渦のなかにいると、目がまわってしまいます。
目がまわれば、具合が悪くなります。正気を失います。できるはずのこともできなくなります。
以前、たけしさんの番組で、回転椅子でぐるぐる回されてからゴルフをする、という企画がありました。誰ひとりとして立っていることはおろか、地面にはいつくばってふだんの実力を発揮することができませんでした。
私たちが問題のなかにいるとき、それはまさに渦に呑まれて正気を失っているときなのです。
ふらふらになってゴルフに挑んでいたように、私たちもすでに問題を解決できるポジションにはいません。
それでも平静を装って、問題を解決しようと試みてはみます。またそうできる、と信じているからです。
冷静な状態だったらすんなりできることも、渦のなかにいては状況に対してコントロールを失い、怖れから反応するため、さらに混乱が深まります。
渦のなかでは問題は解決できないし、そもそも解決すべき場所にはいない、ということです。
解決を望むなら、まずは渦を離れてみること、解決が可能な場所へと移動することが先決なのです。
渋谷のスクランブル交差点を渡っているとき、あちこちから人が押し寄せてきます。そっちに行きたいわけではないのに、あれよあれよというまに人混みに流されてしまいます。
しかし、いったんそこから離れれば、さきほどの雑踏がウソのように平静さを取り戻すことができます。
問題が起きているときも、その状況という渦から離れてみましょう。
目にしている画面全体から数歩、感覚的に退いてみるのです。カメラが引きのショットになるように、少し距離をとって俯瞰してみます。
目にしている画面全体に気づいてみることで、こころのスクリーンに映っているもの全体を見渡すことができます。
すると、止まることを知らないように見えたアタマのなかのセリフや考え、ストーリーがしだいに静かになってきます。
目にしている場面も、少し距離ができて、まるで過去の物語を見ているような人ごと感が生まれてくるのです。
この渦の外側の静かなところから眺めることで、さきほどまで「これは大変なことだ!」と深刻モードにおちいっていたことが、さほどでもないと感じられてくるのです。
この静けさのなかにとどまっていると、思考や感覚が落ち着いてきて、それにともなって怖れや不安も鎮静化してきます。
私たちは問題という渦に遭遇すると、あわててそれに抵抗したり、闘おうとしたり、排除しようともがいてしまいます。決して渦から逃げてはいけないと思っているのです。真正面からぶつかって行くべきだと信じています。
そのため、簡単に渦のなかに呑み込まれてしまいます。
じつは、渦のなかには答えがありません。なぜなら、そこは自分がいるべきところではないからです。正解など見つからないのです。
だから、問題という渦に遭遇したら、目にしている世界から数歩下がって、全体を俯瞰するようにし、静かなスペースから眺めてみましょう。
この渦から離れた静かな空間には、あらゆる答えが存在しています。そこのみが、答えが受け取れる場所なのです。
私たちが問題の答えを受け取りたかったら、問題という渦から脱して、静かなスペースにとどまり、そこにチューニングする必要があります。
ただ渦から距離をとってみましょう。そして、その静けさと一体になってみましょう。
こころはすぐに、怖れや焦りから開放されはじめ、穏やかでくつろいだ状態になってきます。
そのスペースとひとつになり、そのスペースとして呼吸し、ただ深くくつろぎ、とどまってみましょう。
あとは、ただ静かな安らぎのなかで過ごしてみます。すでに渦から脱して、解決の流れに乗っている状態です。
やってくる直感や感覚にまかせて、こころが広がる感じがする方向へと舵をきってみましょう。
こころの混乱が鎮まり、答えの源とつながることで、ものごとは自然に流れはじめます。これで、必ずうまくいきます。
私たちは外側に答えを探しているだけで、ぐるぐる目がまわってしまうのです。なぜなら、そこはいろいろなものがせめぎあう渦そのものだからです。
渦の外に出るというのは、混乱が混乱を呼んだ状況のなかから距離をおき、静けさのなかで正気を取り戻すことです。
そして、答えを受け取りたいという意志をもって、答えそのものである叡智(静けさ)とつながることで、答えが自然と目のまえに映し出されるのをゆるすこができます。
難しいことはありません。ただ、見ている画面から少し離れて俯瞰して、こころに安らぎを取り戻し、静けさのなかにとどまってみましょう。