15-06-22 いま、何パーセントしあわせですか?

「なんか楽しめないんだよね・・・」  こんなセリフをよく聞きます。

あるいは、「楽しんじゃいけない気がするんです」。

ずっと夢みていた異国の地をついに旅しているときも、ようやくとれた休暇でやってきた南の島でねそべっているときも・・・そこはかとなくまとわりつく、不安感、罪悪感、違和感・怖れ・・・ こんなところでこんなことをしていていいのだろうか、何か間違っていないのだろうか・・・と。

楽しんでいるときにそんなふうに感じる人は、あんがい多いものです。

ずいぶん前のこと、夏に4週間ほどバリ島ですごしたものですが、海辺のコテージに泊まり、マリンスポーツを楽しみ、川ではラフティングをし、朝日を求めて山を登り、夜はバリダンスを楽しみ・・・そんなパラダイスな日々でも、お仲間に「今、何パーセントぐらい楽しんでいる?」と尋ねると、ナント45% とか、よくても 65%  とか 70% ぐらいだったのです。そういうわたしだって、手放しで100% なんてとても楽しめてなかったものです。

これはセラピーでも起ることで、今まで年がら年じゅう調子が悪くてウツっぽかった人がだんだん幸せな気分になってくると、「何かおかしいぞ」と不安になってくるのです。落ちつかない。

わたしたちの身体に恒常性があるように(体温、自律神経、体調をつねに一定に保つ働き)、じつはこころにも恒常性、つまり慣れた状態に保っておこうとする働きがあります。なのでウツっぽい状態が長く続いていると、それがその人にとってはふつうの状態になるために、よい気分になるとこころが危険信号を発してストップさせようとします。「そんなよい気分はおかしいのだ!もとに戻れ!」と。

どうやら、パラダイスな休暇もたまにしかやっってこないので、この恒常性を保つシステムがアラームを鳴らして、いやな気分になるのかもしれません。

それだけ、わたしたちにとっては窮屈な状態が「ふつう」になってしまっているのか?!

真にこころから解放されて、みじんの不安も怖れもネガティブさもなく、どこまでもつづく真っ青な大空のように開放感を味わったことがあるでしょうか?こころおきなく、なんのてらいもなく、自分を思い切り表現したことがあるでしょうか?

でも、すべては「慣れ」なのだと思います。わたしたちは「幸せです」といいながらも、かなりベールのかかった精神状態にいます。こどものときに、ふざけて母のストッキングをかぶったことがありました。よく見えない世界。・・・きっと本当にクリアな喜びのある幸せな世界に比べたら、わたしたちの「幸せです」はかなりストッキング状態に近いのかもしれません。

そんなそこはかとないウツな状態、ネガティブが漂う状態に慣れてしまっているなら、恒常性のアラームが鳴らないようにだましだまし変えていくこと。こころから楽しむことを少しづつ習慣にすること、自分をこころおきなく解放することをゆるしてあげること。

何がわたしを縛っているのでしょうか?

それは神様でもないし、宇宙でもないし・・・むしろ、神様も宇宙も、その完璧さから創造されたわたしたちに完璧さ、喜び、幸せをじゅうぶんに堪能してほしいと願っています。

それを許さないのが「自分の頭」「自分の思考」。

南の島で楽しんでいるときでも、見ているのは真っ青な空でもなく、エメラルドグリーンの海でもなく・・・見つめているのは、まだ来ていない未来だったりします。「こんなにお金使っちゃって大丈夫だろうか?」「この先どうなるの?」「戻ったら仕事を探さなくちゃ。すぐにないかもしれない」・・・せっかく楽しい経験をしていても、こころはいつも架空の不安のなかをさまよっています。まだ起ってもいないし、起るのかもわからないでっちあげの不安のなかで、まえもってしっかりと苦しんでいるのです。

「幸せは、いつかやってくるだろう」

残念ながらやってこないのです。

幸せは、今、たった今、自分が自分で自分を幸せにしてあげること。そうやって、今幸せであることで、幸せのレンズをとおして幸せが目の前に広がる様子が見えるようになるものです。

だから、たった今、自分から幸せになってみる。自分を幸せにしてあげる、幸せでいようとする・・・これが大切なのだと思います。

いつも自分に少しづつ幸せをあげていると、不幸の恒常性アラームが突然鳴りひびくこともなく、気がついたら幸せな人になっていられるのだと思います。

ちっちゃなことから、幸せでいましょうね♡ 何を自分にプレゼントしてあげましょうね?

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ヒプノセラピスト・心理カウンセラー