22-09-16 幸せはあるがままを見ることから ー妄想劇場から脱出するー

 

ものごとをそのままに、「あるがまま」見ることが幸せにつながります。

そこに自分自身の考えを何もつけ足さないとき、 安らかさや平和が存在するのです。

さて・・・私たちは日々、どれだけものごとをあるがままに、まっさらな状態で見ることができているでしょうか? 

あるいは、自分独自のでっちあげである妄想劇場にハマって、自分自身を怯えさせてしまっているでしょうか? 

まっさらに見るということは、「あるがまま」に受けとめることです。それは、自分勝手な価値判断やでっちあげをせずに「素のままで見る」ということです。それをただそのままにしておくのです。

「そんなこと、あたりまえじゃないですか? 」と言われそうですが ・・・ あるがままに、でっちあげなしでものごとを見ている人はあまりいません。

それをそのままにして、自分の空想や妄想にひっぱりこまないでいる人は少ないのです。無意識のうちに、私たちはものごとを自分の妄想劇場へとひっぱりこんでしまっています。

たとえば、「今朝、パートナーがとても不機嫌だった。私が何か気に入らないことをしてしまったのだろうか?」、あるいは「さっき同僚に話しかけたのに、無視されてしまった。私は嫌われているのだろうか?」 ・・・ これらはすでに、勝手な「妄想(でっちあげ)」です。

「パートナーの不機嫌」も「私が気に入らないことをした」というのも本当のことではないし、「同僚に無視された」「私は嫌われている」というのも自分が作り出したストーリーにすぎません。 

まっさらな見方というのはこんな感じです。「今朝、パートナーはいつもと違うように私には感じられた」、とうことであり、「さっき同僚に話しかけたが、私には彼女の答えは聞こえなかった」ということです。違いがわかるでしょうか?

後者は、そのときに起こった事実のみであり、自分の推測や憶測・でっちあげは含まれていないのです。 

私たちにとってものごとを「見ること」ということは、「妄想すること(勝手なでっちあげをすること)」とイコールになってしまっているようです。

なにかを目にするたびに、自分にとっての意味や価値判断を勝手にくっつけて、自分独自のストーリーをでっちあげてしまうことで、妄想劇場が始まってしまいます。

その妄想劇場はたいてい、見捨てられたり、攻撃されたり、拒絶されたり、という悲しいストーリー展開が待ち構えています。 

幸せを感じられない人、喜びや安らぎの感覚が乏しい人、不安に支配されている人は、決まって妄想劇場の住人であり、悲しいストーリーの主人公になるのが得意なのです。

何かを目にしようものなら、そこから怒濤のように自分のでっちあげがはじまり、そのストーリー自体に自らが呑み込まれてしまうのです。

ひとつでっちあげをしたら、そこからまた別の架空のストーリーが生まれ、さらにそこからも・・・というように、アタマのなかは事実ではないストーリーでいっぱいになってしまいます。

そうなると、最初に自分が目にしたものごとから、とんでもなくかけ離れたストーリーが捏造されてしまうのです。

そして、その捏造したストーリーについて悩みはじめます。なぜなら、でっちあげ劇場はいつも悲しくつらいストーリーが展開し、そのストーリーがこころを釘づけにするからです。

「私がこんなに悲しいのは、これらのものごとが起こっているせいに違いない?!」と、架空のストーリーを信じてこころを痛めます。

しかしこころが痛むのは、自分が作りあげたストーリーを信じているせいです。自分で自分の首をしめて苦しがっているのです。それしか理由がありません。

不幸の原因は、つねに自分勝手なものごとへの価値判断であり、でっちあげストーリーなので、原因は自分以外にはありえないことになります。

自分のでっちあげ・妄想こそが、自分を傷つける凶器となってしまっているのです。

このような妄想によって自分を痛めつけないために、ものごとを「あるがままに見る」ことを学ばなければなりません。

「あるがままに見る」とは、文字通りまさに「あるがまま」。ものごとについての「解釈」や「価値判断」の一切を停止して、それらを空欄のままにしておくことです。ただ事実だけにとどめておくのです。

つまり、「見る」ということは、そこに何かをつけ加えるのではなく、見たらそれで「はい!おしまい」。それ以上なにも必要はありません。そのままにしておく、ということです。

それが、「あるがまま」を受け入れること、味わいめでること、正しく見ることです。

あるがままに受け入れ、味わいめでることができると、ものごとと自分との間に対立が生まれることがなくなるので、摩擦が起こることもなく、自分自身が安らかで平和になります。

何に対しても「ものを申したい」「コメントしたい」「解釈したい」という気持ちは手放して、すべてをそのまま、「あるがままに」とどめおきましょう。

そのままにすることによって、目のまえのことはただ流れてゆき、自分がありもしない複雑なストーリーに巻きこまれて、あれこれ考え悩むことがなくなります。ムダなエネルギーを消耗することがなくなるのです。

それはまるで、自分自身は岸辺に立って、ただ静かにものごとという川が流れてゆくのを眺めているような感じです。

わざわざ自らが川に飛びこんで、バシャバシャと溺れそうになりながら川の流れと取っ組みあいをする必要はないのです。

川岸に佇んで、ただ静かに流れを見守るという穏やかなこころの状態から、安らかな自分の世界が広がってゆきます。安らぎとは、まさに自分の世界の静けさです。

すべてを安らかに、そのままにしておきましょう。ものごとが流れて行くままにしておきましょう。

そして、そのままものごとに手をふれないでいるとき、宇宙の秩序がすべての面倒を見てくれます。自然にすべてのピースがきれいにおさまり、たんたんと正しく進んで行くというような完全さを見ることができるでしょう。

その安らかさと完全さを体験するために、自分の妄想で自分を混乱させることなく、ものごとをただ起きている事実として「あるがまま 」に見る、という練習をしてみましょう。

 

 

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