お菓子を頂戴いたしました (◍•ᴗ•◍)
それが、とってもキュートなのです。
こちらがそのハコ。
スイカ柄の巻きすなのです。涼しげでカワイイ! パールがポイントです。
そして、そして、クッキーもスイカなのですよ〜☆
皮のところも、とっても皮っぽいですね(笑)。
種はチョコレート。バターがきいていて、ほんのりスイカが香ります。おいしいです♪
かわいくておいしい癒されスウィーツをありがとうございます♡
お菓子を頂戴いたしました (◍•ᴗ•◍)
それが、とってもキュートなのです。
こちらがそのハコ。
スイカ柄の巻きすなのです。涼しげでカワイイ! パールがポイントです。
そして、そして、クッキーもスイカなのですよ〜☆
皮のところも、とっても皮っぽいですね(笑)。
種はチョコレート。バターがきいていて、ほんのりスイカが香ります。おいしいです♪
かわいくておいしい癒されスウィーツをありがとうございます♡
やめたほうがいいのに、やめられないこと、っていろいろあります。
やめられない理由は、ひとえにそれに「執着している」から。
それが自分に害をおよぼしていようとも ・・・ 意識的に、あるいは無意識的に、結局それが「好き」なのです。
そもそも、私たちは役に立たないと信じていることを絶対やりません。
なので、誰が何と言おうとも、こころはそれがどうしても必要だ!と信じているようです。必要なこととは、自分が生きのびるためには重要だと感じていることです。
たとえば ・・・ タコ。
キケンを感じると、タコは墨を吐きますが、敵のみならず自分もろとも墨のなか。結局、何も見えません。
もっとひどいのは、ミツバチ。攻撃したはずなのに、刺したらすぐに自分が死んでしまいます。
タコにしろ、ミツバチにしろ、その攻撃は自分もろともなのですが、それを自分、あるいは種を守る方法として採用しているわけです。
じつは、私たちも自分では気づかないうちに「これは、自分を守るためのサイコーの方法だ!」と信じて、かたくなにやりつづけていることがあります。
それは「攻撃的な思い」をもつこと。
たとえば ・・・
「このままで私の人生、大丈夫?」「あの人はなんでいつもあんなふる舞いをするのだろう?」「こんなことをするなんて、この人、おかしいのかも?」「昨日買ったブラウス、いまいちだったわ」「英会話教室に行きたいけど、私ついていけるかしら?」「今朝のコメンテーター、よくあんなこと言えるわね?」「デートの約束したけど、またドタキャンされる?」「この子、期末テスト大丈夫かしら?」「この店員、新人?何も知らないのね!」・・・などなど、
こころのなかで思ったり、あるいは面とむかってはっきり本人に告げる場合もあるでしょう。
これらは全部、攻撃の思いです。ときには自分に対して、ときには親しい人に対して、ときにはまったく知らない人に対して、愛にあふれていない考えをします。それが愛にあふれていないなら、もう攻撃です。
タコやミツバチと同様に、必要性を感じるからこそ何気で攻撃的な思いをもつのですが、それはなぜか?
攻撃するということの意味は、私ではなくて「相手こそが悪かった」、だから「私は正しい人」なのよ、と確認することです。
しかし ・・・ 正しい人だと感じる必要があったということは、そもそも自分が自分を間違っていると感じてたに違いないのですが ・・・(汗)。
タコと同様に、私たちの思いにも色がついていたら・・・いちばんビックリするのは自分かもしれません。
「え〜〜〜〜っ!!こんなにずっとわたしはスミを吐きつづけていたのね!」「スミは私を直撃してる!」「自分のスミで何もかも、真っ黒じゃない?!」と。自分の視界を闇にしていたのは自分であったと。
自分のスミにすっかり呑みこまれて、そのなかで何かが襲いかかってくる恐怖を感じ、やたらもがいていたかもしれません。
「や〜だ! 世の中、真っ暗闇だと信じていたけど ・・・ 私だったのね。私がスミを吐きつづけるから何も見えなくなって、コワイからやみくもに攻撃したくなっていたんだわ」と気づくかもしれません。
実際、怖がっていなかったら、まったく攻撃の必要はないのですね。
癒しをするときにしなければならないのは、新しい自分をもってきてくっつけることでも、新たに何かをこしらえることでもありません。
ただひたすら、自分にとって必要のないこと、役に立っていないことを「やめる」ということだけなのです。「やめる」こと以外には、何も必要がありません。
いかに、自分の思いで自分が苦しくなっていたのか(なぜなら、自分の思いを聞きつづけているのは自分ひとりしかいません)に気づいたら、自分の攻撃性にガクゼンとするかもしれません。
でも、大丈夫ですっ! みんなそんなものです。
それよりも、自分の吐いたスミで自分の視界を真っ黒にしていて、まったく何も正しく見えていなかったのだ! ということを正直に認めることこそが癒しのために大切な最初の一歩です。
あとは、自分の思いをなるべく意識するべくモニタリングして、いつハチのひと刺しをしているのか、スミを吐いているのか ・・・気づくこと。
例えば、チラリと毒づく、相手を申し訳ない気持ちにさせる、こころのなかで悪ものにする、批判してコテンパンにする、自分の世界から追いだしておはらい箱にする・・・ などなど、それをしているときにちゃんと意識することができるようになることです。
このひと刺しするような攻撃の思いは、じつは自分に対して毎回ひと刺ししています。
自分の思いに対して、真剣に聞き耳をたてて、つねに聞きつづけている存在は自分しかいません。
そして、それによって着実に自分が弱ってゆきます。つまり、罪悪感をためてゆきます。罪悪感をためると、自分で自分におしおきをするようになってしまいます。
じゃんじゃんスミを吐くことで闇の世界の住人になっていたのだ、と気づけたのなら、ただスミを吐くのをやめればいいだけです。
そうすれば、クリアな世界が見えます。クリアな世界を手にするために、タコは新しい自分をつくらなくっていいのです。スミを断念しましょう。
スミ吐きと縁を切った私たちは、「あれ?わたしってじつはキラキラ発光しているクラゲちゃんだったの? 海がキラキラして美いのは、じつは私の輝きだったのね〜」と気づくかもしれません。
私たちのこころは宇宙をふっとばすほどのフルパワーがあります。そして、24時間ノンストップで稼働中。
それほどのパワーがあるのなら、スミを吐いて(攻撃的な思いをもって)自分をコテンパンにするのか、それともただそれをやめて本来の自分の美しさに気づくのか、ふたつにひとつです。
まず、はじめの一歩は、「今」私はどんな思いをもっていたかしら?とチェックすることです。
かりに、愛以外のものに気づいてしまったとしても、「なんてことなの?邪悪な私」と責めてはいけません。
これも自分に対するさらなる攻撃の思いです。攻撃は外に向いても、内に向いても、自分に対して破壊的であることに変わりはありません。
ただ、この思いは光を放つ私自身には似つかわしくない = 似つかわしくないものは、そもそも私のものではない = 私のものではないのなら、それは手放すためのもの = そして、手放すための手っとりばやい方法は、高い自己(ハイヤーセルフ)にお願いして、もって行ってもらうことです。
ハイヤーセルフは必ずこう言ってくれます。
「それはまさに、あなたのものではありませんでしたね。気づいてくれてよかったです」と。ハイヤーセルフは、私たちがいつガラクタを大切にしなくなるか、ずっと待っていてくれたのです。
でも、こどもが真っ黒ですり切れたクマのぬいぐるみでもそれを大切にしているときに取りあげないように、ハイヤーセルフも「もう、これは私に必要ないものです」と自己申告するまで、じっと待っていてくれるのです。
そして、「もういりません。もって行ってください」と、私たちが GOサインを出せば、いつでもよろこんでお掃除してくれるのです。
ひとつひとついらないものをもって行ってもらって、みんなでキラキラな発光クラゲになりましょう ˘⌣˘♡
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
お仕事がいち段落してスマホをのぞくと、「ブツをドアノブに掛けさせていただきました」というお友だちからのメッセージが!
さっそくドアをあけてみると、ありました、ありました! なにやらたくさん入った手提げ袋がかかっています。
Mちゃんはむかしから、仕事帰りや用事の途中に立ち寄ってはいろいろなものをお福わけしてくださるのです。
きょうは ・・・ お気に入りの紅茶でしょ、大好きなラズベリージャムでしょ、大袋のスナックでしょ ・・・ ん?? この長〜いスリコギ状のものはなんじゃろう?
よくよく見たら、
ナント、きゅ〜〜りっっ☆
わお! ゆうに 40センチごえ(30センチの定規がちっちゃく見えます)。四国のお知り合いが作られたそうな。ああ、西はお天気よいから、雨つづきの東の分まで育っちゃったのね〜(笑)。
しっかりと太くて食べがいあり。
さっそくしっかり冷やして、手でひと口大にかいて、ゴマ油とお塩と白ゴマでシンプルに。Mちゃんは梅カツオですって! ああ、それもいいな。
ようやく関東も梅雨明けですね。しっかり食べて暑さをのりきりましょう!
PS きゅ〜〜り、お味もとってもよかった! 新鮮デリバリー、ありがとうございました♡
お友だちとランチデートの一日。昔ながらの異国情緒あふれる横浜をご案内いただきました。
ランチは、元町 霧笛楼さんで。
開国当時のモダンな横濱の雰囲気があふれている仏蘭西料理のお店です。
じつは、お誕生日のお祝いをしていただきました(365日絶賛お誕生祝い受付中! 笑)Mちゃん、ありがと〜ございます♡
お料理も、サッパリとした和のテイストがあり、やさしいお味です。記念日にはリピートしたいね〜!と話していました。(メニューは、前菜がオマール海老と大根のブラマンジェ、ブイヤベースと焼きトウモロコシのリゾット、的鯛のグリエ、ポークののマデラソースでした〜♪)
テーブルウェアは藍でそろえられているのがレトロでもあり、横浜の海のイメージでもあります。
食後は中華街をぶらぶらし、山下公園よこのホテルニューグランドへ。
本館はクラシックな面影を残す歴史的建造物だそうで、数々の有名人が宿泊されています(マッカーサーの執務室もあったんですね)。
山下公園をのぞむソファでくつろいでいると、ときおり汽笛が聞こえます。
そして、新館のティールームでまったりとお茶タイム♪ 東京から少し離れるだけで、時間の流れがかわる気がします。
帰りは山下公園からお船で帰路へ。海の風にふかれて、波の音を聞いているだけで十分バカンス気分! ╰(*´︶`*)╯
梅雨明けまえといえども、お天気に恵まれて癒しの一日でした。ありがとうございました♡
さて、お茶をいれて・・・と、
これはお友だちからいただいた TEA BOOK♡
シトラス系ジンジャーティーとチョコバニラのルイボスティーが入っています。どちらもおいしそうだな〜♪ きょうは、肌寒いのでジンジャーで☆
そして、一緒にいただいたこちらも用意します。
これはなにかというと・・・
ふふふ ・・・ ちょっと怪しげ?! ネコ仮面。
このように着用して、ホットアイマスク! (ほかに、フクロウさん、キツネさん?など)
ラベンダーの香りにつつまれて、目もとがホカホカ。からだもリラックスして、おもわず眠くなってきました。
お茶をいただきながら、おやすみなさ〜い☆ ZZZZ ・・・
スラリと手足の長いララは15歳。バレリーナを目指して日々レッスンにうちこんでいる。
父親もそんなララに理解をしめし、そのために家族で引っ越しもし、職もかえた。
念願だった名門のバレエスクールに受けいれられたものの、ララのこころは晴ればれしない。
なぜなら、彼女は男の子だから。
トランスジェンダーのララは、一生懸命努力するものの「踊りが、まるで棒っきれ」と評され、また毎日身につけるレオタード姿もララにとってはつらい現実に直面せずにはいられない。
クラスメートからのいやがらせ、恋愛への憧れ、身体の変化 ・・・ 温かい家族や親戚に見守られながらも、ララのこころは理想の自分を目指すことをやめられず、現在の自分を耐えがたく感じてゆきます ・・・。
この作品でアカデミー賞 外国語映画賞を受賞したルーカス・ドン監督は、27歳。
十代のころに読んだトランスジェンダーのバレリーナについての記事にこころを動かされ、いつか映画にしてみたいと胸に温めていたそうです。
ララ役は、アントワープ ロイヤル バレエスクールのトップダンサーさん。もちろん男の子です。
さすが、ダンスはとても美しいです(トウシューズでの踊りは大変だったことでしょう)。
彼自身はトランスジェンダーではありませんが、ことば少ないララの繊細さ、芯の強さ、そして思春期の女の子らしさをとても自然に表現しています。
涙壷度:★★☆☆☆(自分に正直に生きたい! それは誰にとってもこころからの叫びです)
先日、友人とお出かけしたとき、お人形の専門店があったのでちょっと立ち寄ってみました。
アンティークドールから世界中の珍しいお人形まで、ところ狭しとひしめきあう店内をながめていると、「ねえ、もう行こ、行こ!(汗)」と居心地の悪そうな友人。
「どうしたの?」と聞いてみると、こどものときから災いや呪いを引き起こす人形が出てくる本やホラー映画を見ていて、「人形 = 呪い」のイメージになっているご様子。
人形を可愛いと感じる人もいれば、キモチワルイと感じる人もあり ・・・ (でも、人形はただそこにいるだけです)。
このように、なにかに怖れを感じるとき、私たちは「それ」こそがコワイ原因なのだ!と考えますが ・・・ 「それ」がコワイのではありません。
「それ」に対する「解釈(意味)」こそがコワイのです。
私たちは、目にしている「それ」がコワイと信じて、「それ」を自分の視界からなくしてしまえば問題は解決すると信じます。 ・・・ しかし、「解釈」がコワイのであれば、その解釈は自分と一身同体です。
またふたたび他のモノゴトを使ってコワイ解釈が顔を出し、それを怖れることになるのは間違いありません。
対象である「それ」をどうにかしても、ほんとうはなにも解決してはいないのです。
実際、怖がりさんを見ていると、「想像力、ハンバないな〜」と感じます。
たったひとつの「あるがまま」を見たときに、平気で十個ぐらいのコワイでっちあげを紡ぎだすことができます(はたから見ているとよくわかります、天才的なほどです!)。
完全に自分オリジナルの解釈で、自分で自分を震えあがらせることに成功しているのです。
それはときに戦慄ともいえるような感情をも引き起こし、それに耐えられなくなると自分で自分を死にまで追いやってしまうことにも ・・・。
しかしどのような場合においても、自分を怖がらせることができるのは、自分以外にはありえません(自分の考えがなければ、じつは怖さは生まれてこないのです)。
自分の意味づけが限りなくホラーであるなら、存在するはずのないどのようなオカルトストーリーでも目にすることができます(すばらしいっ!)。
なぜなら「最初に意味ありき」で、それにぴったりとそった現実を目にすることになっているからです。
そして、自分の意味づけから生まれた世界を見て、さらにそれに意味づけをするので、自分のこころの誤想像でつくりだしたホラーストーリーから抜だせなくなります。
意味づけがコワイときというのは、妄想がふくらみすぎた結果であり、「たった今」の安全な現実をキョーフの「過去データ」やキョーフの「未来の予測」で塗りたくって安全が見えなくなってしまっています。
「たった今、この瞬間」のあるがままはまったく安全なのに(はい!いつでも、この瞬間のあるがままは誰にとってもまったく安全なのです)、自分の妄想のせいで怯えたり、あせったり、落ちこんだり、怒ったり、パニックになったりしています。
それはまぎれもなく、現実ではなく「自分のでっちあげ」がコワいのです。
こどもが風の音や壁のシミをお化けだと信じてコワがったように、間違って信じているものに囚われている証拠です。
大人になってからはいささか風やシミを怖がりはしませんが、今度はもうちょっと大人らしいことに想像力を逞しくしているだけなのです。
そういう方々は、「今」をあまり見ていません、自分のコワイ思いのみに集中しているのです。そこから目が離せなくなっています。
たったいま目にしてひとつの出来事(ありのまま)から、自分の妄想によって即座に物語がたちあがり、あっというまにドラマチックなストーリーが紡がれ、それを真実として信じているのです。まさに、偉大なストーリーテラーです。
しかし、そこにあるのはただ「それ」だけで、なんの意味もついていないただ「それ」だけです。
ストーリーをでっちあげるのには、ものすごい労力を使います。存在しないものを自分にも、人にも信じさせようとするのですから。とっても疲弊します。
冷静にものごとを観察してみると、自分を怯えさせることができるのはたったひとつの存在だけであるということです。
それは、自分自身。自分以外に自分を震えあがらせることができる存在はいません。つまり、自分の考え(解釈)こそが、災いの元凶。
私たちは、自分の考え(解釈)いかんによって、自分の住む世界を自分を愛してくれる仲間があふれる天国にもできれば、あるいは果てしない戦いがつづく地獄にもすることができます。
そのように、どちらも選ぶことができるはずなのに苦しい地獄行きチケットしか買わない私たちって ・・・ きっとマゾなの ・・・ ね!(汗)
目のまえにある「それ」がコワイと信じていたのにそうではなかったのであれば、なぜそれをコワイと判断したのかを探求する必要があります。つまり、原因の糾明です。
原因がわかれば、それが「ホントのことなのか?」冷静にみきわめることができます。まちがっているのであれば、ただ手放すことができます。
「それは、たった今の事実としてほんとうのことなのか?」 ・・・ 正直に検証してみます。
じつは、まだなにも起こっていないのに、過去のデータを被せて短絡的に結果を決めつけてしまっているのかもしれません。
妄想、でっちあげ、怖れ、過去のデータからの予測という解釈はとりはらって、きっちりきっぱりと「今、完全に事実であること」以外は取り去ります。(この段階で、けっこうなにも起きていなかったと気づくかもしれません。)
さらに、「自分はじつはわからないのだ」とわかるかもしれません。
「自分はじつはわからない」 ・・・ と気づいたら、オメデトウゴザイマス! ついに、高い意識(ハイヤーセルフ)に教えてもらうことができるポジションまでコマを進めることができました。
「私が意味を決めたいの!」といいはっているうちは、ハイヤーセルフは「どうぞ、そうしてくださいな」とやらせてくれます(それは、自分で自分の首をしめているのだ!と自分で気づく日まで・・・)。
せっせと意味づけをしようとする(価値判断しようとする)のは、ここがアブナイところだと信じていて、なんとか先制攻撃で勝ちを狙うためにしていることです。
でも、ここがまったく安全だとしたら、それをする必要がありません。
むしろ、コワイ意味づけをすることで、そういう世界をみざるとえなかったのかもしれません(これはまさに、麻薬中毒患者が妄想を見て、それを怖がることでもっとパニックになって暴れる ・・・ というのとよく似ています)。
妄想によるでっちあげの解釈こそがキケンであり、じつはなんの意味づけもしないあるがままの今は安全なのです。
あるがままの今を受けいれるというのは、なにも解釈を加えないこと(口をひらかないこと、コメントしないこと)。ただほっておくこと。
そして、もしあるがままの完全さが見えてこないのであれば、たったひとつするべきことは、ハイヤーセルフに一緒に見てもらうことです。
かならず、「あなたにとっても、まわりの人たちにとっても、贈りものがやってきているのですよ。よかったですね」と教えてくれるはずです。 ( ・◡・ )♫
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
今年は梅雨らしい梅雨で傘が手放せません。
でもこの季節、ふだんは気づかない樹々や土の匂いがしたり、小さな花が香っていたり、そんなに嫌いでもないのです(天パーが暴走する以外は ・・・笑)。
そんな雨曇りの午後、代官山にいらしていたお友だちとランチへ @ IVY PLACE さん
雨のあいまのテラス席は暑からず寒からず、気持ちのよいお外ゴハンでした。
本日のメニューは ・・・ まずは、おいしいパンをとうもろこし(ひよこ豆も入ってるかな?)の甘みのあるディップをつけて。
きょうは二人ともお魚気分で、真鯛のポワレ。
グレープフルーツとオニオン、ディルの爽やかなソース、マッシュポテトとズッキーニ、トマトのグリルとともに。
香ばしいお魚のグリルに柑橘のすっきりソースがとてもよくあいます。いくらでもいただけそう。彩りもきれいです。
お食事中はアイスティー、食後にはコーヒーがつきます。
このあともオープンカフェに移動して、お喋りに花が咲きました。
蚊の襲撃をうけてハタと気がつけば、すっかり夕方(まだまだ陽が長いですね)。
半日、ゆったりとお外で過ごした午後。お喋りと美味しいランチ&お茶でリフレッシュいたしました〜♪ (・・・ けど、痒っっ!完全にやられました・汗)
高校生のレオは、生まれたときから目が見えない。
幼なじみのジョヴァンナや、心配性だけど優しい両親、すべてを受けいれてくれるおばあちゃんに囲まれて、なんの不自由もなく穏やかな日々をすごしている。
いつもレオに寄りそっているジョヴァンナは、盲導犬とからかわれようが、あうんの呼吸でサポートしてくれる相棒であり、親友であり、彼女のような、何でも話せる信頼のおける存在。
そんなある日、転校生のガブリエルがやってくる。
男の子といえば、レオにとってはからかいにやってくるうっとうしい存在だったけれど、ガブリエルはレオをはじめて対等に扱ってくれる男友だちになる。
しばらくは三人で過ごしていたものの、ガブリエルはレオを自転車に乗せたり、映画に連れ出したり、ダンスを教えたり ・・・ ふつうの男の子らしい時間をともにする。レオにとっては、すべてがはじめてのわくわく体験。
すると、ともに過ごしていたジョヴァンナとの関係が変わりはじめる。ジョヴァンナはおきざりにされたように感じて、ガブリエルと過ごすことも・・・。
お互いに正直になりたいのに、遠のくばかり。
あるパーティの夜、ファーストキッスに憧れるレオに、ゲームでチャンスが巡ってくる。けれども ・・・ あ"〜 レオ!それは女の子じゃない、犬よ〜、犬!(レオ、あやうし☆)
はたしてレオのファーストキッスの行方は??
なにがほんとうかわからないまま、自分がでっちあげた考えのなかに自分を閉ざしてしまうとき、私たちはどんどん孤独にみじめになってゆきます。
いつだって、自分の気持ちに正直でいられるときは、自分もまわりもともに自由になれる。
こころを開いてつながれば、いつでも癒しがもたらされるのです♡
こどもの頃に、シリアスなイジメ ・・・ とまではいかなくても、ちょっとしたからかいやイジワル、仲間ハズレにされた体験というのは誰にでもあるものです。
たわいもないイジワルとして思い出されるものであっても、そのことが自分の「ものの見方のモノサシ」に影響をあたえ、それをゆがめ、意外にもずっとあとをひいていたりします。
自分とはどういう存在なのか(愛される?愛されない?)、人とはどういうものなのか(愛してくれる?攻撃してくる?)、またこの世界とはどんなところなのか(優しい?拒絶してくる?)という、自分や人、世界に対する概念が無意識のうちにツラく危険なものになってしまい、その怖れが自分の人生の足を引っぱるようになってしまいます。
まちがった概念の呪縛は、三十になっても、四十になっても、六十になってもとけることがありませんん。むしろ強化されているように感じます(いったん刷りこまれた概念は、自ら気づいて訂正するまで修正することができないのです)。それゆえに、なぜ自分自身を肯定できないのか、幸せや自由を感じられないのか、自分でもわかりません。
こどものときに受けいれてしまったまちがった自己概念が、自分に災いしていることに気づくことができないでいます。
たとえば・・・
幼稚園のときに ・・・ ○○くんに「おまえはヘンだ!」とからかわれてしまった、とします。
だから、私は人とちがってヘンな存在にちがいない。きっと恥ずかしいにちがいない(こどもは、まわりから言われたことをなんの検閲もかけずにそのまま信じこんでしまうスポンジのような存在なのです)。
だから、ヘンだということがばれないように、自分を隠しておこう、あるいは、ちがった自分のふりをしよう・・・ というように、たった一人から言われたことが原因で自分を恥じるようになります。
しかし、しだいにその出来事やそこで決心したことは忘れさられ無意識的になってしまい、ただ「私は恥ずかしい存在なのだから、隠しておこう」とか、「人よりも努力して頑張らないとだめなんだ」という思いだけがこころのなかで意識され、それはとてもまっとうに感じられるのです。
あるがままの自分を受けいれることができていないので、まるでラットが踏み車をこぎつづけるように忙しく努力しつづけます。それは、「私は恥ずかしい存在だ」という信念がいすわっているからなのです。
ちょっとしたイジメをまにうけてしまい、「自分はダメだ」と決めつけてしまったことから、しなくていい努力をするようになってしまいます。そして、わけのわからない努力をすることで、ほんとうの自分から離れ、ダミーの自分をつくりだすことで、さらにダメな自分という思いを強めていきます。
しかし ・・・ほんとうはイジワルをしたほうこそが、問題あり!なのです。また、イジワルをしたことでさらにその子は問題を深めてしまっているのです。
イジメやイジワルがなぜ起こるかというと、「それをしないとやってられないよ〜!」と感じるからです。
自分が「足りていない」「価値がない」と感じているとき、
それをどのように埋めあわせてよいのかわからず、手っとりばやく「誰かを自分よりももっと足りなくする、価値をなくす」ことができれば勝手に自分の価値があがるのでは ・・・ と考えます。
つまり、「私がスゴくなるためには、全員ダメなやつになってくれ!」というわけです。そのために、人をおとしめて価値をなくすことをはじめます(これが、イジメやイジワルとよばれるものですが、もとはたんに劣等感からはじまります)。
短絡的に、自分以外を足りなくさえすれば自分は優越感を感じられるにちがいない、というメカニズムです。
でもこれをしてしまうと ・・・ 「私のためにバカになってください」と言いはなった人たちを仲間と呼ぶことはできず、結局は孤立して孤独に感じます。
また、人のことをこのように攻撃したという思いから、無意識のうちに罪悪感を感じ、自分を罰してつらいめにあわせるようになるために人生に困難が多くなります。
つまり、「足りてる」ことを実感したいがためにしたことによって、より孤独になり、助けがえられないために不足感は強まり、またいたいめにあうように感じることになるのです。
まわりを貶めて、自分が優越感を感じようとすると、結局はさらに大きくマイナスをつくってしまう、ということが起こります。
私が優越感を感じるために、あなたはダメ人間になってください。大丈夫、私があなたを貶めますから、あなたはすぐダメ人間になれますよ。
このセリフは人に向けられているように感じますが、イジワルをするその本人のこころのなかにあるものです。誰に対して効力を発揮するかといえば、「自分」のこころに対してだけなのです。
それはある意味、自分に対する呪いとなります。
自分のこころで思うことは、「自分が思っている」からこそ、自分へ呪いともなれば、自分への贈りものにもなります。
だから、自分に足りなさを感じるときに、人を貶めてしまえば、いっしょに自分も貶められます。自分の思いから自分を除外することはできません。だったら・・・
自分が引きあげられるために、人のなかにすばらしいところを見つけてそれを賞賛してあげることで、自分もいっしょに引きあげられる、このほうが賢いやり方なのです。
どんなときでも、自分の苦しみの原因は自分のこころにしかなく、自分の敵はまさに自分自身であり、自分の考えそのものなのです。
だから、なにかが足りていないと思うときには、人にマイナスをあたえることで救われようとしないで、逆にまわりのひとたちのなかに足りているところ、輝いてあふれているところをたくさん見つけてあげることです。
そうすることで、そのこころは「足りている」という思いでいっぱいになり、その思いは自分の目にするものすべてに影響を及ぼすので、「足りている」状態を目にすることができるようになります。
私たちは身体の健康のためには、あれを食べて、これを節制して・・・とこころを砕きますが、そんなことはささいなことにすぎません。
自分が「苦しまない」ためには、もっと大切なことがあります。それは、自分のこころの「思い」を守ることなのです。
「思い」が幸せであれば、それが自分を満たし、またそれが自分自身から広がって、自分の目にする満たされた世界をつくりだします。自分の身体も、その目にする世界にふくまれています。
不幸に感じるときには、いま起こっていることが問題というよりは、自分の思いじたいが危険なときです。自分の思いが自分に牙をむいているのです。
だから、いちばんやらなくちゃならないのは、こころの健康。自分の思いが健康であることです。健康であるということは、攻撃の思いがなく(自分を攻撃しないために)、愛と安らぎがあること(自分に愛をもち、安らかでいられるように)。
そのために、人や自分に対する攻撃的な気持ちに敏感になり、そのような気持ちを自分のこころからすぐに排除することが大切です。
目にする世界が自分のこころそのものであり、世界が自分であると気づきはじめると、攻撃的な思いをもつことが、自分で自分を斬りつけるようにいかにキケンであり、苦しい結果をもたらすことになるかがわかりはじめます。
どの思いも、まちがいなくそれを思う自分自身に影響せずにはいないのならば、自分自身のためにも、どんな思いでいつも満たされていたいのか ・・・ 自分の思いというものをもっと大切にする必要があります。
私たちは、世界という鏡を使ってしか自分を知ることができません。それならば、そこに何を見つづけるのか、醜さか美しさ、冷酷さか思いやりか、愛か怖れか ・・・ そしてそれこそが直接、自分というものの価値にかかわってくるです。
こどものときにまちがった概念を受けいれてしまったと気づいたら、落ちこむ必要はありません。
手放すためには、まずは気づくという段階が必要だからです(気づけない人の方が多いのです)。気づけたからこそ、手放せるということです。
幸いにもまちがいに気づいてしまったら、自分では取り除けないので、ハイヤーセルフに「この思いはもういらないものです」と差しだしてもって行ってもらいましょう。
それをどけてあげるだけで、OKです。本来のあなたの輝きは姿をあらわします。
それはなくなっていたのではなく、ただまちがったもので隠されていただけだったからです。
さあ! まちがいに気づいたら、お掃除☆ お掃除☆
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
〒153-0061 東京都目黒区中目黒1丁目3-11-1005 Tel 03-3719-6414
nakameguro Meguro-ku, Tokyo 153-0061
© 2022 office-lun.com All rights reserved.