furukawaさんのブログ

すがすがしい新緑

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

このところの雨降りで、すっかり景色がかわっていました。

芽吹いたばかりの初々しい緑はすっかり色濃くなり、淡い桜のつぎに姿をあらわしたのはポッテリ可愛い八重桜。

四季はゆったりとうつりかわり、コロナのことなどどこ吹く風です。そこでアワアワしてるの人間だけですね・・・ (^^;;

 

 

 

どんなときに春を感じる?

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

私が「春がきた!」と感じるときは・・・

「確定申告を提出し終わったとき・・・」

「ふと、沈丁花が風にのって香るとき・・・」

「仕事を終えて外に出ても、まだ明るいとき・・・」

「目黒川が桜見物の人でごったがえすとき・・・」

「年に一回の排水管清掃がやってくるとき・・・」

・・・ということで、きょうは春の訪れを告げる排水管清掃です!

そうそう、先日、お友だちからバレンタインのお返しのお返し(笑)としていただいたコスメも春を感じる色合いでした。

「K-POPのスターが使っていたことで、人気になったんだよ〜」ときらきらラメ入りアイシャドウをいただきました♡

チークのような色に見えますが、まぶたにのせると落ち着いたブラウンよりのコーラルピンク。ラメがとってもこまかくて、ツヤッと発色します。

大人女子にもじゅうぶん楽しめるラメ感です。

ここ数日、冬から一転、初夏感満載のお天気ですが、この春気分があがるコスメでお出かけしたくなっています♪(Kちゃん、いつもありがとう〜♡)

 

 

 

お茶の間シネマトーク「僕のワンダフル・ライフ」

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

ベイリーという一匹の犬目線で語られる、ラッセ・ハルストレム監督の作品。

イーサン少年に愛されたベイリーは、イーサンが青年になり、おじさんになり、やがて老いて亡くなるまで、大型犬になったり、小型犬になったり、健気に何度も生まれかわってきます。さらに、イーサンが亡くなったあとも・・・。

続編の「僕のワンダフル・ジャーニー」を含めると、通算六回も! まさ間髪入れずに、じゃんじゃんという感じで転生してくるのです。

なぜなら、彼には大切な目的があるから。

見ていて、これは犬ごとではなく人の物語のように感じました。

自分がすべきことをちゃんと成しとけるまで、まるでバネで引き戻されるように、あっというまに戻ってきちゃう。

ベイリーのエライところは、何度生まれかわろうとも自分の目的にまったくブレがないところ。

ちゃんと覚えていて、嗅覚を武器にわき目もふらずにそこに突き進みます。(私たち人間ときたら 、あっちにふらふら、こっちにふらふら・・・汗)。

しかし、いくらベイリーが目的に忠実であっても、なんせ犬なので言葉が使えません。お目あての相手を見つけても、「ホラ!あのときのボクだよ!覚えてるだろっっ!?」て伝えられないのがたまにきず。

一方、言葉が使える私たちは、自分の不正直な言葉に自分で自分が騙されるしまつ。目的にも一貫性がなく、ちょっとばかり見た目がいいものにはすぐに飛びつき ・・・ そのため、何度やってきても成果があがらずじまいです(汗)。

やるべきことを覚えていても話せないのと、何も覚えていないけれど自由に話せるのと・・・どっちがいいのやら?!(苦笑)

犬はあらゆる情報を鼻でキャッチします。嗅覚をたよりに未来を予測し、素早く行動しているのです。(嗅覚は人間の10万倍ですと?!)。

「まずいことが起こりそう」とか「ハッピーなことが進行している」とか、人の感情も「甘い匂い」とか「いやな匂い」とか鼻で嗅ぎわけて、コトが起こるまえにすばやく危険を回避するのです。嗅覚はまさに、犬のインスピレーションともいえます。

この嗅ぎわける素早さとそれを完全に信頼するこころ、見習わなくちゃね。私たちには鼻ではなくこころで感じる直感があるにもかかわらず、自分のこころでさえも信頼しきれていませんもの。

ベイリーが何度も何度も生まれかわってくる目的はただひとつ。たとえ違う自分になったとしてもしっかりこころに刻まれていて、その目的のためなら野をこえ、山をこえ、街をかけぬけ、目的に向かって一直線。

この使命に捧げられたまったくブレないまっすぐなこころに大いに学ばされます。

愛犬家さんにはたまらないお話ですが、そうでなくても大切なことをたくさん思い出させてもらえる作品です。

(予告を見る→「僕のワンダフル・ライフ」「僕のワンダフル・ジャーニー」

PS ラッセ・ホルストレム監督作品のオススメは、「マイライフ・アズ・ア・ドッグ」。こちらは犬になりたい少年のお話。あと、「ギルバート‥グレイプ」「サイダー・ハウスルール」も好きです。

他に、こちらも楽しめます。

*「ショコラ」めずらしくジョニー・デップが厚塗りなしでイケメンを演じています。もれなくチョコが食べたくなる作品。
*「マダム マロリーと魔法のスパイス」星つきフランス料理店の真向かいに開店した移民が営むインド料理店。このはりあい方がおかしい。これインドの映画だっけ?と思ってしまうようなノリのよさと色彩にあふれた楽しい作品です。

 

 

 

空気がおいしい朝

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近所のサクラも少しづつ散りはじめたようです。

ゆっくりと眺めることもできずにいたので、早朝少し歩いてみることに。

外に出ると、なんだかめちゃくちゃフレッシュな感覚。

空気が新鮮、というか豊か、というかおいしい、というか・・・風にのってながれてくるさまざまな自然の匂いに身体が喜んでいるよう。

朝の空気の癒し効果ってすごいなぁ、と思っていたら、

あ! ・・・ わたし、マスクを忘れてきたのだわ!と気づきました。

ちょっとあわてましたが、

以前は、贅沢にもこんなフレッシュな空気をあたりまえのように胸一杯吸いこんみ、味わっていたのですね〜!

空気のおいしさに感動するとともに、今の不自然さをあらためて感じてしまったのでした。

いつも満開のサクラ並木に近づくとほんのりと香りを感じていたものですが、今年はわからずじまい。

それでも、サクラはいつもどおりに美しく咲き誇っておりました♡

気づきの日記「こころの不具合に気づきましょう」

 

スマホやパソコン、家電などは、誤作動しはじめたらすぐに直します。

「それ」自体を直します。

でも ・・・ 私たちは「こころ」が誤作動しはじめても、直そうとはしません。ほっておきます。

ほっておくので、誤作動はつづきます。気づかれるまでつづきます

なぜ「こころ」はスマホやパソコンのように、すぐに直せずほっておかれるのでしょう?

それは、「こころ」の不具合は「こころ」とはまったく別のところに現れてしまうから。

不具合は、自分の「こころ」のなかではなく、自分の「目にする世界」に問題として現れるのです。

それは、人との不和であったり、経済的な欠乏であったり、身体の病であったり、世界で起こる災いであったり、生死にかかわる状況であったり・・・あらゆる問題という形をとります。

そうなると、その問題にこそ飛びつき、それを修正しようとしてしまいます。

これが、「問題」というものがいつまでたってもくり返し、片づかない原因です。

「こころ」の不具合が、自分の見ている世界というイメージのなかに現れることで、それが何なのか、何が原因なのかがわからなくなってしまうのです。

すると、「こころ」を直そうとするよりも、世界や人をいじくりまわすことになってしまうのです。。

また、「こころ」の具合悪くなっていても、「具合が悪いのだ」ということを認めることができないということも、正すことができなくなっている原因のひとつです。

修正するためには、修正するものについてしっかりと気づいている必要があります。間違いを間違いだと知り、意識されていなければ、正されることはありません。

私たちは自分のこころが苦しい思いで占領されていても、そのツライ状態をスルーして見ないふりをしてしまいます。

苦しんでいる、ということ自体が、もうフツウではないのに、フツウではない状態に正直になれないのです。

目のまえの世界のフツウでない状態には敏感ですが、自分の「こころ」のフツウでない状態には感心がありません。

なぜなら、「形」あるものこそが自分に利益を与えてくれると思っているので、形のない「こころ」などかまってあげても何のご利益もないと信じているからです。

私たちは自分の「こころ」に対して、優秀は検査技師のようにならなければなりません。

精密機器のようにきれいにし、正確に作動すべく気づかってあげなければならないのです。

「こころ」の状態こそが、自分のすべてが立ち現れ、自分をとりまく世界を決めるからです。

自分が安らでない、幸せでない、喜んでないなら、なにかがおかしいと気づくべきです。すぐにそれに気づけるようにならなければなりません。

こころの状態に正直になり、すぐに正しているのであれば、見える世界は穏やかになります。

自分のこころの不具合を自分の外側の世界にぶちまけることで、自分を苦しめ、痛めつけることがなくなるからです。さらに、その解決の仕方がわからなくなる、という自作のトリックにはまりこむこともなくなります。

安らかな世界のなかに住みたいと思うのなら、自分の「こころ」をウォッチしなければなりません。

「このような状態である必要はない、私は幸せでいてかまわないのだから」と自分のこころの不具合を修正する習慣をつけましょう。

修正するためには、間違った思いを手放して、ただこころをカラッポにし、きれいにしてあげましょう。

カラッポにして、静まりましょう。

正しい「こころ」は、すでにそこで待っています。

 

 

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気づきの日記「ニセの自分にご用心」

 

コンタクトレンズの交換で眼科に行ったら、先生に「あなた、目がめっちゃ乾いているわよ〜!パッサパサ」と言われてしまいました。 ・・・ 目が砂漠化してる?!(汗) たしかに最近、世界が白っぽいな〜と思っていました。

ドライアイの目薬(これ胃薬と同じ・笑)をいただいたら、くっきり鮮やか! ・・・ でも、言われるまではそんなものかと受け入れていましたが。

美容室でも、髪をカットしたあと首や肩をマッサージしてもらうと、「鉄板でも入れているんですか?肩をマッサージしてると突き指しそうですよ〜」といわれることたびたび。 ・・・ え〜〜〜!永年、軟体動物だと信じてきたのにっっ!

そういわれて、ちょっと首の体操したら、イタタタ・・・たしかに凝っているらしい(汗)。

自分のほんとうの状態って、わかっているようでまるでわかっていないのです。

違和感というものはまるで、顔にサランラップがピターーーッと密着しているような状態。

はじめはヘンだと思ったはずなのに、毎日くっついているとあまりの密着度にだんだん慣れっこになってしまうのです。でも、その端っこが1ミリでもはがれようものなら、いきなり「こんなものをつけてたのっ!」とビックリするのですが。

自分とあまりに一体化してしまったモノは、まったく気づくことができなくなります。そして、まがいものの自分をこしらえてしまうのです。

こころもおんなじ。

一定のこころの状態(怒り、悲しみ、絶望、孤独、あきらめ、無関心・・・)が長くつづくと、それは一過性のこころの状態ではなくなり、まるで自分のアイデンティティになりかわってしまいます。

少しづつ起こるので、そんなニセのアイデンティティにのっとられていることさえ気づけないのです。

ほんとうは、もっと喜びを感じることができるのに、幸せであっていいのに、安らかであっていいのに、愛を感じていいのに ・・・ どんどんその感覚がわからなくなります。

その副作用で、イライラ、トゲトゲしている自分さえもふつ〜になてしまうのです。

このまがいもののアイデンティティ、人ごとではなく、じつは誰もが犯されている病でもあります。

誰もが「ま、こんなものかな、死にそうでもないから、これで幸せということにしておこう」と妥協することで、ぜんぜん喜んでもいないし、安らかんでもないのに、「幸せな自分」「うまくいっている自分」を演じ始めてしまったりします。

すべての変化は、「自分がそれに気づく」ことによってしか生まれません。意識できることが大切なのです。

だから、「これでいっか!」といってしまうと、自分で自分にウソをつくことになり、うすらぼんやり不安な世界のなかで「幸せだ」と自分を信じこませたりしてしまいます。

かといって、不平不満をとなえましょう!ということではありません。

日々のいろいろなことにもちろん感謝をしながら過ごすのですが、本当の自分を見失わないために自分の今の状態に正直になることです。

それは、そのときに自分の感じていることに正直になってみること。

「今、どう感じている?」

「あ、大切にされていないように感じて悲しんでいるんだね」
「思うようにならなくって、イライラしているんだね」
「さっき言われたひとことに傷ついているんだね」

その気持ちを無視したり、なきものにするのではなく、そんな自分をちゃんと認めてあげましょう。

「そうなんだ。そう感じてもいいんだよ」
「感じてみようよ。どんな感じがしてる?」

私たちは自分にとっておもしろくないことが起こると、「不平不満」という文句やセリフでアタマをいっぱいにしてしまい、その下にある「どんな感じがしているのか」という感情を無視してしまいます。

大切なのは、セリフや文句はいったんストップして、「今、感じていることをちゃんと認める、感じる」ということ。

「感じる」ことは、受け入れること。「文句をいう」ことは、抵抗すること。

ちゃんと受け入れられたものは、意識の光が当てられることで、その意識のなかに消え去ってゆくことができます。

抵抗してしまったものは、さらにエネルギーが注がれ、パワーアップしてゆくことになります。

感じることがとどこおりなく行われると、ニセの不満足な自分というアイデンティティを維持することがなくなります。

ほんとうの自分(完全な満足)の上にホコリのようにかぶさっていた不平不満の感覚を取り去ってあげることができるのです。

自分にピターーーッとはりついて一体化している「そこはかとなく不満足」な感覚を取り去るために、そのときそのときの自分の感じていることに敬意をはらって、しっかりと受けとめてあげる習慣をつけましょう。

少しづつ、努力なしに「穏やか」「幸せ」「嬉しい」「楽しい」という感覚が自分のなかにあることに気づくと思います。

 

 

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さくら餅

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昨日は雛祭りらしく、あたたかな一日でした。

夕方、近所の和菓子屋さんに桜餅を買いに行ったら、ナント、売り切れ!

あちゃっ! 出遅れちゃいました。コロナ禍でおうちで楽しむ方が多いせいでしょうか?

・・・ けど、大丈夫! コンビニがあるさっ!

最近のコンビニスウィーツは、専門店より優秀だったりします。

なんせ、バラエティ番組で涙を流しながら、星つきプロから容赦のない愛のムチで鍛えられていますからね〜!(ジョブチューンでは、開発のかたがた、みんな泣いちゃうのですよね〜・涙)

そうはいっても ・・・ お星さまキラキラのプロの方々も、百円とか二百円代で同じクオリティを出せるのでしょうかね〜?!この価格を考えたら、相当なものだと思います♡

さてさて、和菓子屋さんの二件先にセブンイレブンさん発見!

ありました〜、ピンク色の和菓子♪

もっちりとしたもち米に、なかはなめらかな白っぽい餡子、そして桜の塩漬けがあしらってあります。

上品ないい香りでとってもおいしかった♡

あの番組のしごき(?)と涙の結晶として、コンビニの食品は日々クオリティアップですね。スウィーツ好きとしては、手軽に本格的なお味が楽しめて嬉しいかぎりで、感謝、感謝です♡

 

 

 

気づきの日記「こころのミソギをしましょう!」

 

コロナ禍のご時勢で、ふだんは感じたこともないさまざまな感情に出くわしている方も多いことと思います。

不安やイライラというフラストレーションにはじまって、自分の存在をおびやかされているような孤独や怖れに直面している方もいらっしゃるかもしれません。

そんな馴染みのない感情に出くわすと、私たちはどうしてよいのかわからなくなります。

そもそも、外の世界との向きあい方のお勉強はいろいろしてきましたが、トント自分の内側にあるこころに関する学びはしていないからです。だから、こころの扱い方がわからないのです。

すると、慣れない感情に圧倒されて感じないフリをしたり(感情の切り離し)、目をそむけたり(飲酒、ゲーム、買い物、ネットなどへの依存)、とにかく感情から逃げようとしてしまいがちです。

誰かに話すとヨイとも言われますが、もちろんコミュニケーションはこころの健康には欠かせないことですが、根本的な解決策とはなりません。

私たちがしてしまいがちなのは、その感情から逃げてしまうことなのです。

その結果、感情は行き場を失い、こころの奥深くに抑圧され、それが自分自身と自分の目にする世界に映し出されるようなり、自分をおびやかすことになります。

感情はしっかりと受けとめられてこそ、消えさることができるのです。逃げるのではなく、受けとめることが必要です。

すべての誤り(感情を含めて、自分にとっての妨害に感じるもの)は、自分の意識の光にさらされることで消滅させることができます。それは、こころの痛みに意識的になる、注意を向ける、ということです。

私たちの意識は、まるで闇のすべてを照らし出し、撲滅させるパワフルなレーザービームのようなもの。なぜなら、私たちこそがその光の源だからです。私たちの意識のなかで消えさることができないものは何もありません。

だから、自分をおびやかすような感情に出会ったときには、決してソッポを向かないことが大切なのです。

自分から近づいて行き、ちゃんと見て、受けとめてあげることをしなければなりません。

そうすると、それらは自分の光のなかに溶けさってゆきます。

受けとめるときには、ちょっとしたコツがあります。

それは、コトバやストーリー、ラベルを使わないこと。

動揺を感じたら、その感情にコトバやストーリーをくっつけないようにします。ただ沈黙します。価値判断しません。そうすると、それはただの中立的な感覚となります。ただのエネルギー的な感覚です。良くも悪くもなく、恐ろしくもキケンでもありません。

たとえば、正座をしていて足がしびれちゃったときのよう。ビーーーンという感覚や、ジンジンしたり、ひきつれたり、ドクンドクンしたりしています。

感情はコトバをつかわないことで、ただシンプルな感覚となります。それをそのまま受け入れてみましょう。

足がしびれたときも、ただビーーーーンという感じに自分をゆだねていると思います。同様に、そこにある感情の感覚に自分をゆだねてみましょう。

すべては、逃げることなく、すすんで自分の意識のなかに迎え入れ、無条件に受け入れてあげることが大切です。

感情に対して、この無条件の受け入れができたならば、あとはお酒でも、ゲームでも、買い物でも、いつもどおりにお好きなだけどうぞ。

でも ・・・ もしかすると、そんなに強迫的に飲みたくなったり、ゲームをやりつづけたりという感覚がなくなり、あっさりと満足してしまうかもしれません。

何かに執着しているときには、その執着心や依存心の下には隠されたままになっている未解決なものが存在しています。

執着じたいをどうしかしようとしがちですが、いったいなにを隠すためにそれをしているのかを見てあげることこそが大切です。その下にあるものが癒されると、同時に執着心も依存症も緩和されるのです。

さまざまなストレスにさらされる今だからこそ、ちょっと時間をとって、じっとこころを感じてみましょう。

じつは、日常的に自分がどのように感じているのか、こころの状態のチェックをすることは大切なことなのです(こころは定期検診がないですものね!)。虫歯のようにズキズキしてくれるまえに、こころはいきなりバッタリいってしまうのです。

今、あなたはここちよいですか? 安らいでいますか? リラックスしていますか?

もし、ぷち不安があったり、落ちつかなかったり、ざわざわしたり、あるいは強い怖れを感じているようだったらい、少しゆったりとしてご自分のあるがままの感情を受け入れる時間をとってみましょう。

あれこれのコトバや名札をはずして、その感覚を迎え入れてあげましょう。

感情を否定したり、隠したりすることなく受け入れてあげることで、感情はどんどん解放されて、軽く自由になってゆきます。

そして、ついには感情というゴミの下に隠されていた本来の自分があらわれはじめます。それは、じつは何にもおびやかされることのない、怖れることのない、ゆるぎない安らぎの自己の感覚です。

感情というゴミに直面してあげることで、自分でも知ることのなかった自己に出会うとができます。その自己こそが、どんなときでも力づよくあなたを支え、幸せの源となってくれます。

こんなふうにふだん感じたことのない感情を感じている今だからこそ、自分の自己という宝ものに向かって、どんどんこころを浄化してあげるミソギの機会へと変えてあげることができるのです。

 

 

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コロナの世界に、春よこい♡

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お友だちへのブツのうけわたしでお茶をしたとき(←このいちいち注釈をつけたくなっちゃう不自由感・・・苦笑)、

前回「ステキだね〜!私たちの御用達にしよう!」 とお気に入りになっていたカフェが、あとかたもなく姿を消していました。

ここに限ったことではありません・・・。恵比寿も、代官山も、中目黒も、お散歩コースの風景が変わりはじめていて、長いことなじみだったお店が消えはじめています。

慣れ親しんだ風景が変わってしまうのは寂しいけれど、なんとか冬の時期をやりすごして、新しい季節がきたら、また自然が芽吹くようにそれぞれが新しいスタートをきることができたら・・・と願わずにはいられません。

日に日に陽射しも暖かさをまし、陽あしも長くなり、お花やさんの店先には春のお花があふれてきました。季節がうつりかわるように、コロナさんもどうぞ逝っちゃってください。

米国の友人がワクチン接種の二回目を終えたと言っていました。元気そう。

その誇らしく(まだ少数しか接種していないので)晴ればれした口調が、まるでスーパーマンにバージョンアップしたかのようで、笑ってしまいました。

はやく、マスクなしの笑顔で集える日がやってくることを心待ちにするばかりです。

PS お気に入りのお店はクローズしていたけれど、おいし〜〜〜いスフレパンケーキのお店を発見!しゅわしゅわ、ふわふわ、癒されました♡

久しぶりに会うお友だちとのひとときも、とても貴いものに感じられます。
もうしばらく、我慢しながら元気でがんばろう!と、カツを入れあいました(笑)。

 

 

気づきの日記「ことばを手放してみましょう」

 

Q:人の反応やら、外側のことが気になり、あれこれ考えて疲れてしまいます。

A: あれこれ考えてしまうまえに、すでにその状況に対してあれこれ独自の意味づけをしているのだと思います。その意味づけに対して、あれこれ考える必要が生じてしまいます。

まず、とにかく、黙りましょう。

静まりましょう。

あらゆることに対して、意味、意見、価値判断、解釈、ストーリーを作ることをやめにしましょう。

ただ、こころを静かにし、言葉(考え)というものを使わないようにしましょう。

言葉(考え)を使わないということは、意味づけも、解釈も、価値判断もできなくなります。

私たちが混乱しているとき、その出来事や状況に混乱させられていると感じていますが、

じつは、自分の秩序のない考えに自分のこころがホンロウされているだけなのです。

状況を目にしたとき、すでに自分で「何が起きているのか」「どういうことなのか」「どうなるのか」「この意味は何なのか」を即座に決めつけてしまっています。

なおかつ、それらが真実であって、他の意味などないように感じているのです(自分の信じる考えとはそういうものです。それが真実となってしまいます)。

でも、ものごとにはじつは「意味」がありません。「ただ、そう」なのです。

ということは、私たちは「個人的な見解によって、ものごとの意味をでっちあげ、その意味によって自分をコワがらせ、動揺させ、自分で自分を忙しくしている」ということにまります。

自分を混乱させるのも、自分を怖がらせるのも、自分をパニックにするのも、自分を追いつめるのも、全部自分の考えだけなのです。他にはありません。

そして、その考えは全部まちがっています。

そうなると、ハタから見たら(天から見たら)、「なにをしているのですか? なにもないところに、自分の考えで問題をでっちあげて、その考えに跳びあがっておどろいて、それをどうにかしようとあたふたと時間を費やしているのですか?」と。

でもそれって、この世界で退屈せずに時間をやりすごし、またこの世界にギモンを抱かずに忙しくするためのよい方便なのかもしれません。

自分で自分を混乱させたいための解決策は ・・・ こころを静かにすること。

言葉をまったく使わないこと。

そして、すべてを干渉せずにほっておくこと。

「問題だ!」と騒がないかぎり、それは「問題」になりようがありません。

言葉を使わないときに、それは「問題」とはならずに、静かに目のまえを通りすぎるだけで、消え去ってゆきます。

川辺に立って、川の流れ(ものごとの流れ)を静かに眺めている心境になってみましょう。

肩のちからをぬいて、ゆったりとして、言葉というものを手放して、ただカラッポのこころですべてをそのままに愛でてみましょう。

そう、川べりでリラックスした休日を過ごしている人。

そのためには、自分の見ている画面から数歩うしろにさがって、画面の外に出てしまいましょう。ただ遠い過去の画像を眺めているような感覚です。

なにも考えずに、ただ目のまえのものごとを判断せずに、ただ行かせてあげて、自分はくつろいでいる・・・ そんな感覚でものごとをながめてみましょう。

さらに、言葉を使わずにこころをからっぽにしておくと、そこに自分でも予想もしなかったものを見つけるかもしれません。

それは、本当の自分の強さ、ゆるがない「平安の感覚」であり「光」です。

ほんとうの自分に出会うためにも、ただ、ただ静かに、「静けさ」に耳を澄ませてみましょう。

 

 

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