はじめてダウンタウンさんのある番組を見たとき、最初はその主旨がつかめず「いったい何をしているのだろう?」とわけがわからなかったものです。
それは「笑ってはいけない」シリーズ。大物タレントさんたちの意表をつくヘンテコな出しものの数々は、間違いなく笑いのツボをおしまくるのですが、それでも「絶対に笑ってはいけない!」のです。もし笑ってしまったら、お尻をたたかれたり、タイキックや罰をくらうことになります。だから、こらえるこらえる。
笑いは、笑おうと思って笑うわけではなく突発的に起こる反応なので、みんなどうにもならずにバシバシ罰をくらいます。
笑うまいとしても笑っちゃうのを止められないからこそ、次から次へと笑いを仕掛けられるし、見ているこちらも笑ってしまうのです。
「笑う門には福きたる」で幸せになるには笑うことは欠かせません。しかし、じつはもっと確実に幸せのために役だつ地道なこともあるのです。
それはなにかと言うと、「文句を言わないこと」なのです。
だから、もし私がダウンタウンさんのような番組を作るんだったら(笑)、「笑ってはいけない」ではなくって「文句を言ってはいけない」となります。
「文句? そもそも、そんなに文句なんて言ってないから、ピンときませんけど」って?
ハイ、たしかに声に出して正面きっては文句を言わないかもしれません。だからといって、言っていないというわけではありません。本当に自分自身に正直になったとしたら、誰でもこころのなかでは文句のオンパレード、文句のたれながし状態であることに気がつくかもしれません。
文句というのでわかりづらいようであれば、「批判すること」、あるいは「ムっとすること」「見下すこと」「ひとこと言っちゃうこと」「自分のやり方にしたいこと」。これらは、みんな文句です。
コントロールできない笑いと同じで、文句もいつ、どんな場面で飛びだしてくるのか、自分でもまったくわかりません。
そして、じつはこの無意識のうちに日々やってしまっている文句こそが、自分が目にする世界の彩りや安らぎ感を決定的に決めている重要な要素なのです。
文句を言うことで、自分の目にする世界にどんな影響がでているのかというと ・・・。
文句を言うことは、ひとつの流れである「あるがままである、そのままのもの」(完全無欠であるひとつのものと考えるといいと思います)に対して、挑戦をいどんでいるのです。いちゃもんをつけて、あるいち部分だけ切り離してしまうように攻撃しているわけです。
完璧にしあげられた一枚の絵があるとして、それに対して「この部分はないほうがいいでしょ」「ここはおかしいでしょ」と色を変えたり、切り取ったり、構図を変えたり ・・・ 自分の好みでメタメタにしているようなもの。
何の問題もなかったところ(完全な一枚の絵)に、「私」の好みという他の誰も理解できない個人的な理由でケンカを売っているようなものなのです。
メタメタにしちゃったあげく、なぜか自分でその惨状をなげいているわけです。本当は、自分があれこれ言うまでは何の問題もなかったはずなのに ・・・ です。
そして私たちは無意識のうちに、自分がメタメタにしたのがわかっているので、罪悪感を感じます。
罪悪感を感じているということは、それに対する裁きがあって当然であると信じているので、外側に自分に対する裁きを見るようになります。
それが自分にとっての、問題や困難となって見えるというわけです。たんに自分自身の「文句を言う」気持ちが外側に投影されたものを見ているにもかかわらず。
だから、「あるがまま」であるものをただあるがままにしておくためには、「文句を言ってはいけない!」のです。
あの「笑ってはいけない」で次から次へと笑いが仕掛けられてくるように、私たちのエゴも次から次へと不平不満のポイントに見えるようなことを仕掛けてきます。裁け裁け、そして苦しめ苦しめと。
「ホラ、見てごらんよ。あの人、あんなことしているよ。間違っているよね。おかしいよね。ヘンだよね」「この人、こんなことも知らないんだよ。恥ずかしいよね。笑っちゃうよね」「あきらかに、この人より自分のほうがうまくできるよね。優れているよね」「何やってるんだよ。ダメだな〜」「ホント、みんなおバカさんばっかりだよね」 ・・・ と次から次へとけしかけます。
エゴはすぐに飛出してきて、すかさず口を開くことで「あるがまま」を台無しにしようとします。本当にどれだけ巧妙に「優越感を感じようとしているのか」「自分のほうが上だと思おうとしているのか」気づいてみてください。ほんの小さなことでも、目のまえにいる相手と競争しているのに気がつくかもしれません。
そして、エゴのこんなくちぐるまに少しでものってしまうと、さらに自分の罪悪感をふやすこととなり、その結果として自分の人生に困難をふやすことになってしまいます。
でも、突発的に「文句を言ってしまった」としても、あの番組のように誰もその場ではお尻をたたきにやってきません。だから、ついつい気づかずにやりつづけてしまいます。そして、知らず知らずのうちに嬉しくない現実を目にするようになってしまうのです(だったら、その場でお尻をたたいて矯正してもらったほうがずっと親切ですが・・・)。
ほんとうのところ、やってくる現実に対しては、「口を開いてはいけないし(文句を言ってはいけないし)」、「指一本ふれてはいけない(コントロールしようとしてないけない)」のです。
「そのままであるものを、あるがままにしておくこと」こそが、私たちがしなくてはいけない唯一のこと、と言ってもいいかもしれません。
どこまでじっとしていられるでしょうか? 口をつぐんでいられるでしょうか?
そのとき、エゴが何て叫んでいるのか、耳をすませてみましょう?
「早く攻撃しないと(文句を言わないと)、自分の無能がばれる」・・・とでも言っているでしょうか? そう、すべての攻撃は怖れからやってきています。
そんなエゴの動きを観察してみてください。ただシラ〜っとながめてみてください。
ただ静かにエゴの動向を見守ることで、エゴはすごすごとおとなしくなります(お尻をたたかなくってもね)。
なので、どんなポイントで無意識のうちに裁いているのか、文句を言っているのか、不平不満を並べているのか、ムカっときているのか ・・・ エゴの動きを観察してみましょう。
ただエゴの動きに気がついて、見ているだけで、のっとられることが少なくなります。万が一、エゴのくちぐるまにのってしまったとしても、すぐに気がつくようになり、それ以上つづけられないし、またやめられるようになるのです。
あるがままの現実に対して口を開かないこと、つまり自分のこころのなかの文句が減るだけで、目にする世界の様相が変わってくるのに気がつきます。
「あるがまま」というものを信頼できるようになるし、また「あるがまま」を受けいれることでまったく新しい可能性というものに気づくようになります(同じ反応から生まれていた旧いパターンから解放されます)。
なぜなら、目にする世界のキケンは、自分のからだ全体から出しているハリ(そう、ハリネズミのように)が、世界という鏡にうつっていただけだったのですね。
どのような世界を目にしようとも、結局それは自分の考えの結果なのですね。
お笑いで人生に華をそえることも大切だけれど、「文句を言わない」ことでありもしない問題をわざわざ作りださないこともとても大切なことです。
思わず「文句を言っちゃったら」、こころのなかで笑いながら自分のお尻をたたいておきましょう。こうして気づいていくうちに、文句を言いそうな気配に気づいてくいとめられるようになり、まただんだん文句の数も減ってくるようになります。
ゲーム感覚で楽しんじゃいましょう!
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )