自分にとって問題となることが起こっているとき、
私たちのアタマに浮かぶセリフは、だいたいこんな感じです。「なにが間違った?」「誰のせい?」
この答えはたいてい、「誰それさんのせいだわ!」「いや、わたしが足りなかったかも?!」「そういうご流れ(ご時勢)なのだから、しかたないか・・・」「そういえば、星占いもよくなかった」「そういう運命なのね」・・・。
ひとの動機をしらべたりものごとの間違いさがしをしたりして、外側のなにかを変えようとするか、はたまた変えられない運命として無力に感じるか・・・。
この考え方は自分の外側に答えがあるという前提で、自分の外側で解決しようとしているのですが、じつは間違いが深まってしまう方向に進んでいます。
無意識のうちに「ほんとうのこと」をさけたいときにこそ、「誰のせいだろう?」と外側に目をむけてしまうのです。自分をごまかして、原因探しの捜査をかく乱するための陽動作戦なのです。
するべき質問があるとしたら ・・・ それは「私はなんで、これ(問題)を見たいと思っているのだろうか?」ということ。
私たちのこころは、自分が見たいと思っているものしか見ることができません。
だったら、人や出来事を分析することはやめて(被害者はやめて)、「どうやら私はなんとしても、これを見ることに固執しているらしい」と認めることです。
じゃあ、なぜ固執したいのか?
*「それを見続けることによって、いったいどんな自分でいられると思っているのか」(守ってもらえる? 同情してもらえる?)
*「それによって、なにが手に入るのか?」(保護? 安心? ・・・)
*「それがなかったら、いったいどんな自分になってしまうと思っているのか?」(価値がない? 生きていけない?)
*「それらは、本当のことでしょうか?」(いったいあなたは、自分をなにものだと思ってる?)
こころのなかで、無視しつづけてきた間違った考えを見つけることができたら、ハイヤーセルフにさし出して、もっていってもらいましょう。「これは間違って私が握りしめていた考えです。けれど、私の役にはたっていませんでした。私のこころから取り除いてください」と。
自分の外側のことばかりを気にして、それをどうにかしようとすることは、「私の間違った考えは隠しておきたい」「それよりも、人を責めて被害者でいることを選択したい」という無意識の決意にほかなりません。
間違いにフタをして被害者でいようとすることは、ラクなようでいて、決してこころは安らぐことはありません。被害者は「加害者(悪者)」が必要であり、ひとを悪者にでっちあげることで自分だけがヨイ人でいようとする企みだからです。
すると、企みがバレるよりもまえに、無意識のうちに自分で自分を痛めつけてプラマイゼロにしようとします。つまり、自分で自分を痛めつけてしまいます。
こんなややこしいことよりも、こころの向きをかえて、いさぎよく自分のこころのなかにあるものに向かってみることです。
間違った考えのひとつひとつが消えて行くことで、怖れも姿を消し、おのずと安らかな世界を見ることになります。こころに向きあう以外のムダな努力はいらなくなるのですね。それが流れにのる、とうことです。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )