以心伝心、言わなくてもビビッと伝わる ・・・ あるいは、相手のこころや今の状態が自分のことのように感じられる。
そんな経験は、誰にでもあると思うのです。パートナーや親しい友人、あるいは親子のあいだで。私は、母とつながっている体験をよくしていました。
20代で、ひとり暮らしをはじめてすぐの頃。それは四月の冷たい雨が降る昼下がりで、私はあることでひどく落ちこんで、寒い部屋のなかでちぢこまるようにじっと考えこんでいました。寒いし、慣れないひとりぼっちで寂しくて、涙がぼろぼろ・・・ そのとき電話がなりました。
受話器をとるやいなや「どうしたの? 」という母の声。ほとんど私からしか電話をかけなかったし、かかってくるときは夜ばかりだったので、昼間の母からの突然の電話、それも開口いちばん「どうしたの?」と言われ、「これは、今の状態をお見通しだわ!」とびっくりしました。母は「あら、何でもわかるわよ。ちゃんと見えてるから」と笑っていましたが。
あるいは、セミナーでよく訪れていたアメリカでこっそりスカイダイビングをしたときのことも。
もちろん心配するから母には何も言っていなかったのですが、次に出かけるときに「お願いだから、危ないことはやめてね」と念をおされ、おもわず話してなかったスカイダイビングのことをカミングアウトしそうになりました(笑)。もちろん母は、ただ何かを感じてそう言っただけだったのですが・・・。
ああ、母というものは、やっぱりこどものことについてはツーカーなのだなぁと実感しました。ちゃんと話そうが、話すまいが・・・。
母とのあいだには、こんな「なんでわかるの?」エピソードが山のようにあるのです。笑ってしまうぐらい。
そんな母が、先月末、天国へと旅立ってしまいました。
ただ次元を移動するだけで、いなくなってなどいない・・・とわかっていながらも、母の姿が見えなくなることは私にとってある意味、キョーフだったのです。やってくるであろう空虚感が怖かったのです。
けれど、いざ体験してみると、まったく思っていたのとは違う体験でした。
以前は遠いところに住んでいて距離感があったのに、今はとっても近い。母を思うとすぐ隣りに寄りそっていてくれます。
そして、なにか、今までに感じたことのない深い安らぎとか、ゆるぎない安心感、平安というような感覚が日々強くなっていくのです。
これは、今までの人生で感じていたつかのまの安心感やら幸せ感とはまったく違うものです。もっとゆるぎのない、もっと深い、もっと大きなもの。大きな光にすっぽりと包まれて、守れているような感覚で、それがどんどん大きくなっていく感じ。
なぜなのだろう? 大切な大好きだった母がいなくなったのに・・・ 世の人々がさめざめと喪に服するその様子を頭に描きながら、まえよりも幸せである自分に戸惑いというか、罪悪感のようなものを感じてもいました。「母が亡くなったのに、なに? この気持ちは?」と。
でも、ふと・・・気がつきました。「ああ、いつも母は私の気持ちを手にとるように感じくれていたっけ。こんどは、天国で自由になって癒されている母の解放感と安らぎが、私に伝わってきているんだ。私も母と一緒に感じさせてもらっているのかもしれない」と。そう、いままでの完全逆パターン。
量子物理学の本で、こんなことを言っていたのを思い出しました。「ひとたび接触のあったものは、その後いくら引き離しても、つながりが切れることはない。片方に刺激を加えると、即座にもう片方も反応する」と。つまり、まったくひとつだということ。
でも、そもそも私の存在そのものが母からきているので、その一心同体感は時空を越えているは納得できることです。
そして、それは親しい間柄や特別な関係に限られたものではないのです。なぜなら、もともと私たちの「こころ」はたったひとつだから。こんなに人口がたくさんいて、別々のこころをもった人たちがあふれかえっているように見えても。そもそもその起源は、「たったひとつのこころ」なのです。
だから、相手のことがわかるとか、つながれることは、驚いたり、特別視することなどではなく、そもそもとても自然なこと。できて、あたりまえなこと。
「自分以外のこころがわからない」ということのほうが、ずっと不自然なことなのでしょう。
私たちのこころはひとつだから、いつでも、どこでも、誰とでもつながれるし、わかりあえるし、それが当たりまえのこと。ほんとうは、すべてわかってる。だれとでも。
でも、いつのまにか私たちはコワガリさんになってしまったのでしょうね。だから感じないフリをしてる。
自分が怖れでいっぱいになっているときに、相手を感じようとすると、じつは自分のなかにある怖れのこころが相手のなかに見えるから。それを相手の本当の姿だと思って、「こわい!こわい!だったら、もう相手を感じたり、わかろうとすることはやめよう」と決めてしまったよう。
そう、私たちは自分が見ようとしているものしか見えないし、感じようとしているものしか感じることができません。それこそが自分の世界。でも、心が怖れに満ちたままだと、怖れているのは自分なのに外の世界がコワイのだと勘違いしてしまいます。
でも、おもしろいもので、相手のなかの真実(愛)、真の姿を見ようとすると、自分も自分の怖れを手放して真実(愛)、本当の姿に戻ることができます。正しい見方をしようとすると、相手も自分も、ともに癒されるということ。
そんなふうに自分のこころの怖れを手放して愛にシフトしようとすると、もっともっとこころが広がって、たったひとつのこころであるすべてのこころにつながれるようになるのです。
それはいろいろな人の気持ちや状態だけでなく、すべての創造性やインスピレーションや叡智やら真理やら、すべてのすべてが含まれているのです。
なんか、向こうにいる母のおかげで「そうか!」という気づきをいろいろといただいているこの頃です。
「ツーカーだから、心配させないようにちゃんとしなくちゃね!」と、このごろはせっせと掃除をしたり、花を飾ったり、若干働き者になりました(ははは・・・至近距離で見られてるからね、頑張ります! 笑)。
PS 今、聞いているFMで、「クリスマスにこの世を去ったジョージ・マイケルの曲を・・・」と言っています。母もクリスマス旅立ち組。もしや、ジョージ・マイケルと一緒だった? エスコートしてもらっちゃった? あの美声でヒット曲「ラスト クリスマス」 も歌ってもらっちゃった?
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )