22-03-29 感情が波立つのをコワがらないで

 

私たちのこころは、ほんとうの自分でないものを少しづつ手放しながら、本来の自己に向かう旅をしています。

本来の自己を解放することが目的なので、この旅の途上では自分でないものにひとつひとつ気づきながら、地道に手放してゆくことが主なお仕事といえます。

真の自分でないものに気づくためには、自分のこころに起こる痛み(抵抗)に敏感になることが大切です。

痛みこそがニセモノの自分のサイン、叫びです(真の自己は痛まないのです)。だから痛みは、まだ解放されていないこころのポイントをさし示してくれます。

その痛みは、日々の生活の出来事をとおして怖れや怒り、罪悪感などの感情としてあらわれます。

しかし、怖れや痛み、罪悪感に遭遇するとき、せっかく手放すべき感情が浮上しているにもかかわらず、私たちはなにか間違ったことが起こっているように感じてしまい、ふたたびその感情を抑圧してこころの奥深くにしまいこんでしまうことが起こります。

ひとりの人が人生のなかで体験する出来事は限られてるので、隠されている感情を浮上させて手放す機会も限られたものとなります。

その点、映画やドラマや演劇は自分が実際にその出来事を体験していなくても、ただ登場人物と心理的に同一化することで、自分のなかにあるさまざまな未解決の感情を浮上させることができ、手放すことができるのです。

しかし、感情を感じること(感情が乱れること)がよくないことであると信じていると、感情が波立ちはじめるとあわててこころを閉ざしてしまいます。

すると、せっかくの自分を解放するためのチャンスをのがしてしまうことになります。

無意識のこころのなかにはさまざまな感情のジャンクがたまっていて解放のときをまっています。

せっかく手放すために浮上してきても、感情が波立つのを怖れてしまうとやすはすと感情にロックをかけてしまうことになりかねません。

感情を制御しようとすると、怖がらなくてすむかわりに嬉しくもなくなります。感情はトップとボトムが一組になっているので、片方を制御しようとすると感じる気持ち全体がにぶくなってしまうのです。

そうなると、目にするものがモノトーン化し、体験がぼやけてしまうことになります。

自然の流れにのっていないものはよどみ、腐敗し、いつかはガス爆発を起こしてしまいます。

無視されて抑圧された感情は、あるとき自分でも制御ができないほどの怒りや怖れとなり、自分に襲いかかり、翻弄されてしまうようなことが起こります。

そもそも、感情は自分のなかをさらさらと流れてゆくもので、自分自身はそれをただ眺めています。

シャワーをあびているときに、水の流れが自分の皮膚の上を通過してゆくのを感じるように、その感覚を楽しむけれどそれに支配されることはありません。

しかし、感情を怖れている人は、シャワーの水をそのまま皮膚の上を通過させず、まるで自分がスポンジになったようにすべて吸収しぱんぱんになってしまい、自分がその水に支配されてしまうようなことが起きているのです。感情をふたたび抱えこんでしまうのです。

さらさら流れるのとためこんでしまうのは、なにが違うのでしょうか?

それは、感情をつかむかどうか、巻き込まれるか巻き込まれないか、の違いです。

巻き込まれてしまうのは、それに対して判断や比較、ストーリー、善し悪しをくっつけてしまい、自分個人のものとして内側に取りこんでしまったのです。

もし判断もせず、なにもコメントしなければ、それはただ過ぎ去ってゆくだけです。

ドラマや映画は、自分で経験すらできないさまざまな状況を擬似体験し感じることができます。それによって、自分の無意識のなかに押し殺してきた感情を浮上させることができます。

じつは、この無意識のなかに押し殺していた感情こそが、自分の身体や、まわりの人、そして自分の未来などに投影されて生きづらいストーリーを展開する原因となっていたのです。

せっかくそのような抑圧していた感情がドラマや映画で浮上し、気づくことができたのなら、あとはただ解放してあげるだけです。自分の邪魔をしていたものに、さよならする機会とすることができるのです。

そのためには、その思いや感情を、ただ価値判断やストーリーなしにまっさらなままに感じて、終わりにしてしまいましょう。

自分のなかをただ通りぬけさせてあげることで、それはついに消滅してゆくことができます。

そういった意味では、ドラマや映画の鑑賞は、自分の解放にとってとても時短となります。あとまだ何十、何百、何千も(?)転生して体験し浄化すべきだった感情を、一気に浮上させてきれいにすることができるからです。

感情が乱れるときこそ、こころはいらないものを手放そうと頑張っているときです。

だから、感情をこわがらず、ただ手放して感じて、流してあげる練習をしましょう。

浮上してきた感情をふたたび押し戻すことなく、ただあるがままに感じて終わりにしてしまいましょう。

感情に巻き込まれないためには、アタマ、想像力を使わないことです。からっぽになって感じることです。

自分のなかを感情が自由に流れるようにしてあげると、かつてこころが乱れていたような状況でも、安らかさのなかから静かに眺めることができるようになります。

そしてこころの静けさこそが、自分の目にする世界を穏やかなものにしてくれるのです。

 

 

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