「はい、毎日、出かけるまえには必ず鏡で自分をチェックします」「お化粧するときに見ます」 ・・・
これは、自分を見ているのではなく、自分のイメージを見ているということです。
「自分を見る」というのは、「私」という存在のありかを見るということ。イメージではなく、ホンモノを見るということです。
私たちの目はつねに外側の出来事に気をとられているので、なかなか内側でホンモノの「自分を見る」ということをしたことがある方はいないかもしれません。
私が最初に意識的に「自分を見る」ということをしたとき、今までスポットライトがあたったこともなかった存在に急に光があたったように感じて、所在ないやら、恥ずかしいやら、嬉しいやら。透明人間のように誰の目にもとまることのなかった存在が急に見出されて大切にされたようで、もうひとりぼっちじゃないんだという安堵を感じたものです。
つまり、私たちが孤独や不安を感じるのは、このほんとうの自分を忘れさっているからとも言えます。
つねにこころが紡ぎだすイメージにばかりこころを奪われて、ほんとうの自分が見捨てられ、置きざりにされている空虚感が不安や孤独、怖れの原因です。そして、それをうめるためにイメージの世界で空回りを続けるので、さらに怖れや孤独がつのるわけです。
自分へと戻ってゆくことは、安らぎと満足の体験で、それが自分が目にするイメージへと反映されてゆきます。
イメージの世界には何も引寄せるもはなく、引寄せるよりは自分から発するものこそが目にするものとなります。
ではでは、自分を見ることをしてみましょう。慣れると一瞬ですみます。
1♡ 自分のこころのなかの考え、イメージ、感情にただ気づきます。気づいて、見ているうちに静かになってきます。
2♡ 静かになったら、その「見ていた存在」に気づいてみます。その見ていた存在にスポットライトをあてるイメージです。
3♡ そして、その「見ている存在」のなかに、自らがダイブして消え去り、ひとつになります。そこには、沈黙があります。
4♡ そこにあらわれる安らぎ、満足感にとどまります。(もし、注意がずれて考えやイメージに巻き込まれてしまったら、また静かにそれ気づいて、この状態に戻りましょう。
練習しているうちに、いつでも簡単にできるようになります。また、考えやイメージ、感情に巻き込まれづらくなります。
だんだん、いつもそこにある安らぎの感覚こそが大切になってゆきます。すると、目にしているイメージのなかにも、同じ安らぎの象徴があらわれるようになります。
はじめて自分をしっかり見ようとすると、むずむずとした恥ずかしさを感じる方もいますし、また突如「やっと見てくれた!」という喜びの号泣が起こったという方もいます。それぞれの体験があると思いますが、そこには「やっと!」という静かな、あるいは強い喜びがあるのだと思います。
これが正しく自分を大切にすることなのですね。自分を大切にすると、目にするイメージが整ってくるのを感じます。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )