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たとえそこにないものであっても、私たちが「ある!」と思うならば、自分にとっては何でも見ることができます。
それが、私たちのこころのちからです。
自分のこころが「そうだ、あるんだ!」と思った瞬間に、それは自動的になされます。なんでも見たいものを見ることができるほど、私たちのこころは想像力豊かで、創造力旺盛なのです。
けれど、実際に「自分のこころのちからを使っている」とは自覚していません。「それはそういうものだからそうなっているのだ」と、外側のどこかにその原因があるのを好みます(まるで、何でもスパっと切れる刃物を渡されて、自分の指を切り落としてしまう怖れを感じて、まったくそれを使わなくなるのと同じように、こころのちからはお蔵入りしてしまいます)。
「ない」のに「ある」ことにしてしまう最たるものは、「問題」と呼ばれるやっかいごとです。
お気に入りのものを「ある」ものにするよりも、困ったことを「ある」ものにすることの方がお手のものなのです。
「ない」ものを「ある」ものにする一番の方法は、それに対して不平不満や文句を言う、怖れる、抵抗する、疑問をもつことです!
なぜなら、それらは怖れの気持ちとひとつになって強烈なパワーを放つので、そのパワーとくり返しがあれば、もうそれをつくりだして目にするには十分なのです(私たちは煮えたぎるように何百回も感謝しつづけることはありませんが、怒りや怖れ、裁きではそれが簡単にできてしまうのです)。
不平不満、文句の気持ちをもつなら、即座に不平不満、文句を言うべき不具合が目のまえに現れてくれるというわけです。
そもそも私たちが文句を言いたいのは、そこに問題があるからではなく、「文句を言うことによてこころが落ち着く、救われる」からです。
文句を言うと、こころが一瞬エネルギーを放射して、スッキリと回復するように感じられるのです。まるでカンフル剤。リフレッシュします。
ためにし、ぜったいに裁かない、何があっても文句を言わない、何に対しても疑問に思わない、みじんも怖れを抱かない、と決めてみてください・・・ 即座にザワザワしてきて文句を言いたい、裁きたい、何か不満を言いたい!と感じているのに気づくと思います(笑)。
文句を言ったり、裁くことをすると、自分のなかに渦まいていたモヤモヤとしている感情を、自分が目にしている外側の何かのせいにできたように感じて、自分はそのイヤな感じから解放されて、無罪放免になったように感じられるからです(ほんとうは、それをしてしまったあと、時差があって、もっとイヤな気分になってしまうことに気づいていません)。
結局、私たちは「このモヤモヤは、あなたのせいなんです。だから、思いっきり裁いちゃったら、なんかすっきりしましたよ。だから、あなたが悪くって、私が正しいってことで、決着をつけさせていただきます」と、人を裁いてヨイ人になる!という変な解決策で納得しているわけです。
外側が間違っていると言ってしまえば、自分のこころを変える必要がなくなりホッとするからです。
それで落ち着いたように感じるかもしれませんが、「問題がある!」と言ってしまったので、自分がつくり出した問題を見ることからは逃れることができなくなります。
このワナに落ち込まないためには、裁かないこと、文句を言わないこと、欠点をみつけないこと ・・・ つまり、「問題がある」と言わないこと。
「問題がある」と言わないかぎり、問題は生まれようがありません。
じっと黙っていて、こころがシンと静かでなにも浮かばないとしたら ・・・ そもそも問題を認識することはできません。
裁きの思いや価値判断によって、わざわざ「存在しない」問題をつくっていたことに気づきましょう。
結局、その思いこそが、それが目のまえに出現するきっかけとなっていたのです。
不平不満、裁きはなんの役にも立ちません。何もこころに思いをもたずに、ただ穏やかにすべてをそのままに受け入れてしまうことにいたしましょう。信頼して、流れに身をまかせてしまいましょう!
そうすることで、「すべてはそのままでもう大丈夫なのだ」と自分の体験に教えてもらうことができます。そのままがいちばん安全なのです。
自分の目にする世界の安らかさは、世界にケンカを売ることなく、優しくそのままに受けいれてあげること、なのですね♡
PS. 裁くことをやめて ・・・ 自分のなかのモヤモヤがおさまらないときには、
モヤモヤの原因となっている思いを探求してみることをオススメします。
「私はモヤモヤしている・・・なぜなら?」と何度も問いかけてゆくうちに、そのまさに原因となっている「思い」を発見することができます。
それを高い自己(ハイヤーセルフ)にわたして取り去ってもらうと同時に、モヤモヤ感はあるがままに感じてあげることで終わりにしてしまいましょう!
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
まさにチャーミングの権化、オードリー・ヘプバーンの作品です。
「ローマの休日」がイチオシですが、こちらのサブリナの可愛さもピカイチ♡ コートをさらりと脱ぎすてると、フェミニンなワンピースかと思いきや、タイトなトップスとパンツといういでたちにハッとします。
この丈の短いパンツはサブリナパンツと呼ばれ、いまだに人気です。
お金持ちの御曹司ディヴィッドに恋をしているサブリナは、このお金持ちのおうちの運転手の娘。
「いくら憧れても、月には手がとどかんのだ!」と父親にさとされるのですが、サブリナはそんな身分違いなどものともせず、「月が手をさしのべるのよ!」とキッパリ。あきらめる様子などありません。
その言葉のとおり、二年間パリで過ごしたサブリナは、まるでファッション誌から抜け出たようなシックなレディーとなって帰国! (いったいパリでなにがどうなったの? そここそ私は知りたいっっ!笑)
ここから一気に形勢逆転です。ディヴィッドだけでなく、独身をつらぬいてきたおにいちゃんのライナスもサブリナのとりこに。
まるで少女漫画のような展開で「これって、どうなの??」というつっこみどころ満載ですが、コメディなのでよしとしましょう!
しかし、この配役、ナゾです!? サブリナは22歳の設定で、サブリナが惹かれてゆく御曹司のおにいちゃん役のボギーは、実際に亡くなる二年前で56歳ぐらいなのです。(この時代も歳の差カップル存在?!)
ヘプバーンの内側から輝くような美しさは、もう絶滅種レベルですね。もう、こんなオーラを放つ女優さんは見なくなりました。
ファションもまったく古くささを感じません。
このドレス、スカートのセンターが短めになっていて足首からパンプスまでが見えるようになっています。
よく見るとタイトなワンピースにふんわりと大きな布をまとってロングドレスのように見せているのですよね。チョーカーなどもなしで、美しい首筋のラインが強調されています。
余計な色がないモノクロなので、なおさら清楚な雰囲気がきわだっています。
このドレスはどんな色なのだろう?と想像しながら観るのも楽しいでした♪
PS 大富豪のライナスはオフィスに最先端の機器を備えています。
ボイスレコーダーとか、リコモン自動ドアとか ・・・1954年当時には、かなり画期的だったかもしれません。
さらに、割れないガラス、強化プラスチックの上に紳士のみなさまがこぞって乗っては飛びはねて喜んでいる図がおかしかったです。割れないことが珍しかった時代なのですね。
身体から抜け出したあと、そばにつきそってくれている光の存在は、フラッシュバックのあいだじゅうずっとただ大きな愛で包みこんでくれます。そこにはまったく批判や判断はなく、むしろあたたかな共感や理解を示してくれるそうなので、最後の審判といわれるようなシリアスな裁きの雰囲気はありません。ユーモアさえ感じられるそうな。
自分のこころがそのフラッシュバックをどのように受けとめるのか、自分のこころの問題なのです。
その光の存在は、まったく同じ見方ですべてを裁くことなく理解をもって見ることを問いかけているのかもしれません。
だから、ふだんの生活のなかでヘタレな自分を責めることなく、いつも赦して「愛しているよ!」と言ってあげることこそが大切で、それが習慣になっていたならフラッシュバックも慈愛のまなざしで静かに眺められるのかもしれません。
フラッシュバックのあとに存在している境界線を越えた人は誰もいません。ここが、真のあの世とこの世の境目なのでしょうね。
といっても、この境界は、今までのストーリーにさよならして、次の物語のスタートにすぎません。しばらく極上のリゾートでくつろいだら、また別の身体をまとって赤子としてやってきます。
ほんとうの幸せなゴールは、このようなくりかえし(輪廻)こそをこえること。
あのフラッシュバックを光の存在とまったく同じ目線でみられるようになったとき、もう赦すものがなくなったとき、私たちは無限に思えた輪廻コースからようやく卒業して別のルートへと進むことができ、ついに天国(至福の世界)とひとつになります。
すべてが満たされた至福の状態となり、もう身体や世界を思い出すこともなくなるのでしょう。
そうそう! 身体を離れ、光の存在に出会ったときに、いくつかの質問をされるそうな。
それは、「もう行く(死ぬ)準備ができていますか?」「この人生に満足していますか? 見せられることはありますか?」
そして、「他人を愛することを学びましたか」「知識を深めましたか」
これは地上で成し遂げたこととはまったく関係なく、ただどれだけ愛であったのか、そして真理を学ぼうとしたのか、それだけを問われるということです。(形あるものは、身体から離れたとたんに無意味になってしまいます。何を持とうとも、成しとげようとも関係なく、ただ愛があったかだけが問われるべきことなのです。)
ここから戻ってきた人たちは、一様に身体のことはもうどうでもよくなり(なんせ意識だけを体験して、意識が自分だと知ってしまったので)、ただ自分が全体に奉仕するための愛ある人生を生きたいとみんな口をそろえています。
意識の世界では形など関係なく、問われるのは自分の本質である愛の深さだけなのです。
そして、この身体から抜けてしまう体験も、最初こそはびっくりしているものの、すぐに体験したことのない大きな愛と理解に包まれているのを感じ、あんなに気持ちがよくなったことはないといいます。
そして、そこで感じたことは「身体があるときには、ちゃんとやりとげなければならない使命があり、それはそれぞれの愛を惜しみなく与えることなのだ」と心底理解するようです。
あの頃、かなりインパクトを感じたこの一冊の本が、自分がこんな道にすすむひとつの道しるべになってくれたようにも感じます。
そして、今読んでみても、「ああ、やっぱりそうなのね!大切なことは、ただ自分も他人も物ごとも、すべてを受け入れて、赦し愛することなのだ」と納得いたしました。
ものごとを思いどおりにしようとやっきになるのではなく、すべてを受け入れて同調すること、それはものごとをあるがままに愛すること。
自分のこころに裁きの思いがなくなり、すべてを慈しむことができたとき、こころから闘いの思いが消え去り、そこから生まれていたさまざまな苦しみも姿を消してゆくのでしょう。
光の存在が示してくれているあり方、完全な愛と慈しみ、理解、共感こそが、私たちがここで学ばなければならないあり方のように感じます。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
本棚の断捨離の最中、思わず何十年もまえの古い本を手にとりページをめくってしまいました。
それは、高校生の頃に読んだ「かいまみた死後の世界」。
医師であるレイモンド・ムーディ博士が、300人ほどの死から生還した体験のある人たちにインタビューし、多くの人に共通するモデルケースを紹介した臨死体験研究の本です。
出版当時、米国ではかなりのベストセラーになり、日本ではずいぶんあとになって飯田史彦さんの本のなかで紹介されていたように思います。
1970年代は、まだエリザベス・キューブラーロス博士も臨死体験の研究を発表しておらず、「死」について語ることも今ほどオープンでなかった時代です。死に直面したら何が起こるのかは、「チベット死者の書」とか宗教書のなかでしか知ることができませんでした。
私が読んだのは17歳ぐらいのとき。キリスト教にふれていたこともあり、死後も命はつづくであろうと信じていたのですが、臨死体験をした人たちの共通した体験にリアルさを感じたものです。
ムーディ博士が死後の体験の典型的なモデルとして紹介しているのが、順番は前後しつつもだいたいこんな感じの出来事です。
・医師が自分の臨終を伝えているのが聞こえる(死んだはずなのに、自分もしっかりと聞いているのです!)
・そして、耳障りな音とともに、暗いトンネルの中に吸いこまれる(産道を通って生まれてきたように、去るときも細いところを通過します)
・すると、天井のあたりから自分の身体を見下ろしている自分に気づき、「ああ、死んだのだ」と気づく(医者や家族の様子をつぶさに静観しています)
・光の生命やすでに亡くなった存在たちがやってきて、完全な愛と安らぎに包みこまれ、よい気分になる(みんなこの時点で安らぎを感じて、もう帰りたくなくなっています)
・光の生命に全生涯のフラッシュバックを見せられる(自分の生涯のさまざまな出来事を走馬灯のようにレビューします)
・その後、体験したこともないようなすばらしい光がさしている分岐点のようなところまでやってくる(みな、生き返ったので、この分岐点は誰も越えていません)
最初は、身体を離れてしまったことにパニックになったり、身体に戻りたいとあわてたり、これからどうしようと動揺するのですが、だんだん体験したことのない深い愛と平安と軽やかさや自由に包まれて最高の気分になってきます。もう身体に戻るのはごめんだ!戻れと言われてもイヤだ! という気分になるのです。(しかし、自死の場合は、そのときの混乱がそのままリアルにつづいているようです。その後はわかりません。)
おもしろなと思ったのが、身体はなく意識だけとなっているにもかかわらず、煙のようなモヤモヤした形があるそうで、それは球体で下の方がすぼまっていて、小さな手もあるそうな・・・ まるでアニメのオバケ! (アニメのオバケがまねっこしたのですね!・笑)
このモヤモヤの身体と意識だけとなっていますが、依然、今までと変わりなく見たり、動いたり、聞こえたりするので、最初は「死んでいる」ことになかなか気づかず、まわりの人に話しかけたり、触れようとしたりします。
でも、自分の声は聞こえていないし、物や人は自分をすり抜けてしまうので、ようやく「死んじゃったのね」と気づくよう。(まるで、映画の「ゴースト」や「シックスセンス」の登場人物のようです。)
人やモノへの執着が強いと、ずっとまわりの人に話しかけたり、自分の家のなかをうろうろしたり、すんなりと次の段階へ進めないようです。(心霊写真って、こういう人たち?)
高校生のときに読んで、「えっ、どうしよう!?」と衝撃を受けたのは、死の直後に見せられる自分の全生涯のフラッシュバックについて。
こどものときから、亡くなるまでのあらゆる瞬間を見せられるのですが、自分の気持ちとそこにかかわっていた相手の気持ちの両方を感じとる、といいます。(こころのレベルでは私たちはひとつなので、ひとつのものとして感じてしまうのでしょうね。)
その当時、「いい人にならないとエライことになるわ!」とアセったものですが、今、ふたたび読みかえしてみると、少し違った印象をうけます。
フラッシュバックを完璧にすることなど、誰ひとりできないのです。完全な人間などいないからです。失敗はつきもの!
だから、いい人になろうとして犠牲をしてガマンしてフラストレーションをかかえて生きるよりも、(もちろんできる限りのやさしさと慈愛をもってすべてに対応することは必須ですが)、じゅうぶんに優しくできない自分、やっぱり失敗してしまう自分、どうしても憎んでしまう自分、結局は攻撃してしまう自分、まったく愛でない自分こそを愛して赦してあげることが重要なのです。
どんなときにも、自分自身を赦し愛することこそがレッスンです。そして、自分が赦せているなら、私たちは人をも簡単に赦せるようになるからです。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
きょうのおやつで〜す♪
「ちょっと早いけれど、バレンタインチョコがわりに・・・」とさし入れをいただきました。恵比寿 レザネフォールさんのスウィーツ♡
このお店は近所なのでたまに伺うのですが(モンブラン、シュークリームをリピートしています)、このチョコレートケーキはお初です。バレンタインシーズンのラインナップ?
まわりがナッツとチョコでしっかりコーティングされていて、チョコレートバーのようにずっしり。
なかは三層のクリーム、土台はサクサクのメレンゲで、全体的にヘーゼルナッツやオレンジピール、リキュールがきいたガナッシュクリームのような味わい。
レザネフォールさんといえば、テリーヌのようなショコラケーキで有名です。だからチョコケーキはおハコなのでしょうね。
濃厚な味わいで、ヨーロッパスタイルの濃いコーヒーにとてもあいます。ひとつでかなりの満足感!
おうちバレンタインには、こんなチョコケーキを一緒に楽しむのもいいですね。
シーズンが終わるまえにもう一度いただきたい大人チョコスウィーツでした。ごちそうさま♡
恋♡をしているとき、私たちは幸せな気分になります。
世界は以前よりもよいところに見え、ステキなことに満ちているよう。
それは世界が突然、自分に対する態度を変えたわけではなく、ただたんに自分のこころの状態が変わったからです。
こころに、優しさや愛、思いやりがあることで、自分のこころが自らを幸せにしてくれているのです。
・・・ということは、幸せになりたいのだったら、ただシンプルに優しさ、愛、思いやりの気持ちをいつもこころにキープするだけでよい、それらで満たしておくだけでよい、ということです。
ところが・・・ 私たちときたら、不平不満を言うことや裁くこと、攻撃することにかけては秒殺の早さを誇る達人です(それにおいてはコントロール不能! 自分でも気づかぬうちにもうやっちゃてます・汗)。
その秒殺は相手に向けられているだけではなく、自分の幸せも即死させている・・・ということになかなか気づけません。
先日もクライエントのAさんと話していたときのこと。
「ダンナに対する攻撃の言葉はまるでマシン銃のごとく無意識に連発できるのに、感謝のことばはまるで口にできないのです」とAさん。
まさに、私たちのこころのなかは不平不満、文句、裁きの思いの無法地帯でたれ流し状態ですが、感謝や愛の思いに関してはまさに気づいても気づかぬフリで通りすぎています。
チラリと相手に対して「ありがとう」と感じたとしても、言葉にされることも、行為で示されることもなく、一瞬で消えさってしまいます。だって、ハズカしいじゃな〜い、わかってるでしょ?!って。
日々、お店で、病院で、いろいろなところで感謝すべきことは多々あるのですが、面と向かって「ありがとう!」「助かりました」と全部伝えてはいないのです。
しかし、何かが起こったときにはじめて、「じつは、すごく感謝していたんだよ!」とあらためて口にしたりします(遅っっっ!汗)
なぜこうなるのか?
私たちにとって、無意識のうちに「自分を守らねば」という気持ちが強く、感謝するよりもキケンを察知することのほうがずっと大切だからです。だからこそ、すぐに不具合を見つけなければならないのです。そのための文句であり、裁きなのです。
でも、幸せとは、さきほども書きましたが、こころのなかの幸せ、愛、思いやりがあってこそはじめて感じられるものなのでした。
そうなれば、まずは自分がどれだけ文句たらたらなのか、裁きたくってしょうがないのか、攻撃的なのか、このさい正直にしっかりと知ることが大切です。(攻撃的というのは、被害者になりたがる、ということも含まれます。被害者はいつも、攻撃を見ているからです。それも攻撃のひとつの形です。)
何かを手放すためには、手放す対象がちゃんとわかっていなければなりません。
だから、どちらかといえば、「え〜〜〜!私のこころはこんなに不平不満と攻撃心でいっぱいだったの?! ガ〜〜〜ン!」とショックを受けることは、癒しにおいては正直でよい兆候なのです。みんなそんなものだからです。
でも、そこで立ち止まらず、気づいたらそれを自分の高い自己(ハイヤーセルフ)に渡してしまいましょう。自分で大切にして、使いまわしていたものを自分では手放せません。すべて高い自己に回収してもらいましょう。
回収してもらううちに、本来の自分の愛であるものの見方が復活することになります。無理ににイイ人になろうとする必要はないのです。もともとそこにあるものだからです。
今まで自分が無意識のうちに不平不満、裁きをたれ流しにしていたことに気づいたら、ただ逆の方向に進もうとしてみましょう。
それは、今までチラとこころをかすめていた「ありがとう」の気持ちをちゃんとすくいあげてあげること。外に出してあげること。
それは無かったのではなく、じつはただ素通りされていただけなのです。あらためて表現の機会を与えてあげましょう。
怖れからわき起こる不平不満や攻撃の気持ちを野放しにすることなく、気づいて手放しながら、このような温かなこころを復活させてあげることこそが自分を幸せにする第一歩です。
自分を幸せにしてくれる自分の愛と優しさに気づいて、出し惜しみすることなく大きく解き放ってあげましょう。それは自分を包みこみ、どこまでも大きく広がって、そしてまた自分を幸せにするために戻ってきます☆☆☆
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
クリスマスにお友だちのKちゃんからいただいたコスメ。
いつも自分では選ばないチョイスをしてくださるので、「あ、こんな色もあり?!」と新しい発見の連続です。
アイシャドーは、春を感じるようなちょっとスモーキーで優しい色合い。リップグロスは、くちびるがぷっくりとした感じに仕上がります。
年が明けたら使おう♪ ときめていましたが ・・・ またもやガマンの緊急事態宣言(泣く)。お出かけも先のばしに。
春には、新しいコスメでKちゃんと久々のランチがデートができますように♡
私の好きな俳優さん、シアーシャ・ローナンとティモシー・シャラメが出演しているこの作品。「若草物語」の最新リメイク版です。
私の世代は「赤毛のアン」シリーズの方が人気があったので、「若草物語」は一度しか読んだことがなく初めてのような新鮮さで楽しめました。
19世紀の終わりごろのウィスコンシン州。黒人解放にかかわる牧師である父親が長く留守をしている一家は、母と四人姉妹だけ。
作家志望である次女ジョーの目をとおして紡がれる、女ばかりの家族の貧しくともなんとも賑やかな日常。
まだまだ性差別が強く、女性が生きづらかったアメリカ社会で、大人になるまえの娘であり姉妹である少女時代を惜しむように姉妹と母、そしてお隣の老人やイケメンくんとの出来事がイキイキと綴られてゆきます。(→予告を見る)
ある日、ジョーの態度に腹をたてた四女のエイミーが、ジョーが完全にうちのめされるようなことをしでかしてしまうのです。
そのときのエイミーのセリフが、「ジョーを傷つけるためにはこれをするしかなかった」と。
ひゃ〜〜!「がっつりと傷つける意図があってやった」と言ってしまうところに口があんぐり。友だち関係だったら、一生修復はむずかしいでしょうに。
うちのめされたジョーは悲しみと怒りがおさまらず、エイミーと目もあわせずさけていたのです。けれども、さすがに姉妹。ついには赦して受けいれます。そして、なにごともなかったようにいたわりあう関係に。
なぜならジョーにとっては、憎むことよりも姉妹としての「つながり」の方がずっとずっと大切だったから。ジョーにとって、家族全員にとって、この絆こそが生きるちからだったのです。
この時代のファッションも可愛いらしいです。
腰までとどくふわふわのロングヘア。ボリュームのあるギャザーのロングスカートに編みあげブーツ。たっぷりしたブラウスにざっくりと編んだ大きめのカーデガン。エディ バウアーやむかしのローラ アシュレイのイメージです。
家族を助けるためにジョーがロングヘアをお金にかえてしまうシーンがあります。
自分の意志で髪を売った気丈なジョーでさえ、夜中にひとり「私の髪が〜・・・」と大泣きしていました。それに気づいて抱きしめるエイミー。
ロングヘアはまさに女性としてのシンボルのようなものだったようです。
自立心が旺盛で、夢をあきらめない勇気があり、自分の道をつきすすむジョーであっても、いちばん愛しているのは家族であり、家族があってこそそんなジョーでいられたようです。
「ブルックリン」や「レディーバード」の頃よりも少しほっそりとしたシアーシャ・ローナンが、そんなジョーのイメージにぴったりでした。
映画のなかでは、現在のストーリーが過去の出来事とのあいだを行ったりきたりするので、ちょっと混乱しそうになりますが、あたたかな四姉妹に励まされる作品です。
PS *ティモシー・シャラメは、美しさに磨きがかかっておりました♡
四姉妹のお隣さんである青年を演じているのですが、こんな姉妹たちがお隣に住んでいたらそわそわして当然。彼もじっと椅子に坐ってお勉強などしていられない様子でした(笑)。
*ピアノが得意な三女のベスが演奏する場面があります。流れるような美しいメロディーはベートーヴェンの「悲愴」の第二楽章とシューマンの「こどもの情景」から「見知らぬ国」。
どちらも、ステイホーム中に私が弾いていた曲なので嬉しくなりました。
「見知らぬ国」は、「ソフィの選択」のなかでもネイサンが異国からやってきた恋人ソフィのために弾いておりましたっけ。ピアノのまえに坐るソフィの後ろに腰掛けて弾くシーンはとってもロマンチックで、この美しい旋律にぴったりでした。
新しい年があけ、あっというまに日常がまわりはじめました。
今年の新たな決意さえも、忙しい日々にまぎれて「あれ?なにを決めたんだっけ?」とアタマのかたすみで忘れさられているかもしれません。
変化を起こしたいとき、私たちは大きな改革を一気に起こそうとします。今まで進んでいた方向から理想のゴールへ、えいっ!と一気に180度曲がりきろうとするのです。
でもそれは、いまの自分とはあまりにかけ離れているのでリアリティがなく、あっというまに興味が失われます。キラキラ輝くステキな決意の一瞬として、日記や手帳のかたすみに消えさります。
そうならないためにも、
なにかを変えたいと思うときには、「ほんのちょっとの違い」を大切にしましょう。
少しだけ、いつもの自分とは違う、バージョンアップしている自分を大切にするのです。
そのバージョンアップとは、思いや言葉や行動です。
表現されることはほんの小さなことかもしれませんが、その下にある意図は大きなものも、小さなものも、意図としてはまったく変わりがありません。意図は意図として偉大なのです。
大きさに関係なく、愛は愛であり、やさしさはやさしさです。
たとえて言えば、100人に対するやさしさも、1人に対するやさしさも、こころのやさしさとしては変わらないものです。
いつもだったら「ここまででいいや・・・」と満足している思いやりを、もう一歩ふみこんでみる、とか。
「ありがたかったな〜」とか、「助かったな〜」とか、「そういうところステキだな〜」とこころのなかでひそかに感謝して、口にしないままになってしまう思いを、あえて相手の人に伝えてみる、とか。
関係が気まづくなって、相手から離れたいと思うときに、勇気をだしてそこにとどまり、自分の正直な気持ちを伝えてみる、とか。
つい怒ってしまいそうになる場面で、「どういうことか理解してみよう」とふみとどまってみる、とか。
とにかく、いつもよりプチ、思いやりや、やさしさ、気遣い、勇気、愛、正直さをバージョンアップさせてみること。ここまで!と思っていたことを、もう少し盛ってみること。
いくらそれがプチであろうとも、そこにある意図はプチではないからです。
私たちのこころは、そんな小さな方向転換を「変化」としてしっかりとキャッチします。
そして、方向転換の意図はかならず、自分の目にする世界に同じものをはっきろと示してくれるようになります。
気がついたら、自分のプチな意図が大きくなって、広がって、自分を包みこみ、そんなやさしい世界に住んでいることに気づくかもしれません。
プチであろうが「意図」こそがすべてです。表現の大きさは関係がありません。
だから、こころのなかでささやかでも愛とやさしさと思いやりの炎をともしたら、それを世界にかざしてみましょう。
マッチ売りの少女のごとく、ともされた炎はきっと違う世界を見せてくれるはず・・・♡
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
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