犬は吠えたいときに吠えますし、噛みつきたいときに噛みついてきます。
「そんなことをするべきではない!」といくら言いきかせようとも、そうしたいときにはそうするものです。
人もまったく同じで、怒りを爆発させたい人は爆発させますし、怒鳴りたい人は怒鳴ります。
なぜなら、怒りを爆発させたい、怒鳴りたい、それがその人のしたいことだからです。それをすると気分がよくなると信じているのです。
「そうすると気分がいいから、そうしたい!」と思っている人に「そうするべきではない」と言っても、あまり説得力がありません。
本人がこころの底から、怒りの爆発も人を怒鳴ることもほんとうの解決策ではなく、むしろ自分も相手もダメージを受けてしまう、だから「もうこのやり方はやめよう」と気がつくまで、それがやむことはないのです。
いったん確立されてしまった習慣というものは、その人がしっかりとした認識をもって「やめる決心」をするまで、そのプログラミングは生きつづけるものなのです。
人は結局、自分がしたいようにすることしかできないので、その「したいようにしている」怒りに関して、巻き込まれて被害者にならないようにすることが大切です。
たとえば、「怒鳴りたい人」がいる場合、その対象となる「怒鳴られる人」は決して気分がよいものではありません。怒鳴られることによって、こころがひどく傷ついてしまう場合もあります。
しかし、いったん「この人は吠えたい犬と同じで、ただ怒鳴りたいだけなのだ」と理解することができれば、それは「自分に対して」行われているのではないことに気づきます。そして、客観的に落ち着いて対処することができるようになります。
ただ静かに「私にどうして欲しいのかを伝えてください」と言ったり(これは、その人の怒りと伝えたいと思っている内容とを切り離すのに役立ちます)、あるいは相手の感情がおさまるまで静かにその状態を味わい愛でていることもできます(これは、その人の怒りの劇場に参加することなく、自分はシラフな状態を保っていることです。まったく参加しない人が目のまえにいるき、相手は怒りをもちつづけることが難しくなります)。
私たちが怒っている人を苦手とするのは、「その怒りは、自分に対する攻撃だ」と個人的にとらえ、恐れを感じてしまうからです。
そして、自分はこのように怒られても仕方のない存在なのだ、と受け入れてしまうのです。
しかし、ミスをしたから、あるいは何かがうまくできないからといって、怒鳴られて当然なのでしょうか? ミスと怒鳴ることは、まったく結びつきません。
たとえ何かミスを犯してしまったとしても、ミスを指摘されたり、修正をうながされたり、ダメ出しをされるようなことはあるかもしれませんが、そこに怒りが加えられる正当なことではないのです。
ただ、「きみがこんな失敗をして残念だ」「どうしてこうなったと思う?」「解決策は?」「対処法は?」と静かにいちばんよい立て直し方法を話しあうことができます。
しかし、怒りをぶつけてしまうと、相手はこころを閉ざしてしまうし、ともに理性を失い、それ以上有益なコミュニケーションがとれなくなってしまいます。
どのようなことにおいても、起きている出来事と怒りは結びつけられるものではないのです。
爆発しやすい人は、ただたんに罪悪感や無価値観という劣等感を自分の内にためこんでおり、それがガスのように自分のなかに充満しているがために、ちょっとイラっとすることで簡単に着火してしまいます。
そして、その小さな火花で、ガス爆発が起こったときのように周りに破壊的な影響を及ぼすエネルギーを撒き散らしてしまうのです。
またそのような人は、溜めこんでいる感情のゆえにとにかくそれらを放出したいので、ほんの小さなイラっとしたことで大放出という大きな爆発になってしまうのです。
大爆発を起こした人は、そのときにはスッキリしたように感じるかもしれませんが、じつはあとからイヤな気分に襲われるか、あるいは好ましくない体験に遭遇したりします。
なぜなら、こころは相手を攻撃してしまった罪悪感に襲われ、罪悪感を感じていれば、その気持ちを相殺するために自分に対してイヤな体験を作り出し、「ほら、私もイヤな思いをしているから、おあいこね!」とそれで平等になったと安心するからです。
イヤな気分や望まない体験が自分の怒りの爆発と関係していると気づくことがないので、その因果関係を認識することはなく、改善することもできません。
このように怒りを爆発させつづけることが好きな人がいるということをアタマにおいたうえで、人とのつき合いをもつことが大切です。
もしも、怒りのガスがたまった相手が着火してしまった場合には、被害者になったり、怒りの劇場に参加したりせずに、ただ静かに見守り、ガスが抜け切るのを待ちましょう
怒りにホンロウされることなく、毅然とした態度で「声を荒げていると内容がよくわかりません。どうしたらよいのかを教えてください」などと、ものごとの要点の方に注意を向けるようにしてみましょう。
他者の怒りの本質が理解できるようになると、自分の怒りも客観的に見られるようになります。
ものごとに対して怒っているのではなく、癒やさなければならないポイントが浮上していることに気づきます。そして、それを正しく見て、癒すことができるようになります。
怒りに対して、恐れを感じることなく客観的な目線をもってみましょう。それは「強さ」の表現ではなく、「弱さ」から悲鳴をあげているように見えるようになるかもしれません。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )