Q:委ねることが大切だと教えていただき、いろいろなことを高い意識に委ねるようになりました。しかし、自分の達成したい「ゴールをもつこと」や「自分で決めること」などを、どこまでしていいのかわからなくなっています。
A:そうですね。私たちは成長してゆく過程でつねに、「自分の意志をはっきりともつことが賢いこと」であると教えられてきました。
「あなたはいったいどうしたいの?」「ちゃんと自分の意見を言いなさい」「自分のことなのだから、自分で決めなさい」「自分のゴールももてないの?」
それができないと「はっきりしない子」「決められない子」と、ダメな子のレッテルを貼られたものです。だから、こどもの頃の学校生活のなかでは、しっかり「決められる」、ちゃんと「自分の意志がある」子が「ヨイ子」だとと言われてきました。だから、そうなろうとみんなで頑張りました(汗)。
でもじつは、これこそが「わたし」という「我(エゴ)」が肥大してゆくプロセスといえます。
幼児の頃には、私たちは「わたし」という意識はあまりなく、自分と他のものの境界もあいまいで、自然と調和しながら生きていたのです。簡単に自分をなくすことができるので、悩まないし、衝突も少なかったのです。
でも、鏡に映る自分が自分だとわかるようになり、名前が書けるようになり、「あなたはどうなの?」「あなたは」「あなたは」と言われ続けるうちに、「わたし」が強調され、個としてのエゴの感覚がだんだんと強くなってゆきます。
この「わたし」をたくましくすることこそが、エライこと、成長の証だと勘違いしてしまいます。
これこそが、人との対立や、人からの孤立、あらゆるものからの分離、そして問題というものが生まれる起源ともいえるのです(そもそも「わたし」という感覚がないと、問題も存在できないのです。)
だから、成長の過程で肥大化してしまった「わたし」、問題の根源であるエゴの「わたし」を手放すことこそが、問題を収束させ、安らかになる道なのです。
安らかに生きてゆくためには、ほんとうのところ「わたし」という意識は重要でないのです。ほっといてよいのです。手放しちゃっても大丈夫です。
たとえば・・・まだシニアデビューしたてのフィギュアスケートの選手。
彼らは、優勝も狙っていないし、とにかく大きな舞台で滑ることが嬉しくって、思いっきり演技をします。シニアになりたてのMちゃんなんて、笑いながら軽々とトリプルアクセルを完璧に飛んでたし、Yくんもこわいもの知らずでオリンピックも金でした。
彼らは身体のことなんか忘れて、まさにジャンプになり、スピンになり、ステップになり、音楽になり ・・・ そこには欲望も野心もありません。で、びっくりするような高得点が出て、まわりも本人さえも仰天するのです。
でも・・・ 成功しちゃった「わたし」のプライドが出てくるとやっかいなことが起こります。もう、あの魔法がなくなっちゃう。
素晴らしいアーティストの歌を聴いているときも、そのアーティストがただ旋律の流れになっていて、「わたし」の「わ」の字も残っていないのが伝わってきます。ただ歌声のその響きとして存在しているのです。
そんなふうに、素晴らしいパフォーマンスには、じつは「自分」というエゴの意識は余計であり、邪魔なのです。
パフォーマーに「自分」という我が入っていると、なんか余計なものが混じっている感じがしてダイレクトに伝わってきません。引き込まれ度がぜんぜん違うのです。
「ゴールをもつこと」は悪いことではないけれど、まったくそれに執着しないことが大切なのだと思います。
なぜなら、そもそもそのゴールは何のためなのか? なぜ達成したいのか? ということなのです。
私たちが何かを欲するとき、そこには欠乏感があります。無価値感があります。それらの下には、怖れがあるのです。「それを達成しないとマズイ状況になる。コワイことが起こる」という。
ゴールそのものが、怖れに根ざしているということになります。そして、すべての動機は結果に結びついています。怖れを動機として行動を起こすと、もれなく結果に怖れがくっついてきます。動機と同じ種類のものを手にすることになるからです。
よくあるご相談として、経済的な問題があります。「お金に不安があって、増やすためにあれやこれやすべての手を尽くして行動しているのに、まったく改善のきざしが見えないのです」と。
この場合、動機に怖れと危機感があるままあれこれ動き回ってしまっているために、どこまでも危機感はつきまとってくることになります。
まず見なければならないのは、「この怖れと危機感にさいなまれている自分とは、いったいどういう存在なのだと自分で信じているのか」ということなのです。
たとえば、「見捨てられている」「助けてもらえない」「ひとりぼっち」・・・。
じつは、すべての問題はこの「自分に対する認識」という問題に行きつきます。自分という存在を誤って認識している限りは、何をしようとも、どんな努力をはらおうとも、その怖れはなくならず、どんな行動をも望む結果に結びつけることはできないのです。
自分の目に映るものは、つねに自分のこころの思いをあらわしているからです。
自分に対する認識を調べることとともにもう一つ大切なことは、自分の小さな自己(エゴ)を手放して 〜 なぜなら、このエゴさんはあまりにも極小すぎて何も知らないし、コワがりすぎるし、うるさいので 〜 本来の自分自身(高い意識)とつながって、よいコミュニケーションをとることなのです。
私たちは、エゴの言葉に耳を傾けすぎたあまり、ほんとうの自分の声を聴き分けることができなくなっています。エゴはコワいことしか言わないので、このほんとうの自分の声を聴くことができないことが怖れの原因です。源からのサポートがまったくこないことと同じなのです。
あるいは、ほんとうの自分がいることさえ気がついていないのかもしれません。
自分の育ての親よりも、誰よりも、自分のことを大切にしてくれていて、いつも幸せに導いてくれる存在がいるのにもかかわらず、その存在とまったく疎遠になってしまっていることが問題であり、それに気づかなくてはなりません。
その見守りサポートしてくれている存在に気づくようになると、じつは自分が考えるゴールなんていらなくなってしまいます。なぜなら、その存在におまかせして何もしないことこそが、いちばんうまくいく方法だということがわかってくるから。ヘタに手出しをしないことこそが一番安全、というわけです。
結局、「わたし」が何かをしようとすることは、「エゴ」が手だしすることと同じだということ。そこにすでに存在する完全さを台無しにしてしまうのは、いつだってエゴのひとことであり、エゴが手出ししてくることによってなのです。
私たちがやらなくちゃいけない唯一のことといえば、思考として口をはさんでくる「エゴ」に対して、いちいちお答えしないことぐらいです。
エゴが「ああ!たいへん、どうしよう!どうしよう!」と言ったとしても、「ほんとだ〜!ああなるかも、こうなるかも」なんて、お答えしないことです(みんなエゴに対して優しすぎて、全部お答えして、延々と会話をしています)。
ラジオやテレビがしゃべっているのに対して、いちいちお答えしないのと同じです(え? テレビにお答えしてる? 汗)。
エゴは勝手に一日中しゃべっていて、それはまるで自分が考えているように思えます。いいえ!勝手におしゃべりがやってきているだけなので、ただスルーしましょう。
ほっておかれて相手にしてもらえないとわかると、エゴ(思考)はちゃんと静かになってきます。凶暴でもなくなります(エゴがうるさくて、残酷なことを言うのは、ちゃんと聴いちゃって、話しをあわせているからです)。
すべてはほっておいたほうがうまくいくのです。なぜなら、そこには全体である完全性があるから。
「自分でしたい、決めたい」と感じるときには、その動機を探ってみましょう。きっと、コワがりのエゴが「絶対そうしないとダメだよ。こんな悪いことになっちゃうよ〜」と言っています。
その怖さを見つけたら、何か新しい行動を起こすよりも、その怖さを探求して感じきって、終わりにしてしまいましょう。そうすると、その行動じたいに重要性がなくなります。
あとは、人生がどのように展開するかただ静かに見守るだけで大丈夫。私の人生に勝手にやってもらうのです。
そうしておけば、必要なことは必要なときに、ほんとうの自分からちゃんとお知らせがやってきます。そのお知らせを受けとるためには、エゴ(思考)のお相手をし続けていると気づくことができません。エゴ(思考)はほっておきましょう!
エゴちゃんが退いてくれると、大いなる自分が煌めきを放ってくれるようになります。その煌めきのなかでは、今までの風景が違って見えます。
そのとき、ゴールをめざすことも、決めることも不要となります。大きなる自分という星の煌めきを頼りに進みましょう!
私は「あなた(エゴ)がいなくなると、神(ほんとうの自分)がはいってくる」という言葉が好きです♡
☆★☆ Merry Christmas ☆★☆
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )