20-08-27 ホッパーの絵のように・・・

 

静まりましょう。

言葉がなくなり静かになると、自分が目にしているあれこれ、感じているあれこれ、聞こえているあれこれが ・・・ 自分の内側に存在するようになります。そして、それらはただ流れてゆきます。

私たちがものごとを目にするやいなや発してしまう「あ〜だこ〜だ」のセリフは、流れゆく一連のものをバラバラに引きちぎってしまい、互いに対立させ、対立しているからこそキケンなものになってしまいます。

だから、問題があるように思えるときは、ただ静かにしてみます。

まったく裁いたり抵抗したりすることなく、それらが私というスペースのなかを無条件に通りすぎてゆくのを赦してあげましょう。(これが受け入れること、つまりほんとうに赦すことです。)

そうすると、それはただ過ぎゆくものとなり、消え去ってゆきます。

しかし、そこにあれやこれやの判断や抵抗がくっついてしまうと、それをしっかりと握りしめ、消え去ることを許さず、イチャモンをつけていることとなります。

ケンカを売っちゃったのは自分、つまりひきとめて消えることを阻止しているのは自分自身なのです。

さまざまな困ったことにしろ、身体の不調にしろ、誰かの困りごともしかり、

私たちは勇んでそれに向き合い、対峙することが正しいと信じてきましたが ・・・ まずは静かにして、すっかり手放してあげましょう。

それらをただスルーしている状態です。

もし、それに対して何かすることがあるのならば、ひらめきがやってきたり、身体が勝手に行動を起こしていることでしょう。必要ならば、なにかを自動的にしているのです。

目のまえを流れてゆくものに注意をつかい果たさなければ、もともと存在していた自分自身の叡智が姿をあらわし、ちゃんとお仕事をしてくれます。

静けさのなかにいるとき、私は窓の外を見ながら、街を歩きながら、カフェに坐りながら、まるで世界がホッパーの絵のようだわ、と感じます。

しんとした静寂のスペースが広がっていて、そこに人がいるにもかかわらずまったくストーリーやドラマは感じられません。空間はなんの混じりっけもなく静けさをたたえたままポカンと広がっていて、まるで時が静止したように感じます。まっさらな感じ。

人によってはエドワード・ホッパーの絵は「孤独」とか「寂寞感」があるといいます。私は、しんと静まりかえって、そこに個々のあれこれと時間の流れがない開放感、そして静かなここちよさを感じさせてくれるのです。

ただ静まってみましょう。

後ろに退いて、まさにホッパーの絵を見ているように目にしている画面全体になってみましょう。(これは、ポカンと何かを見ているときにいつも起こっていることです。自分がいなくって、世界という画面だけが存在します。)

その静けさのなかから、問題やらトラブルと見えていたあれこれが、ただ静かに流れて、姿を消してゆくのを見ていましょう。

このスペースになっているとき、すでにそれらはそんなに重要だったり、どうにかしなければならないことではなくなっているかもしれません。(このスペースには、癒しのちから、解決のちからがあるのです。)

このスペースから見るすべてが、どのように形を変えてゆくのか、ただ見守るものでありましょう。

すると、あとになってきっとこんなふうに感じるかもしれません。「おお、そうきましたか!(喜)なるほど〜♪(満足)完璧! ありがとう♡」

 

 

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