furukawaさんのブログ

気づきの日記「こころの水も抜いちゃいましょう!」

 

「池の水、全部抜いちゃいました!」なんていう番組がありましたね。水を抜くと ・・・ あらあら、ビックリなものがあらわれます。

こころの池も、いえ、あえて沼といわせていただきますが、こころの沼もスッポリ水を抜くことができたらいいのに。

のぞきこんでみようとも暗く濁ってなにも見えないこころの沼ですが、もしゴゴゴ〜〜!と水が抜けちゃったら ・・・ あらま、キケン外来種がわやわや! すっかり占拠されていたことにびっくりするかもしれません。

キケン外来種とは、自分とは関係ないのに我がもの顔でそこに住みついているずうずうしい存在であるエゴちゃんです。

このエゴというイジワルで残酷で痛みや苦しみをこよなく愛するキケン外来種のせいで、こころの池はすっかり濁って不気味な沼と化してしまったのでした。いまやこの沼に何が映しだされようとも、すっかり歪んで恐ろしいものにしか見えません。

そして、その映し出されたものを見ては、ちぢみあがっている私たちなのです。

自分で自分をちぢみあがらせている私たちはそのことに気づいていません。コワイものの原因はそこではなく、世界や人や出来事のなかにあると信じています。

解決するためのポイントが完全にずれてしまっています。

ほんとうは、なにが目に映ろうとも、解決策はこころの沼をおそうじしてあげることで、すべてがあるがままの姿でクリアに映しだされるようにしてあげること。そして、源からやってくる光をきれいに反射して、自分の目にする世界をキラキラと照らしだし祝福してあげること。

そのためには、沼に身をひそめているキケン外来種(エゴ)の駆除がかかせません。

キケン外来種であるエゴちゃんは、いくら沼をのぞきこんでも姿をあらわしたりはしません。あまりに深く潜伏しているからです。

でも、もしも沼に映ったものが歪んでいるのであれば(自分が問題というものを知覚しているのであれば)、そこに駆除すべきものが潜んでいることを教えてくれているのです。

そこで、問題が知覚されたら、「やった〜!キケン外来種、み〜つけた!」と喜んでください。問題こそが、そこにいるよ!というサインだからです。

こころの沼のお掃除は、しっかりと「自分が必要としないゴミがある」という認識があってこそきれいにできるのです。ほんとうは問題だらけで自分に苦しみを与えまくっているのに、「私は大丈夫で〜す!」と見て見ぬふりをしているうちはお片づけをすることはできません。

ところが、私たちは問題を知覚するやいなや、すぐさまお掃除とはいかず ・・・ 抵抗をはじめます。

「こんなことがあっていいはずがない!」「いったいこれをどうしてやろうか?」・・・ と、「問題」VS「私」という対立モードとなり、その問題は自分とは無関係だとみなそうとします。

解決のためには、「これは、自分のこころ発」と認めることからはじめなければならないのに・・・。

問題とはたんに、「こころは沼と化していてお掃除が必要ですよ」「放置しておくと、どんどんコワイものに遭遇することになりますよ」というお掃除の必要性のお知らせです。

こころのキケン外来種を駆除して、澄んだ状態にもどしてあげるには ・・・

いま、目のまえで起きていることに対してあれこれ考えて、闘いを挑むのをやめましょう。

「オッケー!」といって、そのままにしてあげましょう。

そのままにするとは、それを握りしめるのをやめることです。ただ手をゆるめてあげれば、それはそのままとおりすぎて、消え去ってゆきます。目のまえをとおりすぎてゆく通行人のようにただ行かせてあげます。

闘おうとする気持ちが、この通行人の腕をつかみ、目のまえに引き止めてしまいます。

ただ手を離したら、キケン外来種駆除班である高い自己(ハイヤーセルフ)にお片づけを依頼しましょう。

「これは私の望む経験ではありません。私のこころの底にある誤った裁きの思いを取り去って、このことを安らかな気持ちで正しく見ることができるように一緒に見てください」と、まったく問題が存在しない次元を見ているハイヤーセルフの知覚をともにさせてもらいましょう。

あとはただそのままおまかせです。ハイヤーセルフが駆除作業をして、「これが正しいものの見方ですよ」と問題が存在しない知覚をシェアしてくれます。

問題が消え去るか、あるいはまったく違う見方ができ、問題とは感じなくなるか、はたまた予想外の嬉しい展開があるかもしれません。

しだいに濁った沼が本来の光輝く湖にアップグレードします。そこには、なにを映しだしても美しく完全で愛にあふれているように見えるはずです。

決して被害者になることなく、自分のこころが間違っていたことを認め、高い自己にこころのジャンクを駆除してもらい、あやしいものが住まう沼から澄んだ湖へとお掃除してもらいましょう。

こころの湖が澄みわたると、宇宙(源、あるいは神)の光がゆき渡り、すべてが美しさと完全さのなかで穏やかに見ることができるようになります。

世界や人々、自分自身があるがままに映しだされ、光は何倍にも広がってゆき、すべてを優しく包みこみます。

その光のなかで、自分自身もそしてまわりの人々も、安らかな笑顔でくつろいでいることに気づくでしょう。

濁った沼を放置すると異臭(問題)の原因となります(汗)。本来の自分自身である澄んだ湖として、愛と光と安らぎを感じ、広げる源となりましょう☆

 

 

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あなた、どちらさま?

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久方ぶりにペニンシュラのダイニングにゴハンを食べに行ってきました。コロナ禍で、かれこれ二年ぶりです。

ここは私とお友だちにとって特別な場所。なんせスープのお味が絶品で、ひとくち口にするとウットリ、ほっこり癒されちゃう。なので、何年も季節ごとに楽しみにかよっている次第です。

この日も、久方ぶりに愛しの君に再会するような乙女の気分で、そわそわドキドキ足をはこんだ私たち。

ところが・・・

登場したスープの風貌に一瞬びっくり!

酸味のきいたトマトのビシソワーズ。その真ん中にはさらに酸味のきいた真っ赤なビーツとオレンジのパンナコッタが鎮座し、もっと酸味のきいたクランプルが散りばめられています。

なんかすんごく攻めてる印象です(汗)。もの静かな落ちついた風貌で、優しく包容力たっぷりのお味だったはずのあの方が ・・・ ガーン☆ まさかのキャラ変!

もちろんトマトのビシソワーズは美味しかったのですが ・・・ 「あなた、どちらさま?!」という複雑な気持ちに。いったい、あのお方♡はいずこに?!

このコロナ禍、二年もたてばあらゆることが急激に変化していますね。たくさんのお店が閉店を余儀なくされるなか、いつもどおりに存在していてくれるだけでも感謝です。

でも、あのスープがまた食べた〜い! 落ち着いたら、また癒しの君に再会できますように♡ ペニンシュラさん、どうかお願いしますよっ!

PS ちなみに、この日のメニューは、トマトのビシソワーズに、お魚のグリエ エスニックソース、麦茶のガトーショコラとスイカのソルベでした♪

 

 

 

お茶の間シネマトーク「MISS ミス・フランスになりたい!」

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「私は将来、お花屋さんになりたいです」「僕は電車の運転手さんです」。小学校の授業でよく見かける風景です。

9さいのアレックスくんはみんなのまえで「僕の夢はミス・フランス!」と、なんの躊躇もなく宣言するのですが、みんなから失笑をかってしまいます。

それからときは流れ、27さいのアレックスくん。ボクシングジムで働きながらも、うつうつとした毎日を過ごしています。

そこに幼なじみが現れ、彼と話しているうちにかつての夢がふたたびアレックスくんのこころに浮上しはじめ ・・・

彼はついに「ミス・フランス」のコンテストに挑戦することをこころに決めるのです。(→予告を見る

アレックスくんがお化粧をして女性のいでたちをするとあまりに自然なので、「あれ?これは大柄の女優さんを起用しているのかしら?」と思ったのですが、やはり男性でジェンダーレスモデルのアレクサンドル・ヴェテールさんという方でした。

この映画に起用されたというよりも、監督が彼に出会って、彼の生き方に触発され、彼のために作ったような作品です。

もともとゴルチェのモデルさんからスタートしたそうですが、キャスティングディレクターには男性と女性と両方のコスチュームの写真を渡していたそうです。

この物語のなかで、アレックスくんがほんとうに自分の気持ちに正直になり、やりたかったことに勇気をもってつき進んでゆく姿に感動するのは、アレクサンドルさん自身がそんな生き方を貫いている方だからなのでしょう。

彼自身の生きざまがアレックスくんをリアルにして迫力をあたえています。

まだまだ世の中にはいろいろなジェンダーや年齢やもろもろの制限があふれかえっています。

たとえば「ミス・コン」にしても、自分はミスだと思っている人、コンテストに出る資格がある!と自分が思っている人がみな出られたらいいのにと思います。たとえ80さいのレディーであってもね。

「他人に自分の価値を決めさせるな!」・・・ ズバン!とこのメッセージが胸に飛びこんできます。

PS 予告はちょっとキラキラポッブなハリウッド仕様になっていますが、こちらフランス映画でそんなにイケイケな感じではありませぬ。

涙壷度:★★☆☆☆(アレックスの正面切って自分であろうとする姿に涙がでました)

 

 

気づきの日記「確かな答えをうけとるには?」

 

自分の顔は、自分のものでありながら自分自身で直接見ることができません。

鏡という道具を使って、はじめて顔を見ることができます。

そして、私たちは鏡に映し出されたその顔を、自分の顔そのものとして受け入れ、信頼しています。

もしその顔に吹き出ものがあればすぐに治療をしますし、顔色が悪ければそれを改善しようと試みます。

顔と同じように、自分のこころも自分では目にすることができないものです。やはり、なにか見るための道具を必要とします。

では、自分のこころを見るためには何を使えばよいのでしょう?

それは、顔を見るときと同様に、やはり鏡を使います。鏡を見ることで、その状態を知ることができるのです。

自分のこころを見るための鏡とは何でしょうか?

それは自分の外側の「世界や人」という鏡なのです。

自分と向かいあっている世界や人は、まさに自分のこころの状態をそっくりそのまま映しだしてくれる鏡そのものです。

自分が気づいているこころも、気づくことがない無意識のこころも、丸ごと正直に映し出します。

気づいているこころはまだしも、無意識のこころのなかには自分が拒絶してきた怖れや怒り、罪悪感、傷ついた痛みなどが温存されているために、それが鏡に映し出されるとまるで自分とは関係ないもののように感じてしまうこともあるかもしれません。そして、それを嫌悪し、遠ざけてしまうこともあるかもしれません。

なぜ外側の世界や人が自分のこころのすべてを映し出しているのかというと、「自分」こそがそれを見て、「自分」こそがそれを感じて、「自分」こそがそれを解釈しているので、それはまさに自分自身のシンボルであり、自分が自分そのものを見ていることになるからです。

「人のふりみて、我がふりなおせ」という古くからの教訓がありますが、まさにそういうことなのです。

この世界・人という鏡があり、私のこころのすべてを映し出してくれるからこそ、私たちは自分の顔の吹き出ものに気づいて治療するがごとく、こころの間違に気づいて、それを正すためにこころを変えることができるのです。

そうでないならば、私たちがこころを正すための手がかりがなくなってしまうことになります。

また同時に、私たちのこころにはすべてのものごとに対する答えも存在しています。

それは、自分や人にかかわるすべての問題の解決策となる万能の答えです。

この答えを受け取るためにも、世界や人という鏡を必要とするのです。

直接自分のこころから答えを受け取ろうとしても、「そんなはずはない」「間違っているに違いない」と、疑いや怖れなどの癒されていない考えにすぐさまブロックされ、素直に答えを信頼することができなくなっています。

キラキラと輝くインスピレーションは、すぐさま却下されてゴミ箱に捨てられてしまうのです。 

せっかく浮かんできた解決策も、「いや、それはダメだ」「できるはずがない」という否定的な思いに阻まれてしまえば、その導きはまったく無きものになってしまうのです。

自分を確実に導き、問題から救ってくれる答えはすでにそこにあります。

それを手にするためには、自分のこころのすべてを映しだしてくれる世界・人という鏡を使って、確実に受け取ることができるのです。

ところが、私たちは自分の癒しに役立ち、難関から救ってくれる答えを映し出す鏡そのものをあまり信頼していません。自分とは関係のないものとして扱っているからです。

世界や人という鏡を信頼できないのなら、そこからは信用できないような導きしか見つけることができないのです。

「与えるものは、受け取るもの」。私たちはいつでも、自分のこころが決めたものだけを受け取るからです。

自分にとってまさに助けとなる答えを受け取るためには、世界や人という鏡への無条件の信頼が欠かせないことになります。

それは、世界や人を自分勝手な価値判断で歪曲して見ることなく、まっさらな無垢のままに見ようとすることです。鏡をねじ曲げずに、きれいなままにしておくことです。

こころを空っぽにしてそのまま受け入れることは、それをあるがままに味わいめでること、愛することにつながります。

この無防備な信頼があってこそ、同じような信頼度で自分を導き救ってくれる答えが自分に返されてくることに気づくようになります。まさに、世界・人という鏡を通して、必要な答えがタイムリーに映しだされるのです。

安らぎのなかで世界や人を味わいめでるとき、自分のなかにあるすべてに対する答えが鏡のなかにしっかりと知覚されるようになります。

信頼を与えられた鏡は、しっかり正しい答えを輝きかえしてくれるのです。

こころを映し出してくれる鏡をきれいにするというこは、世界や人を価値判断することなく無条件に受け入れて、安らかなおもいであるがままに味わいめでることです。

愛して受け入れることで、まったく同質の贈りものが自分に豊かにもたらされるのに気づきます。

自分の優しさと安らぎのなかで、世界や人という鏡が確かな答えを輝きかえしてくれるのを受け取ってみましょう。

 

 

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脱輪ゴム

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ペンケースって、いざ買おうとするとなかなかよいあんばいのものが見つかりません。

使い勝手はいいけど透明なビニール製は味気なし、かといって可愛いタイプは完全にお子ちゃま仕様。

おとな可愛いペンケースがほしい!とおもいつつ、鉛筆やマーカーを輪ゴムでくくって持ち歩くこと数年・・・。すっかりペンケースが欲しいことも忘れていました。

そんなある日、「食べたら、ペンケースにでもして」とおともだちにいただいたカンカン。

わっ、かわいい♡

「たかちゃん色だと思って選んだ」そうです。そういえば、以前にプレゼントしていただいたストールもグリーンにオレンジという同じ色合いでしたっけ。

自分らしい色合いって、本人がいちばん知らなかったりします。たしかに、身につける小物はグリーンとオレンジが多いかもしれません。

このカンカン、ガレットクッキーが入っていたのですが、まさにわたしの望むペンケースにピッタリ!

ペンにマーカー、目薬に耳栓、はさみに付箋、修正テープに定規まで・・・何でも入ってしまうわりにはコンパクトで願ったりかなったり!

輪ゴムさん、長年お世話になりました。

 

 

お茶の間シネマトーク「Coda あいのうた」

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今年度のオスカーを獲得した作品です。劇場で観た友人からも「よかった!」と聞いていました。

観はじめてみると、すごいデジャヴ感・・・。つぎつぎ何か起こるかわかっちゃう。私って、サイキック?!

いえいえ! あとでわかりましたが、これは以前に観たフランス映画の「エール!」という作品のリメイクでした。

コーダとは、耳が聞こえない親をもつこどものこと。主人公のルビーは、家族のなかで自分以外の両親と兄は耳が聞こえません。

漁業を営む一家にとって、家族が社会につながり機能してゆくためにルビーはこどもの頃から彼らの耳であり言葉となってきたのです。

そんなルビーが高校生になったとき、気になる男の子が合唱部に入部したのにつられてルビーも合唱をはじめます。

声を発しない家族で育ったルビーにとって、人まえで歌うことはプレッシャーだったのですが、彼女の才能はすぐに発掘されてしまいました!

でも、ルビーの家族はルビーのことを「いてくれて当然」と思っているので、歌のレッスンという単独行動は認められないのです。それになんといっても、ルビーの歌の才能を知るよしもありません。

先生のなかば強引な個人レッスンと家族とのあいだで、ルビーはホンロウされ悩みます。

開きはじめる未来への夢の扉と、家族という重し・・・。自分の夢を追いかけることは家族を裏切ることになるのでしょうか・・・? (→予告をみる

ルビーが憧れる同級生は、「シング・ストリート」の美少年コナーくんじゃありませんかっ!

すっかり青年になってる〜! でも、白桃のような色白ほっぺは変わっていません。

このストーリーのなかでも歌ってくれています♪(たしか、もともとはオペラを歌う男の子でしたよね)  そして、このストーリーのなかでも、また水に飛び込んでくれます(笑)。

ルビーが学校の発表会で歌うシーン。人々がうっとりと聴き入るなか、その歌声が ふと・・・ 消え去ります。

あ・・・ これがルビーの両親とおにいちゃんが生きている世界なんだ。

愛しいルビーが目のまえで一生懸命歌っているけれど、その歌声も、歌詞すらもわからないのです。幸せな表情のひとびとのなかで置きざりにされているような感覚。

聞こえないってこういうことなんだ、とあらためて感じました。

ルビー役のエミリア・ジョーンズの歌声、こころにしみ入ります♡(→こちらから

ストーリーじたいは、「エール!」と同じですが、ハリウッド流の見せ方でオスカーになってしまうのですねっ!

涙壷度:★★★☆☆(すべての解決策は、おのずとやってくる!)

 

 

 

気づきの日記「ざわざわはギアチェンジのサイン」

 

クルマを運転しているとき、速度をだしすぎるとアラームがお知らせしてくれます。

方向を間違えば、ナビが正しいい道順を教えてくれます。

だからこそ、あれこれ気にすることなく、ドライブを楽しむことができるのです。

クルマ同様、私たちにもさまざまなアラームやナビが搭載されているのをご存知でしょうか?

たとえばアラーム。

「速度を落としてください」「方向を変更してください」などというダイレクトなアナウンスはありませんが、それでもお知らせはちゃんとやってきています。

そのお知らせとは ・・・ ざわわさする感じ、どきどき落ち着かない感じなどという、自分のこころが波だつ感じや、怖れ、居心地の悪さ、という感覚です。

怖れや居心地の悪さを感じるとき、それは「このまま同じように走りつづけないでください、走り方や方向など、なんらかの変更が必要です!」というお知らせなのです。

それは、「もう、今までのやり方は通用しなくなります」「もしつづけるなら、良くない状態になってしまいます」と警告してくれているのです。

しかし、たいていの場合、ぞわぞわ、ざわわさ、どきどきという怖れを感じはじめると、私たちは「こんな気持ちは感じたくない!」といわんばかりに、さらにアクセルをふみこんで、そのまま走り抜けようとしてしまいます。

アラームに抵抗して、「突っ走ればどうにかなるだろう」とばかりに、さらに同じルートのまま速度をあげて進んでしまうのです。

まさか、自分を助けるための大切なアラームが鳴っているとは思わず、今までと同じやり方で疾走してしまうのです。

ぞわぞわ、ざわわさ、どきどき・・・という怖れのアラームを感知したら、抵抗したり誤摩化したりせずに、いったん受けいれて、まずは止まってみましょう。

「これは、もう今までのやり方では通用しない、ということを教えてくれている。同じやり方をすれば、難しい道に入りこんでしまう。早く教えてもらえてよかった!」と感謝のこころでで受けとめます。

そうなのです、ぞわぞわ、ざわわさ、どきどきという感覚は、安らぎである私たちにとっては異質の状態なので、それは「自分自身からはずれていますよ!」という異常事態宣言なのです。

しかし、私たちはそのアラーム音の鳴りっぱなしにかなり慣れてしまっているようです。

なぜこのまま進んではダメなのでしょうか?

それは、自分が自分をみくびっていること、裏切っていることに気づいていないからです。本来の自分自身を完全に忘れて、別物になりきってしまっているのです。

本来の自分がいないからこそ、不安な気持ちになってしまいます。そして、怖いから、手っとりばやくどうにかなりそうなものに飛びついてしまいます。しかし、それらはいつも解決策にはなりえません。

なぜなら、自分自身でつくりあげた架空の不安にこころを奪われているので、自分のこころを正常に戻すことでしか解決ができないからです。

もし本来の自分自身でいられるならば、自分のこころに備わっている強さ(光)こそがすべてを照らして、正しくしてくれるのを信じることができるはずです。

でも、自分が失われている状態では、その強さも丸ごと失われてしまっています。

さて、どうしたらいいのでしょう?

すべてのちからの源である本来の自分自身が失われているのなら、まずはほんとうの自分をちゃんと覚えていてくれている存在とつながることが先決です。

私たちにとって、自分を導いてくれるナビゲーションシステム、あるいは安全装置とは、いつどんなときでもほんとうの自分を覚えていてくれて、自分の強さを取り戻させてくれる高い自己(ハイヤーセルフ)という存在なのです。

なによりもまず、その存在とつながり直し、本来の自分を取り戻す必要があります。そのためには、ハイヤーセルフを自ら招き入れ、こころの中につながるためのスペースをつくってあげましょう。

それは、外に向いていた注意を自分のこころの内側へと向けてあげることです。こころの内側において、私たちはハイヤーセルフとコンタクトをとることができます。

そして、静かにしてみましょう。ハイヤーセルフの導きはとても穏やかなので、こころを鎮めて落ちつくことでつながることができます。

そして、本来の自分の強さのなかですべての完全さを目にすることができるように、ハイヤーセルフに恐れて混乱しているこころを正してもらいましょう。

自分から「ハイヤーセルフにつながりたい、導きを受けたい、正してもらいたい」という自主的な意思をもつことによって、ハイヤーセルフとのチャンネルが開かれます。しかし、自分から望まなければ、導きを受け取ることはできません。

そして、いま自分がするべき必要なステップがあるのであれば、自分にわかるようにそれを教えてもらいましょう。

尋ねたあとは、信頼してこころを開くことです。自分で勝手にものごとをいじくりまわすことはせずに、ただ静かに今の現実から数歩下がって、静かに導きを待ちましょう。

ハイヤーセルフは、「あなたはものごとを正しく見られないために、自分で自分を怖がらせています。まずは、あなたのこころの間違った方向性を正すために静かになってください。そして、正しく進むために、その静けさのなかで私の指示に身をゆだねてください」と、完全な自動操縦(明け渡し)システムのなかで優しく導いてくれます。

安心して委ねてみましょう。

ずっと心配しつづけている、怖れつづけているということは、心配と怖れを握りしめて執着しているということです。両手から心配も怖れも手放して、自分をからっぽのスペースにしてみましょう。

なかなかこころを鎮めることができないときは、しばらく呼吸に注意を向けてみます。ゆっくりと鼻から息を吸って、一回止めて、さらにゆっくりと吐く、という腹式呼吸に集中することで、固まってしまっていた注意がほどけ、握りしめていたものを手放しやすくなります。

ハイヤーセルフはあなたに、「これは、あなたが自らつくりだした状況です。しかし、あなたにはもうふさわしくないことに気づいてください」「これではない、安らかな現実を望むのだということをこころに決めてください」「あなたが新たに選びなおす意思をもってください」と教えてくれています。

ハイヤーセルフの導きは、いろいろなところにやってきます。

知り合いの誰かのひとことや、テレビやラジオから聞こえてくる言葉や、道ですれ違う人のおしゃべりなど、メッセージはあちらこちらにやってくるのです。

あるいは、たまたま目に飛びこんできたなにか、突然ひらめくなにか、こころが広がる感じがするなにかに気がついてみましょう。

ぞわぞわ、ざわわさ、どきどきという修正のアラームが鳴りだしたら、その怖れの感覚にホンロウされて走りまわることはせずに、それは「自分にとって善き知らせ」であると受けとめます。そして、静まることによってハイヤーセルフとつながり、スムーズに軌道修正を行いましょう。

静けさのなかでこそ、方向転換のための道標があらわれ、力を抜いてスムーズに修正を行うことができます。

まるで夜の飛行場で機体を誘導するランプが整然と光を放つように、サインのひとつひとつをたどってゆくと、闇のなかでも今までとは違うルートに導かれた自分に気づくのです。

もちろんそのルートは、ハイヤーセルフに守られ、また自分の真のちからにも守られたルートです。それは、こころ安らかで優しく、楽しい、そして自分にとってたやすいルートです。かならずや自分もまわりも笑顔になることができるルートなのです。

まずは、アラーム音(ざわざわな感じ)に怯えることなく、ただお知らせに気づいて、「過去にはこの道を望んだかもしれないけれど、私は今それを手放してただ導きに従う」と、安らぎのなかでこころを開いてみましょう。

あとは、ハイヤーセルフがすべてを整えてくれるでしょう。

このようにハイヤーセルフの導きに従うことで、自分のカルマのように見えていた出来事さえも、そこからラクラクとルートを変更し、ストーリーを変えてもらうことができます。

ギアチェンジのサインがきたのなら、ハイヤーセルフの導びきのもとで自分にふさわしい幸せなルートへと切り替えを行ってもらいましょう♪

 

 

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再びつながる、がテーマのこの頃

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仕事のことで二十数年ぶりの方から連絡をいただき、さらにそのことで同じく二十数年ぶりの別の方に電話を入れることになり・・・

「お久しぶり!お仕事のことだけど、こんなふうにまたお話できて嬉しいわ♡」「ぜんぜんお変わりなくなてなにより」と、思わぬつながりあいを喜びました。

するとこんどは、十六年ほどの海外生活から帰国した方から連絡が入り、遊びにいらしたりと ・・・

なつかしい方々と「再びつながる」がテーマだったここ数日。

十五年にしろ二十年にしろ、それだけの月日がたつとさまざまな出来事や経験にでくわし、ものの見方も考え方もそれなりに変わるものです。

それぐらいまえの自分の様子を思い出すと、「あれは前世の人?」と思えるぐらいすんごく変わったと感じる一方で、時間すら超越してまるで変わっていないとも感じます。

変わったのは、モノごとや世界、自分に対する向きあい方で、

変わっていないのは、存在としての「わたし」の感覚。

こまごまとした考えや感じ方は変わっているけれど、「わたし」という存在感は変わっていない、ということ。

再会してまったく違和感を感じないときは、きっとコミュニケーションをとっているのが、お互いの「わたし」という存在感の部分なのでしょう。

それは、もっとも深いそれぞれの核の部分、存在そのものの部分。

それぞれにとって存在の核は決して変わらないから(五才の自分ともそれは変わっていない気がします)、だからこそまったく違和感なく何十年も会っていなくても「あら、二〜三年ぐらいご無沙汰だった?」という気軽さでつながることができるように感じます。

コロナという時代を生きていきて、再会に対しても今まで以上に「ああ〜、ご無事でなにより。元気な声が聞けて、姿が見られて嬉しいわ」と、誰とでもこころから喜んで気づかいあえるようになった気がします。

 

 

気づきの日記「問題を終わりにするには」

 

不安な気持ちになったとき ・・・ 私たちはそのことばかりについて考えてしまう傾向があります。

「お金がない!どうしよう?この調子でいったら来月には・・・云々」
「身体の調子がおかしい。これ以上ひどくなってしまったら、将来はどうなる・・・云々」

私たちは考えていれば問題を放置することなくかかわっているように感じるので、少し安心できるのです。

しかし、考えは未来へ未来へと前のめりに広がり、ありもしないストーリーを紡ぎだすことで不安をさらに増大させてしまいます。

ということは、「あれこれ考える」ことじたい解決にはまったく役立っておらず、逆に不安だけをあおってしまっている、ということになります。

そもそも不安な気持ちがこころに浮上してきたということは、それをそのまま感じて、受けとめて、終わりにしなければならないのです。

それらの感情は、自分のなかで長いあいだ拒絶され、無視され、こころの奥深くに抑圧されて無きものにされてきました。

しかし、これらの感情こそが自分が目にする世界へと投影され、自分にとって障害物となる問題へと姿を変えてしまいます。 まさに、自分の人生の流れをはばんでしまう原因となるのです。

これらの拒絶されてきた感情は、何度々々も浮上することによって受けとめてもらうことを求めています。

それら受けとめることこそが、自分の目のまえに立ちはだかる問題を消滅させることにつながるからです。

感情を受け止めるとは、あれこれの価値判断やストーリーをくっつけることなしに、ただそのままの感じを受けいれて感じてあげることです。

そもそも私たちは、「感じる」ということに慣れていないようです。

なぜなら感じはじめると、その感じに呑みこまれてしまうような怖れを感じるので、それをさけるためにすぐさま感情を思考へとすり替えてしまいます。

あまりにも思考依存症に陥っているので、あるがままの感情を受けいれることをすっかり忘れてしまっているのです。そのために、強い感情が浮上するとキケンきわまりないことが起こっているように感じて、あるがままに感じるこころはすぐに閉じてしまいます。

いつも考えでアタマをいっぱいにすることで感じる余地を残さずにいれば、何も感じることがなく安全でいられる!と信じてしまいます。たとえ、その思考が自分を幸せにしないものであっても、感じるよりは思考する方が安全だと勘違いしてしまうのです。

しかし、ある感情を感じることをさけるということは、幸せを感じることもできなくなってしまうのです。

先日、多くのスターを育て、メガヒットを生み出してきた米国の有名作曲家でありプロデューサーである男性のドキュメンタリーを観ていました。

彼は何十年もスタジオに缶詰めで多忙きわまりない日々を過ごしてきました。もちろん仕事では大成功を治めているのですが、そんなワーカホリックが災いして女性関係はうまくいかず、奥さんは寂しさのあまり次々に去って行きました。そして、五回めの結婚にいたりました。

そんな彼のひとことは、「セラピー?まっぴらゴメンだね。自分の内側をみるなんて、コワくてとてもできない」。彼の言葉は、「ぜったい立ちどまるもんか!自分の気持ちを感じてしまったらおしまいだ」という感じのものでした。

止まることを知らない回遊魚状態の彼は、そもそも内側を見たくないからこそ決して立ちどまって安らかな時間をもつことはないのです。

立ちどまってしまったら ・・・ 静かにしてしまったら ・・・、自分自身と向きあわなければならなくなります。絶対見たくない!と断言していたものと対峙しなければならなくなるのです。

ただただ動き回る状態はある意味、薬物中毒のような状態であり、自分をフラフラにすることによって何もわからなくして、感じていることを誤摩化してしまいます。

ほんとうの意味での幸せとは、こころが静かに安らいでいることです。

安らかなこころには、安らかな世界が映ります。それは、自分をフラフラにしていては見ることができない世界です。

そして、深い安らぎを自分のなかに感じるためには、安らぎを乱してしまうこころのなかの抵抗勢力である強い感情を無効にしてゆくことが必要となります。

そのために闘う必要はありません。ただ抵抗勢力である感情を受けいれて、消し去ります。無条件に受けいれられたものは、支えであるエネルギーを失って、ただ消滅してゆくからです。

自分のなかにどのような感情が湧きあがってきたとしても、判断したり、抵抗したり、拒絶したり、抑圧することをやめてみましょう。

不安や怖れ動揺が顔をだすと、私たちはすぐにそれらに言葉をくっつけることで、感じることをやめて考えはじめます。「なぜなの?」「どうする?」「原因は?」「何が間違った」というように・・・。

これは、脇道にそれてしまっているのです。「感じる」のではなく「考える」というルートに入ってしまいました。

そうではなく、なにひとつ言葉をつけることなく、ただその感情をありのままにして、感情に感電するがごとく感じることを自分にゆるしてみましょう。ただ、その感情とともに存在してみましょう。

言葉がなければ、それは「不安」でも「怖れ」でも「動揺」でもなく、ただビリビリ・ジンジン・シクシク・ドキドキ・ズンズン ・・・とう感じだけなのです。怖いものではありません。

言葉というものに逃げこまずに、正面から正々堂々と、丸ごと感情に自分を開いて感じてみましょう。

抵抗なく受けいれたものは、自分自身のなかでひとつになり、ようやく姿を消すことができるようになります。

そのためには、言葉を減らして静かになり、いったい自分がなにを感じているのかに敏感になってみましょう。

これを習慣化していると、かつての「不安」も「怖れ」も自分をおびやかすようなパワーを失い、安らかさや穏やかさを感じる瞬間がふえてゆきます。

こころが静かだと、目にうつるものも穏やかになってくることでしょう。こころと世界の良い相関関係が起こるので、こころも世界もともに癒されてゆきます。

感情に怯えて逃げていたときとは違う世界、もっと穏やかで、安らぎに満ちて、安心できる、優しさにあふれた世界、それを自分も目にすることができることを知って、自分の感情と向きあうことをはじめてみましょう。

 

 

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クセになるブツ

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

最近、あやしい小包が行き来しています。

それはときには、ヤバいハッパ・・・だったり、クセになるアレ・・・だったり、アブナいブツ・・・だったり。

そのうえ、上モノだとか、キケンなルートだとか・・・ (^^;;

いったい何をやりとりしているかというと、お友だちのKちゃんとお互いのお気に入りを送りあっているのです。

ヤバいハッパはおいしい紅茶、クセになるアレは食べだすとやめられないお菓子、アブナいブツは効果抜群のスグレものコスメなどなど・・・。

昨日もKちゃんから、どっしりと重たいブツがとどきました。

Kちゃんからのメッセージには、「貴子姐さんに使ってほしいわてのお気に入り」とあります。

なんだろう??

わっ☆ メッチャかわいいパッケージです♡

「私らしく輝かせてくれる」そうな・・・(まるで、セラピーの文言みたいですね〜!)

わ〜〜! シャンプーとトリートメントだ〜♡

さっそく使ってみました。

サロンのシャンプーのようにもっこもこの泡で、とってもクリーミイ。

私はクセっ毛なので、あまりサラサラになるシャンプーだとウェーブがぺたんこになってしまうのですが、これはぜんぜんつぶれずにヨイ使い心地です。

香りはフリージア(フリージア、大好き♡)。もううっとり、癒されます。

これは、かなりのヤバいブツだわ♡ (笑)

K姐さん、お心づかいありがとう♪ 香りに癒されながら、暑い夏をのりきります。モチロン、パッケージも使いますよ〜(なにを入れようかな♪)Smile