「すべてはひとつ」「あなたと私は同じもの」・・・こんな言葉を聞いたことがあるかもしれません。
しかし、「アタマではわかっていても、私にはそのようには感じられません。どうしたらひとつだとわかるのでしょうか?」というようなご質問を受けることがあります。
この「ひとつである」ということは、隣にいる人がまさに自分自身であるかのように感じられるに違いない、と思われたりします。もちろん、そのような一体感を感じる方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、「すべてはひとつである」「あなたと私は同じである」というのは、このような感じ方とは少し違うものです。
それは、自分という個人が「ああ、世界はひとつだな〜。あなたを私のように感じる」というものではないのです。
私という個人の観点からではなく、今ある自分の意識、その意識のなかですべてのものとの一体性を知っている、ということなのです。
私たちがとても幼い頃、まだ自分がどういう名前なのかを自覚しておらず、自分の顔や見た目がどのようであるのかを意識していなかった頃、見るものすべては自分のなかでひとまとまりの現れでした(おそらくそれが当然で、ひとまとまりだとも感じていなかったことでしょう)。
自分の意識のなかにすべてが含まれていて、それを無条件に受け入れていました。
この感覚においては、「すべてはひとつ」などとわざわざ言わなくても、ただひとつの現れであるあらゆるものがあったのです。
なので、「すべてはひとつ」であるというのは、頑張って達成するようなすごい境地ではありません。
ただその昔、体験していたようなまっさらなあるがままの世界、あれこれを比べたり価値判断をしたり好き嫌いをくっつけたりしない、素のままの世界を受け入れるということなのです。
どのようなラベルもなく、価値判断もなく、ひとつのものごとだけが切りとられて大切にされたり軽んじられたりすることもありません。ラベルがついていないのでバラバラになることがなく、すべてがひとまとまりとなっています。
そして、バラバラになっていないので、それは対立することもなく、闘いを生みだすこともありません。
このような見方においてこそ、安らぎや平安が達成されます。
誰でもきっと、自分がふと静かになった瞬間に、深い安らぎや解放感を感じたことがあると思います。
それは、こころのなかでラベリングや比較、切り取りが行われず、自分というものと世界とのあいだに葛藤や闘いが起こっていなかったからです。
意図的に思考やアタマのつぶやきをお休みにして、静かになる時間をつくってみましょう。
自分が退くと、退いたところに神さまがやってきてくれる、といいます。
次から次へと問題をねつ造するアタマのつぶやきがお休みすると、平安という神さまがさまざまなお土産を携えてやってこられます。
それは平安や安全の感覚だけでなく、嬉しいインスピレーションがやってきたり、シンクロニシティがたびたび起こるのに気がつくかもしれません。
もし、自然のなかでこれをするのなら、自分と自然がまったくひとつであることをシンプルに感じとれるかもしれません。
広い野原に寝転がって、どこまでも広がる青い空とひとつになってみるのもおススメです。
このように、世界をばらばらにしてしまうアタマのおしゃべりが休止されると、静かな安らぎの時間がやってきます。
「すべてはひとつ」という紋きりがたの言葉ではなく、自身の感覚として「ひとつである」ということがどのようなことかわかるでしょう。
それと同時に、自分と人や世界とのあいだの葛藤や闘いがしだいに影をひそめ、安心や解放の感覚とともに自分に対して優しく穏やかである世界を感じられるようになるかもしれません。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )