のあらわれであり、それらを自分からバッサリと切り捨てたいという気持ちそのものです。
じゃあ、全面的にイエスと言ったらどうなるのか・・・
以前のブログで、「チャンス」という映画のなかに登場する庭師について書きましたが、彼はまさしく生まれながらに抵抗をまったく知らないイエスの人物として描かれています。人生が提供してくるすべてを、あるがままに受けいれて生きているのです。
また、「イエスマン」に登場するカールも、「チャンス」と同様に人生にイエスと言いつづける人物ですが、彼は生まれながらのイエスマンではありませんでした。
じつは、真逆だったのです。カールは、人生が提供してくるものをことごとく却下、拒絶するタイプでした。まるで自分にバリアーをはりめぐらせて、何も近づいてくるな! 危険だ! と言っているようです。自分を防衛し、つながりというものを極度に怖れるあまり、なにからなにまで「ノー!」だったのです。
そんな彼が、ある日夢を見ます。それは自分が孤独死する夢。ショックを受けたカールは、友人がすすめてくれたセミナーを思い出し、こっそりと足を運ぶことに。
それが「イエス!」というセミナーで、なんにでも「イエスと答えるイエスマンになる」セミナーだったのです。
セミナーのカリスマが言うには、「イエスこそ幸せの第一歩。人生にイエスを招きいれなさい。イエスと言えば、何でも可能になる。ノーは、死んだも同然だ!」と。
カールはガツンと頭を殴られたように感じて、そこからイエスマンの道まっしぐらとなります。さて・・・彼の人生はどうなったのでしょうか??(→予告を見る)
たしかに、「否定」というものは拒絶であり、すでにそこにある「あるがまま」という完全な贈りものを却下することになってしまいます。その結果、人生の流れを自らせき止めてしまいます。
リラックスして「イエス!」と言うことは、受け入れること、贈りものを受けとるために手を差しだすことなのですね。
PS カール役のジム・キャリーのみごとな顔芸が、地獄から天国までのギャップをみごとに表現しています。かなり笑えます。