K子姫と半年ぶりのお茶タイム♡
第一声は「おつとめ、お疲れさまでした!!」
まるで、壁のむこうから帰還された姉さんを出迎えているようでもありますが(汗)。たしかに ・・・ K子姫は舞台で春先から拘束されていたので、ようやくジャバに出てこられたというわけです(笑)。
銀座のど真ん中、とっても細い路地のつきあたりにあるカフェへ。上野のフレンチ、タントマリーさんのスウィーツを出してくれるお店です。
二人していちごのティラミスミルフィーユ。ホワイトチョコがサクサクとした食感で美味しいのです。
お喋りに興じていたら、突然「二時間になりましたので・・・(お引きとりを)」とお店の方に声をかけられ我にかえりました。
店内には他にたった一組しかお客さんがいなくてガラ空きだったので、「なんで? 」と思ったけど ・・・ ここは素直に退散し、他のカフェを探しに行きました。
私たちの日常には「なんで?!」と自分目線では腑に落ちないことがたびたび起こるけれど・・・ 最近は素直に起こることを受けいれるようにしています。
なぜなら、すべては「よきこと」 ・・・ であるはずだから。
自分さえ邪魔をしなければ・・・。
でも、その「よきこと」の全貌を私たちはすべて知っているとは限りません。ほとんど、ピンポイントでしかものごとを把握できていないので、起きていることは意味不明となりがちなのです。そこだけを見ると、「間違っているぞ!」と思ってしまいがちです。
しかし、私たちはその全部知っていなければならないというわけでもないのです。「流れるように体験してゆく者」である私たちにとっては、すべてがつながってよきことであれば、それでいいのです。
たとえば昨日だと ・・・ お店の冷房がけっこう効いていて、あれ以上いたとしたらお互いノドを痛めてしまったかもしれません(二人ともノドは商売道具)。だから「もっと暖かい所に移動しなさい」というサインで、二時間が潮時だったのかもしれません。
あるいは、私たちはただ歩いているときでさえ、お互いふと視界に入るだけでも大きな影響を与えあっていたりします(ある人を見たときに、あることを思い出したり、ある感情が喚起されたり、何かを考えさせられたり ・・・と)。そんな意味もあったのかもしれません。
さらに、移動した先で私たちがおしゃべりに興じていたとき、すぐ隣のテーブルで静かにひとりコーヒーを飲んでいたオジサマがいらっしゃいましたが、もしかしたら話しの内容がつつぬけだったかもしれません。彼はなぜか、それを聞く必要があったのかも知れません(ほんのひとつの単語であったとしても・・・)。
まだまだ、他にも私たちには知れぬ理由があるのでしょう。
そして、そこで起きた小さな変化はバタフライエフェクトのように、その人のまわりの人に伝播して、さらに他の人に伝わったり、無限な広がりをみせます。
一人がほんの少し変わることの大きな変化は、セラピーでもいつも顕著なのです。お母さんが内緒でセラピーに来ていたとしても、それを知らないこどものあらゆる行動が自然と変化していく、というように。
とにかく、「すべてはそれでよい」と最初から喜んで受けいれていると、フラストレーションもないし、自然とよい方向へと向かっていきます。よい流れにのります。
それに ・・・ 私たちは他の「選択肢」があると思っているけれど、ほんとうはそのようなものはないのです。
今はこれが起こっているのだから、「これしかない」というのが本当のところです。そして、「それしかない」のであれば、それは必ずいちばんよいことなのですね。だから、それと無為にた闘わないことが大切なのです。
しかし、ものごとを自然に起こるままにさせているときでも、「どちらの目で見るのか」ということが「自分にとってそれがどんな体験になるか」の大切なカギとなります。
つまり、見方が自分の体験を決めます。
「怖れ・怒り・不満」で見れば、何だってそのように見えるし。
また、「信頼・完璧さ・愛」で見れば、いつだって目にうつるものははそのようなものばかりになるのです。
だから、起きていることに身体を固くして抵抗することよりも、いちばん大切なのは、起きていることを素直に受け入れて「安らぎと信頼の目」でいつも見ることができるようになることなのです。
K子姫と私は、移動先のカフェではお喋りがヒートアップして、さらに二時間楽しい時間を過ごすことができました♡ よい昼下がりでした。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )