「爆音映画祭」を観てきました。
これは、誰もが知っていて観たことがあるような作品(「ラ ラ ランド」とか「シング ストリート」とか)を、「音」というものにこだわって大音響で上映しているのです。
けれど、大雑把な爆音ではなくって、本来の作品のなかでひろわれていないような音をあらためて強調したりすることで、また違ったストーリーがみえてくるというもの。
観ていて思ったけれど、「音」こそがじつはストーリーを紡いでいるのではないのか? ということ。
つまり、起こっていることは「単なる」出来事で、良くも悪くもなく「あるがまま」であるのに対して、いったん音がついてしまうと、それがとつぜん重要性をおびたり、緊張感を生んだり、歓喜に舞いあがったり、とんでもないホラーにもなったりします。
電車の壁に埋めこまれているモニターをイメージするとわかりやすのですが、どのような画像が流れていようが「音」はついていません。
そうすると、どんなシーンであろうが、けっこう「どうでもいい」のです。かりに、ジェイソンが襲いかかろうとしていようが、ジョーズが大口を開けようが ・・・ 「あ、そうですか・・・」っていうクールな目線で見られるのです。
いったん音がついちゃうと(そう、あのお決まりのジョーズ登場の音)、ヒレが見えているだけで一気に恐怖感が高まります(でも、ヒレはヒレなのですが)。
あのお決まりの音には、「とんでもない恐怖が起こる!」「目もあてられない惨劇になるに違いない」「血まみれ」「痛み、絶叫」・・・ という記憶や思考というこころの音がつけ加えられて、「あるがまま」だったものを一気にキョーフに陥れます。
でも、「音」さえなくなっちゃえば、ヒレが海面にあらわれても「ただヒレだな〜」という素直な感想でしかありません。たとえそのあと何かが起きても、実際よりはすごくたんたんとしています。
だから、ホラー映画から「効果音」と、さらに記憶・思考・価値判断というこころの「音」をとってしまうと、もはやホラーでさえなくなっちゃうのです。
私たちは「音」にホンロウされている、といってよいようです。
ってことは ・・・ 起きている出来事よりも、そこにくっつけちゃう「音」こそがキョーフの源なのです。
そして、私たちは毎日毎日、「あるがまま」であるはずの人生という画像にせっせと効果「音」をつけることにたいそう忙しいようです。思考、感情、記憶、感覚という音を。
「あるがまま」という人生にそんな「音」をつけることこそが、人生で自分がするべきことだと思っているのかもしれません。
なんせ、「あるがまま」という何もついていない状況はおちつきませんから。
私たちは極度に「何もない」ということにおびえているので、とにかく何かで埋めたい。埋め尽くしたい。「何もない」ということがみじんもわからなくなるまで。
だから、「何か」を目にするやいなや、いろいろな意味や判断や感情や過去をくっつけまくります。「あるがまま」があとかたもなく消えさるまで。(こりゃ、神経症としかいえませんわね。)
でも、「音」のない電車のモニターがそうであるように、「あるがまま」はただたんたんと、あるがままに流れ行く ということを知ったら、あれこれをくっつけるというエネルギーの消耗にこそウンザリするし、そんな神経症のすべてが笑えてくるかもしれません。
私たちが人生というストーリにくっつけている「音」(=思考、感情、記憶、感覚)をたんなる効果「音」なのだと気づくと、「音」に踊らされなくなる自分に気づきます。ただあれこれの雑音に気づいているだけで、すぐにスルーできる感じ。
「現れては消えさってゆくものはどうでもいい」っていう感じで、いちいちかまってエネルギーを使わなくなるのです
そうすると、その後ろがわに隠れていたもの、安らかさや「静寂」に気づけるかもしれません。あ、安らぎはいつもここにあって、どこかに探しに行かなくてよかったんだ!ってね。
こころのなかの効果「音」(思考、感情、記憶、感覚)をただ「音」として気づくようにしてみましょう。そうすると、心配だったこと、重くのしかかっていたことなど、いろいろなことから重要性、シリアスさがはがれ落ちてしまうかもしれません。なんかやたら楽やかになって、どうでもよくなります♪
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )