セラピストって、探偵か刑事さんのようなのです。
なぜなら、表面にみえている「これこそ問題でしょ!」というものが、その本当の原因になっていることはないので、みかけの問題にだまされることなく捜査(セラピー)を行います。
たとえそれが、人間関係にはじまって、病気や金銭、自己価値・・・などさまざまな問題のオンパレードでいったいどこから手をつけたらいいの?という場合でも、決して見えているものにだまされちゃいけないのです。原因はシンプルにひとつ。表面にあらわれているものをちまちまと片づけようとしても、一生解決をみないことになってしまいます。
じつは、わたしたちのココロのなかには二人の自分がいて、一人は愛にみちた自己、そしてもう一方はおそろしくイジワルで破壊的な自己(エゴ)なのです。そのイジワルな自己は過激な一面があって、わたしたちにまさに幸せがやってこようとすると、「なにがあってもおまえを幸せになんかしてやるものか!失敗させてやる、破滅させてやる。ボロボロになって死んでしまえ〜!」と邪魔をはじめます。
そのイジワルな自己であるエゴが、問題の本当の原因がバレないように、さまざまなかたちで問題をでっちあげて、捜査(セラピー)をかく乱してぜったい解決できないようにもくろんでいます。「ほ〜ら、こんなにたくさん問題があったら、どっから手をつけていいかわからないだろ〜が・・・」と。そのうえ、誰かほかの人のせいにすることで自分を被害者にでっちあげ、人を責め続けることで本当の解決策である自分自身に決して注意を向けないようにしています。
だから見えているままに問題をひとつひとつ解決しようとすると、「ひとつがひっこむと他がでっぱる」というモグラたたきゲームがえんえんとくりかえされることになります。まさに、Never ending story!
じゃあ、ほんとうの問題ってどこにあるのでしょう?
セラピーをしながら人の意識の深いところを探ると、とてつもない深い穴のようなものに出くわします。
こころのなかにポッカリと口をあけた、真っ黒なブラックホールのような巨大な空(くう)。その空は怖れそのもので、「わたしは宇宙のみなし子だ。誰もわたしを見むきもしない。助けなどこないから、ひとりですべてを解決してゆかなければならない。怖い!」という深い孤独と絶望感をいだいています。
その穴はあまりにも真っ暗で深くて恐ろしすぎるので、わたしたちは回遊魚のようになります。自分の気持ちと向きあわないですむように、そんな穴があるなんて気づかないように、「ぜったい止まっちゃダメ!動き続けるのだ!」と自分を忙しくします。必死でスケジュールをうめつくし、あれやこれやで忙しく動き回ります。「立ち止まったら、静かにしてしまったら、何か恐ろしいものに向き合ってしまうかもしれない」と、何もしないではいられないし、ひとりではいられなくなります。
そして、何がなんだかわからないうちに人生が終わっちゃう。・・・けれど、まだ解決しない問題をかかえながらふたたび新たな人生をスタートするはめになってしまいます。
セラピーは、そのいっけん恐ろしくみえる虚空の探検に出かけます。
本当にそれは底なしの穴なのか、中にはなにかあるのか、じっさい恐ろしいものなのか・・・・。
そこに光をもってきて調べてるのです。すると・・・ ん?ん?ん?
わたしたちが感じる怖れというものは、頭のなかででっちあげられたものなので、たいてい「ほんとうにコワイ」ものにちゃんと向きあってみると「な〜んだ!ぜんぜんこわくなかった!」ということになります。ちゃんと見られていないことこそ、怖れの原因なのです。見ていないことこそが怖いのです。
だから、ちゃんと底なしのような穴に向かいあってみると、じつは穴はどこへやら・・・怖いものよりも、ステキなものが見つかってしまいます。つまり、自分の中のお宝をみつけることになります。
何によってでもぜったいうめることのできなかった自分の中の欠乏感を終わりにしてくれる、力強い安らぎや愛や平和というものが見つかるのです。それは、刺激のある生活のなかでは、あまり大切だと思ってこなかったものかもしれません。でもいざ、それが自分を満たしはじめると、その感覚はほかのどんなものとも代用がきかないことに気がつくし、自分のまわりに勃発していたさまざまな問題を終結にむかわせてくれることがわかるのです。
わたしたちの幸せを望まないエゴが見つけてほしくなかったのは、まさにコレ!問題をたくさん並べることで、決して自分の内側の宝には気づいてほしくなかったのです。
結局、問題とは「手に入らないものを手に入らないところで見つけるようにと、誤摩化されていた」ということにまります。形のあるものでは埋めることのできないココロの飢餓感は、さまざまな形の問題として姿をあらわします。しかし、それは自分の外で解決されることは決してありません。自分自身のココロとむきあって、すでにそこにある答えを手にするしかありません。
だから、探偵や刑事さんのごとくセラピーという捜査を続けていくと、エゴの作り出していたさまざまトリックをあばきつつも、じつは恐ろしいものは何もなかった、それよりも自分の中に隠されていたあらゆることの解決策を見つけることになるのです。
イジワルなエゴが見つけてほしくなかったものこそ、この自分のなかの宝なのですね!