furukawaさんのブログ

お茶の間シネマトーク「バレエボーイズ」

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

まだあどけない面影が残る三人の男の子たち。

14歳というと、まだ青年でもなく、少年でもない、そんな年齢。

サナギが変貌をするように、日々、体格も、顔つきも、声色も、語る言葉も、物腰も大人びてゆくのが見てとれます(自分もこの年齢、こんなだったのでしょうか?)。

そんな実在する三人の男の子の日常を4年間にわたって追いつづけたドキュメンタリー作品なのですが、彼らはちょっとばかりふつうの男の子とは違うのです。彼らは、バレエボーイズ。

バレエを習う女の子は多いなか、男子は希有な存在。彼らは、オスロのバレエスクールで、日々ダンサーを夢見て練習にうちこむそんなバレエ男子なのです。

勉強も忙しさをますなか、バレエの練習もかなりキツく早朝から夜遅くまでつづき、友人と遊ぶヒマもないクタクタな毎日。そのうえ、先生に進路についてのプレッシャーをかけられ ・・・。

このまま自分を信じていいのか? この道をつっぱしっていいのか? プロへの道は拓けるのか? はたして才能はあるのか? ほんとうに努力は実るのか? ・・・ 希望と不安が交錯します。

でも、踊ることは大好きで、踊っていると気持ちがいい、自由を感じる、と。

とにかく、三人の男の子たちがかわいらしいです。

まだ中学生なのでどこか恥じらいながらも神妙な顔つきで、女の子の腰に手をそえて回転をサポートをします。「女の子と踊れるのは楽しいけど、舞台で失敗したらずっと恨まれる・・・」と苦笑。

コンクールやバレエスクールの進学において、三人は険しい道を支えあう仲間ならではの強固な絆が感じられます(ホントに仲良し♪)。きみたちがいるからこそできるんだ! という感じです。

いちばん練習熱心なルーカスは、バレエは夢、踊っていると最高に楽しい!と。コンクールで大失敗してしまったシーヴェルトは、それでも名の知れたダンサーになりたいと。スポーツ万能のトルゲールは、本気で望みさえすれば何にでもなれる・・・と。

4年に渡る撮影でみんなどんどん背が高くなり、ついには180センチ越え。女の子を軽々リフトする青年に成長します。

迷いや葛藤のなかにあっても、喜びや希望に輝く彼らの表情は、ホンモノだからこそとても美しいのです。

それから?それから?・・・と、彼らの成長を身内のように見守っているうちに ・・・ え?ここで終わり?! うっそ〜〜〜!(汗)

もっと観ていたかったのに〜〜♡ 

おもわず、その後を検索しちゃいましたよ。すると、「バレエボーイスその後」なるサイトが存在(笑・みんな気になっていたのね!)。

彼らのその後の道のりに、「うんうん・・・そっかそっか〜♡」と親戚のオバサンのように微笑んでしまいました(笑)。

彼らの情熱と無垢なまなざし、それを静かに見守るご両親の愛情や不安、かけがえのない仲間との友情や別れ ・・・一緒になって、がんばれよ〜〜!とエールを送ってしまう作品でした☆

涙壷度:★☆☆☆☆(旅立ちの場面はホロリときました)
(→予告を見る

 

 

 

気づきの日記「理由のわからない感情に悩まされるとき」

 

米国制作のドキュメンタリー「死者の記憶をもつ子供たち」を観ていました。

以前、日本のバラエティでも一部紹介されましたが、その子のものではない記憶に苦しめられる子供たちを取材しています。

その記憶というのは、たとえば第二次世界大戦だったり、9.11、ホロコースト、すでに亡くなっている有名人など、自分ではない誰かの記憶です。

子供たちは、そのリアルなイメージや恐怖感によって怯えつづけたりうなされたりするのです。

我が子の苦しむ様子にいたたまれなくなった両親が、子供からその詳細を聞きだし調査をすすめてみると、戦時中や実際の出来事において、子供の記憶と同名の人物が存在し、同じ体験をして亡くなったことが明らかになります。

まさに、その子供たちは亡くなっている人たちの生前の記憶を自分の記憶のように持っているわけです。このドキュメンタリーのなかではその遺族と面会(再会?)するという場面も見られました。

子供たちは、その記憶にただホンロウされるのではなく、正面から向き合うことでしだいにそれから解放されてゆきます。

まるで、その人物の恐怖や無念やさまざまな思いが癒されて無くなってゆくように。

たしかに ・・・ なくなる直前に恐怖に直面し、その恐怖をかかえたまま亡くなったとしたら、それは心に鮮明に刻印されうることもあるでしょう。

そして、輪廻という時間軸(これもひとつのものの見方にすぎませんが)から見れば、癒されていないものこそを抱えて再びやってくる、ということも不思議ではありません。

へえ〜〜、おもしろいね! と感じられるかもしれませんが、

これは誰にでも少なからずあるように思います。

子供たちのようにここまで鮮明でなくとも、誰もが子供の頃に同じ夢を何回も見ていたり、同じような恐怖心を感じつづけていたりしていることもあります。

あるいは、何かの出来事によって心の深いところが刺激を受けると、その記憶が表面に浮上してきて、わけのわからないザワザワ感だけが感じられるようなことが起こります。(あの子供たちのような鮮明なストーリーや画像は欠落しているため感情だけが感じられるのですが、じつは心の底にはストーリーも画像もひそんでいます。これはヒプノセラピーなどをしていると鮮明に現れます。)

私も五歳ぐらまでは、同じイメージをくり返し見てはうなされ、毎晩母を起こしていたものです。

それは、浜辺に打ちあげられた難破船と波内ぎわの骸骨のイメージ。死んじゃったあとは、自分を外から見ているのでおそらくあれは自分ではないかと感じています。なので、この人生では海は好きだけれど、水のなかでゴボゴボするのは大嫌いで泳ぎたくありません。

クライエントさんやお友だちからも、まったく幼児体験とは関係ない恐怖を小さい頃からずっと感じていた、という話を耳にします。圧死する恐怖、孤独死する恐怖、人から責められる恐怖、裏切られる恐怖 ・・・。

生い立ちや身に覚えのない恐怖を小さいころから強く感じていた方は多いのです。

初対面の人になんかザワザワする、というのも、詳細の記憶はなくなっていても、その感情だけは抱えているパターンですよね。

この子供たちのように過去世としての鮮明な記憶でなかったとしても、私たちのなかには自分では理由がわからない「感情」の刻印は残っているよう。

愛情深い両親のもとで大切に育ったのに、強い見捨てられ感があるとか。悲惨な体験はしていないのに、いい知れぬ恐怖が襲ってくるとか。裏切られた体験なんてないのに、絶対裏切られるという頑な信念を持っているとか。恋愛でツライ体験をしたこともないのに、とにかく異性に嫌悪感を感じるとか。・・・・

ヒプノセラピー(リラクゼーションを使い潜在意識を癒すセラピー)を行ってみると、みなさんなんらかの過去世らしきイメージやストーリーや感情が浮上してきます。まるで、この番組の子供たちが他の人の記憶を持っているように。

やはりそれは、戦時中だったり、災害だったり、その人生のなかでのインパクトのある事件だったり、あるいは個人的な悲しい出来事だったり ・・・ そこで強い恐れを感じたため、心に刻印されているようなのです。

そして、この子供たちと同様、それらの記憶や感情に正面から向き合い、受けいれてあげることで消え去ってゆきます。

まさに無念、後悔、執着、罪悪感こそが同じことをぐるぐるくり返させる原因であることがわかります。

それらは、心のなかで認めて、受けいれられたときに、穏やかに消滅してゆく(成仏してゆく)ことができます。

そうですよね。何か後悔があるときに、誰かに耳を傾けてもらって、「そうだったんだね!うん、うん、そっか〜!」と聞いてもらえたら、気がすむのと同じですよね。

もしも ・・・ご自分のなかに、自分の生い立ち、人生ではあるはずがないような「恐怖」「動揺」「執着」「混乱」など、ある種のパターンがあるようだったら、

それを無視してなきものにしようとするのではなく、とことん耳を傾けてあげましょう。

もしかすると、その感情を感じているうちに、ふとストーリーを語りたくなるかもしれません。あるいは、あるイメージが浮かんでくるかもしれません。あるいは、ただただその感情がよりリアルになってくるかもしれません。

ただ受けとめて、小さい子供の話を聞くように受けとめてあげましょう。それにあるがままに語らせてあげましょう。

自分のものではない記憶と向きあった子供たちのように、きっとそのわけのわからない感情はそれによって満足して、落ち着いてくると思います。

無視すること、逃げること、なきものにすることなく、正面から向き合うことが解放のカギになるのですね!

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

 

ヤンソンさんのムーミン

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

銀座の地下通路を歩いていたら目にはいった「ムーミン コミックス展」のポスター。

あなたはどれが気になりましたか?

テレビアニメのムーミンも可愛かったけれど、ヤンソンさんの原画のムーミンも味があって大好きです。

PS 文具を買いに銀座の伊東屋さんに行ったら、地下通路の景色がまるで変わっていてビックリ!

今までは、通路のディスプレイやら広告、ビルの入口などでどこにいるのかすぐにわかったものですが、全体的にブラックのモノトーンとなりどこを見ても同じようで、位置も方向もまったくわからずしばし立ち尽くすありさま。

巣ごもりして地上に出たら、タイムトラベルしちゃった感じです(汗)。

 

 

コロナに効く(?)和菓子

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

お友だちに何か季節を感じるお菓子を買おうと和菓子屋さんに行ってみると、

いきなりインパクトのあるビジュアルが目に飛びこんできました。

このロン毛にクチバシは、まさかの ・・・ アマビエさま?!

ついに、練りきりまでもが・・・(汗)。

私のアタマのなかでは、菊とか紅葉とかお月さまという秋らしいお菓子の絵が浮かんでいたのですが、

まあ、アマビエさまも、季節ものといえば季節ものですものね(笑)。

しかし・・・練りきりの味も吹っとびそうなこのカラフルな色あい、どうよ?!

いえいえ、これ以上もの申すと、アマビエさまの失礼にあたりますから(苦笑)。

アマビエさま、お友だちのおうちで無病息災、どうぞよろしくお願い致します!なむなむ・・・

アマビエさま、お友だちとすぐに仲良しのご様子でした♪ヨカッタ!

 

 

 

気づきの日記「天国は・・・そこじゃない」

 

映画「天国は、ほんとうにある!」のなかで ・・・ 生死をさまよう体験をした幼い男の子が見た、この世ではない別の世界の話が語られています。

その男の子はまず、手術を受けている自分を真上からながめ、別の部屋にいた父親の取り乱す姿を目撃し、そのあととても美しい世界に行き、キリストに導いてもらいながら会ったことがないおじいちゃんに会ったり、この世に生まれてくることのなかったお姉ちゃんに会ったり・・・。

これは、男の子が実際に体験したことを記した同名の本を映像化したものですが、まさによく耳にする臨死体験の典型です。(→予告を見る

「喜びから人生を生きる!」という本でも、臨死体験をした女性がその体験をとおして自身の病が癒される様子をつづっていますし、他にもそのような臨死体験を記した書籍はたくさんあります。みな同じことを報告しているのがおもしろいところです。

でっちあげであったなら他の展開があってもよさそうですが、だいたい同じようなことが起こっています。さらに、この男の子も自分が知りえないことをその臨死体験のなかで知ることになります。

いまいち不思議に感じたのが、牧師をしている男の子の父親が、男の子の話す「あの世」の話にひどく動揺するということ(牧師さんは、いつも天国を指し示しているはずでは?!)。そして母親も、もうその話はしないようにと男の子をたしなめます。

死のように見えるのはまさに脱皮のようなトランスフォーメーション(形がかわること)で、そのあとに恐れのない世界があるのだとしたら、まさに願ったり叶ったりです!

さらに、「死」という名で引き裂かれたように見えた人たちと再会できるのなら、なにを怖がる必要があるのでしょう?

むしろ、楽しみにすることなのかもしれません。(けれど、苦しみから自らの命を断った場合は、また違った体験になるようですが。)

この作品では男の子が「天国を見てきた」としていますが ・・・ ほんとうはそうではありません。

この人生と次の人生のあいだの休憩所を見学してきたにすぎないのです。天国はそこではありません。

そこは「中間生」と呼ばれている場所で、ここでしばらく楽しみながら直前の人生の疲れを癒したら、再びこちら側に引き戻されます。

「未来」へと、あるいは「過去」という時間へ、はたまたさっきまでやっていた自分とまったく同じ人、同じ人生で「さあ!もう一回やってみようか?!」と再演を促されるかもしれません。

なんのために「もう一回やってみようか?」なのでしょうか、なにをやり遂げなければならないのでしょうか?

私たちは、俗にいう「いい人」になることが自分のしなければならないことで、もしこの循環を断ち切って天国に行けるとしたら、「いい人」であることが条件だと思っているふしがあります。

「いい人」って、なんだろう? よいと思ってやったことも、別の視点から見たら誰かを傷つけているかもしれません。

また、「いい人」になろうとして、ギセイすることで(ガマンすることで)、自分のなかに不満、怒りをためこみ、自分を見失ってしまうかもしれません。

私たちが「もう一回」やらなくてはならないのは、「すべてをあるがままとして受けいれる」ことです。

それは、自分のこころが紡ぎだした世界に対して、もう維持するためのエネルギーを送りつづけることをやめて、自分の手から静かに手放してあげることなのです。

手放しさえしたら、それは消えてゆきます。天国があらわれるスペースを与えます。

でも、反応しつづけているときには、握りしめているのです。

だから、たとえまったく同じ人生に戻ったとしても ・・・ ( 本人は記憶がないので気づきませんが、もう数十回やってることだってありえるわけです。あ、そんな映画ありましたね!「恋はデジャブ」でした)、

こんどこそは、不平不満を言ったり、誰かを責めたり、被害者になったり、自暴自棄や自分勝手になることなく、起こることに反応しつづけるのをやめて、自分のつくりだしたイメージとして静かに受けいれ、ゆるさなければならないのです。

それができてこそ、ようやくの天国なわけです。

天国には「人」はいません。天国は、肉ダンゴのままでは入れないのです。自分の本性である光(スピリット)を自覚してこそ、ようやく天国に近づくことができます。

すべてを裁かずに受け入れることによってこそ、肉ダンゴという肉じゅばんの呪縛から自由になることができるのです。

ダンゴでなくなったとき、天国への階段に見えるのでしょうね。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

マスクライフ

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

コロナとの共棲生活がはじまって早半年がたとうとしていますが、すっかりマスクライフが日常になってしまいましたね。マスクと顔が一体化してしまいそうです(汗)。

金木犀のよい香りがすると、マスクなしでおもいきり深呼吸したくなってしまいますが・・・。早く解放される日を願わずにいられません。

以前は、白以外のマスクは目をひくものでしたが(よく、アジア系外国人の方がチェックとか色つきをつけられていましたが)、今では色、柄ともにずいぶんとファッショナブルになってきました。

お出かけ用に、秋色マスクが欲しいな〜と思っていたら、R子さんに手作りのマスクをいただきました。洋裁をはじめられたので、マスクも作られたそうな。

ふんわりとやわらかな布で、色もシックでステキす。手作りマスクは、どこか守られているような安心感がありますが、R子さんをイメージするとさらに暖かさが伝わってきます。

大切に使わせていただきますね〜。ありがとうございます♡

 

 

 

気づきの日記「ついつい口を出しすぎてしまうとき 〜バカボンの歌を口づさむ〜」

 

「大学生の息子さんの恋愛や行動に、つい口を出しすぎて煙たがられてしまう」というA子さん。

 

としごろの息子さんに限らず、私たちはコミュケーションにおいて相手の言葉や態度のみに気をとられ、抵抗したり、拒絶したりして、なかなかそこにある「想い」を受け取ることができません。

 

 

 

親が口にする「頑張りなさい!」は「あなたならきっとできるから、頑張りなさい!」であり、「気をつけるのよ!」というひとことも、「今日もあなたに安全に過ごしてほしいから、気をつけてね」という愛や励ましがこめられていたりします。

 

しかし、こどもにとってはそれを圧力と感じ、「わかっているよ!」「それ以上言わないで」と抵抗や怒りを感じてしまうのです。

 

それは、受け取る人のなかにある被害者意識や、自信のなさによって、その言葉を自分なりに解釈してしまうからです。

 

もし、自分を信じることができ、安心しきっていたならば、きっと「お母さん、大丈夫だから!心配しなくていいよ」と穏やかに伝えたことでしょう。

 

こころが不安定だと、相手から愛を伝えられたとしても、それを素直に受け取ることができません。自分の怖れが愛を帳消しにし、攻撃に置き換えてしまうのです。

 

怖れや心配、疑いがこころにあると、つねに自分の体験を歪めてしまうことになりかねません。そのため、自分のまわりからたくさんの愛を送られていようとも、それを感じとることができず、自分は愛されていないという被害妄想に陥ってしまうのです。

 

 

このようなコミュニケーションの歪みは、誰もが経験することです。

 

自分のこころのなかにある痛みのせいで、私たちはなにひとつ正しく知覚することができないのです。そして、安全な環境のなかにいようとも、くつろいで幸せを感じることができません。

 

ここで大切なことは、「自分が知覚するすべては、自分のこころが選んでいる」ということを認識することです。

 

心地よくない体験をしているのなら、体験そのものが間違っているというよりも、自分のこころが間違っているため、正しくものごとを認識できていない、ということです。

 

自分の体験していることが気に入らないなら、いったん立ち止まってみましょう。

 

「私のこころこそが動揺していたたため、不安な世界を目にしたに違いない。こころを落ち着ければ、別な世界を見ることができるのだ」と気づいてみましょう。

 

そして、軌道修正のために仕切りなおします。

 

「私が見たいのは、このようなものではない。安らぎと完全さだけを目にしたい」と決め直し、ものごとをもういちど見てみましょう。

 

 

たとえば、息子さんんに「あなた、そんなことで大丈夫なの?」と声をかけたくなるとき、

 

「あ、これは自分のなかにある怖れを息子のなかに見て、自分で心地よくないストーリーをでっちあげている。間違っているのは彼ではなく、私なのだ」と気づくことです。

 

そしてこころを落ち着けて、「私が見たいのは、完全さ、安らぎだ」と決め直します。

 

さらに、自己の高い意識であるハイヤーセルフに「今の状況を愛のなかで見られるように助けてください」とお願いしてみましょう。

 

愛をもって見ているとき、怖れや不安、疑いは姿を消し、安らぎのなかでものごとの意味が変化してゆくのがわかります。

 

意味が正されれば、こころは穏やかさを取り戻し、その穏やかさが自分の目にする世界、体験へと広がって、安らぎの世界を見せてくれます。

 

 

今まで握りしめてきた怖れや心配の想いは、とりあえずハイヤーセルフに渡してしまいましょう。そして、ここからは愛のなかで完全さだけを見るのだ、と決め直しましょう。

 

息子さんに対しても、心配からたくさんの言葉をかけるよりも、ただ信頼し、安心のなかで見ようとすることで、なによりも自分自身が落ち着くことができます。そのスペースのなかで、息子さんも自信を取り戻し、心地よくものごとを進めることができるようになります。

 

自分自身が「見たい!」と決めたものは、必ず見えてきます。それが自分の世界となるのです。それこそがこころの力です。

 

だから、自分が喜べるものだけを見るのだ!と決めましょう。

 

 

怖れや疑いに呑まれそうになったら、ぜひこの歌を口ずさんでみましょう。それは、「これでいいのだ~♪」というバカボンの歌です。

 

すべてはそのまま放っておいても大丈夫なのです。必要なのは、安らぎのなかでハイヤーセルフとともにものごとを味わい愛でること。それだけです。

 

もし、何かすべきことがあれば、そのためのインスピレーションは必ずやってきます。あるいは、気づかないうちに、自動的に必要な行動を起こしているかもしれません。

 

ハイヤーセルフにつながって、安心して過ごしましょう♪ きっと、たくさんの愛や安心が見つかるはずです。

 

 

 

温かい紅茶でほっこり

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

つい先日まで、日中はお散歩もできないほどの灼熱地獄だったのがウソのよう。あっというまに気温が下がり、すっかり秋の気配です。

冷たい飲みものもいつしか口にしなくなり、もっぱら温かい紅茶がおいしい季節。とっておきのお茶っ葉をポットに入れて、読書する時間がお気に入りです。

今年の夏、よく作ったのは水出しアイスティー。

Janat というフランスのブランドのアールグレイを使っていたのですが、クライエントさんにも口々に「このお茶、何ですか?おいしい!」と言われました。

水出しで作ると、ベルガモットがやさしくスッキリ軽い味わいになるようで、とても口あたりがよいのです。

そんなわけでこの夏お世話になった Janat ですが、お友だちが「表参道にティールームがあるんだよ!」と連れて行ってくれました。

まあ、雰囲気のあるお店だこと! この時期、あまり混み合っていないのでゆったりできます。

「茶道」というものがあるぐらいだから、お茶をいれるのはシンプルでありながら難しい作業です。自分でいれていても、「コレ!」と納得するのは何回かに一回だったりします。

でも、人がいれて下さったお茶はどれもおいしく感じます。

この日は、マスカットとアールグレイ。

ティーウォーマーで出てきた紅茶はガラスのポットに入っていて、きれいな琥珀色。見ているだけで癒されます。

これを書いているそばから、紅茶が飲みたくなってきました。さて、きょうは何のフレーバーにしようかな〜??

 

 

気づきの日記「どんな世界を目にしたい?」

 

私たちは、人生が予想外な展開になると動揺します。人や出来事に、世界に、人生に脅されたと感じるのです。

けれど ・・・ 実際は、脅かしているのは「自分」のほかにはいません。

この世界では、複数の数字でものごとを考えるのがあたりまえになっていますが、真実は「一」です。ひとつだけです。(動揺しているときには対象物があり「二」になっていますが、これはすでに知覚に間違いがあるというしるしです。)

もしひとつだけが真実であるならば、自分以外にはそこに関係していないことになるので、自分で自分を脅かしていることになるわけです。

自分が目にするものは、自分の無意識(気づくことができないこころ)のなかで何を見るかを決めています。

そして、その結果が目のまえに現れてはじめて、自分の思いに気づくことになります。しかし、外側のことは自分と切り離して考えるクセがついているので、まさか自分のこころの現れだとは気づきません。

自分で自分を脅かしておいて、ひどく仰天する・・・わあ、なんだかすごく消エネなギャグですね(笑)。

このようなカラクリのため、目のまえのことをただ変えようとしてもうまくいかないのです。自分のこころのなかの決断の現れと闘うことになるからです。

そして、自分が自分と闘っているときほど、無力に感じることはありません。

なぜなら、敵をたたくことはまさに自分をペシャンコにすることだからです。攻撃的な気持ちを抱けば抱くほど、自分の身にこたえることになるのです。(どんどんパワーダウンします。)

このように「自分で自分を苦しめている」と認識できるまでは、ほんとうの変化を起こすことはできません。

ものごとを改善する方法はただひとつ、それはまず「認める」ことです。

「これはまぎれもなく私がそうしたことである」と。

ある意味、受け入れることであり、ものごとは受け入れられたときに収束に向かいます。過ぎ去ることができるのです。

もうこれ以上注意をむけられて、継続のための燃料を注ぎこむことがなくなるからです。燃料切れで消えてなくなります。

そして、受け入れたあとは、今までのこころの決断は間違っていたことを認めて、こころ新たに自分がほんとうに目にしたいものを決め直します。

どう決めなおすのか。

それは、「もう自分で自分を痛めつけることをやめる」ということです。

「苦しみ」を手放したかったら、自分のこころのなかにある物ごとに対する批判のおもい、「間違っている」とか「罪がある」という考えを一掃しなければなりません。

「私は間違いばかりを目にして、批判したり、攻撃したり、傷つけあうことができる世界を信じていたけれど、それは結局自分に対する攻撃になっていた。私は幸せになるために、間違いや罪という思いをきっぱりと手放したい。ただ、愛と完全さから世界を見たい」と望むこと。

もう「間違いを見ることをやめ」にしたい!「愛と完全さだけを見たい」という思いこそが、自分が見るものに変化をもたらしてくれます。

それがほんとうに自分が見たいものであるのなら、もちろんそれしか目に入らないからです。

間違ったエゴのこころは、誰かに間違いを見つければ、その数だけ自分は偉い人になれると信じてきましたが、それが自分の知覚である以上、目にするものを自分自身の証とならざるをえません。

そうであれば、なにがなんでも、愛や優しさのある世界、すべてにおいて完全さが輝いている世界を「見よう!」と決意してみましょう。そして、見せてもらえるようにハイヤーセルフに助けをもとめましょう。

決めることこそが、私たちの真のちからです!

あとは、ハイヤーセルフがエゴの知覚から新しい知覚へとスイッチしてくれることでしょう。

これは、自分の世界を力づくでコントロールしようとするよりも、ずっとラクチンだと気づくかもしれません☆

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

お茶の間シネマトーク「ハロルドとモード」

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

「歳を重ねたら、これをやりたいと思っていたの!」と黒柳徹子さん。それは、今演じていらっしゃる「ハロルドとモード」という舞台のお話。

「ハロルドとモード」?? あ〜、むかし、この映画を観たのを思い出しました。

裕福な家庭で何の不自由もなく育ったハロルドは19歳。かなりの無気力青年です。

唯一情熱を傾けられるのは、自身の自殺劇。自分の自殺を演じることについては、あの手この手が尽きません。母親が連れてくるお見合い相手のまえでもそれは繰りかえされ・・・。

そんなハロルドが出会ったのが79歳のモードという女性。世間から見たら、「変わりもの」のレッテルを貼られそうなキテレツおばあちゃんなのですが、二人はあっというまに意気投合します。

どんな常識も通用しないモードの生き方に触れて、ハロルドのこころが解放されはじめます。

そして、ハロルドはついに思うのです。「モードを愛してる! 自分が結婚したいのはこの女性だ!」と・・・。(→予告を見る)

今回この映画を見直してみたのは、この二人はいったいどうなったんだっけ? という疑問から。

なるほどね〜・・・。何にもとらわれることがないモードならではです。

観ながら、「もし、私だったらどんな結末にしたかしらん?」とパラレルワールド的な別のエンディングをイメージしてみました。あれもありだよね!これもありだよね! と、楽しい妄想がふくらみました。

はじめは「老女」感バリバリのモードなのですが、ハロルドがこころを打ち明けたあたりから、「あらっっ!!モードったら、すんごく女子だわ! かわいいっ!」とびっくり。

ほっぺはピンクで、お肌はつやつや、表情もどこか初々しく、ハロルドを見つめる瞳も輝いているのです。そして、棒っきれのように頼りなげだったハロルドも、どこか紳士的な雰囲気に!

この映画は1971年の作品なので、今だったらそこまでビックリしない話であっても、その頃はもっと抵抗感があったのかもしれません。

でも、「世の考え」を抜きにすれば、人と人の出会いなんて、いちいち年齢なんて気にしていないように思います。まわりに言われてはじめて、「私っておかしい?」と自分を疑ったり、あるいは先に「歳が違うから」と自分からブレーキをふんでこころを閉ざしてしまうのかもしれません。

人との出会いは、こころとこころの出会いですものね。こころである自分のまわりに余計な信念や考え、ルールがくっついていなければ、誰とでも純粋に出会えて、大切にしあえるのだと感じます。

そんなモード、黒柳さんにぴったりの役ですね〜。