furukawaさんのブログ

気づきの日記「生き方が変わるシフトの瞬間」

先日、友人にすすめられて観た「ザ・シフト」というDVD。

この映画は、カップルや家族のストーリーを例にとりながら人生の大切な時期に起こるこころのシフトについて、ウェイン・ダイアー博士が自らのシフト体験を語っています。

ダイアー博士というと、心理学やら自己啓発の書籍をたくさん書かれている大家で、以前に私も何冊か読んだことがありましたっけ。

しかし、あきらかに今回の映画の内容は、以前のダイアー博士の方向性と180度かわっているのがわかります。「あらら〜・・・ずいぶんかわっちゃったのね」 ・・・ 何がかわったかというと、野心を満たす外的な成功への指針から、こころの満足ややすらぎへの指針へと。

その180度の方向転換が起こった体験と気づきを、ダイアー博士自らが語っているのです。

ダイアー博士がまず例にとっているのが、心理学者ユングの「人生の午前の時間と午後の時間」という考え方。

ユングは人生を午前と午後にわけて表現していて、午前とは太陽が自分の正面からさんさんと照っている状態で、まだ影という存在にすら出会ったことがない時間帯です。いわばイケイケの時間帯で、こわいもの知らずです。

しかし、太陽が徐々に真上にさしかかり、ほんのちょっとでも自分の後方へとずれようものなら、「ガガーーーンっ!!」突如いままで目にしたことがなかった光景にでくわします。それは、自分の影というもの。見たことのないものを見せられて、ガクゼンとする瞬間なのです。

上り坂だった自分の人生が急に下り坂にさしかかる瞬間でもあり、今までの生き方が通用しなくなる瞬間でもあります。

それゆえ、人生の午前のルールと午後のルールはまるで違うものとなります。

たしかにそうです。人生の午前は頑張れば頑張ったぶんだけ結果が出るし、人生が上向きになる可能性にあふれた時間帯なのです。

しかし人生の午後に足をふみいれると、ある意味「喪失」の時間帯となります。体力、気力、健康、家族、仕事、地位 ・・・ 今まで自分の意志や力でどうにかコントロールできていたものがまったくコントロール不能となります。失っていくものの大きさに、はじめて自分の無力を感じるのです。

自分の人生では神だったはずの自分が、急にそのパワーを失い、神から失墜してしまう体験をするわけです。

ユングいわく、「人生の午前と午後の時間帯は同じルールで生きつづけることはできない。午前中に有効だったルールが午後には自分の首をしめるようになってしまう」といいます。ルール変更のときなのです。

人生午前中のルール、価値観を手放さないかぎりは人生にふりまわされ、苦しむを味わうことになります。人生の午後には、根本的に生き方を変える、つまり人生を真逆に生きること、180度転換することだと言います。

ダイアー博士もそれを経験した一人として、自分に起きた180度の転換、危機とおもえる状況を意味ある人生へとシフトさせた瞬間のことを語っています。

以前の自分は社会的な成功と満足のために本を書きつづけてきたけれど、結局は成功といわれるものを手にしたところで満足は感じなかったそうな。また、自分の満足を満たすために、自分も家族も犠牲にしていることに気づいたそうです。

そして、ダイアー博士は「クアンタム モーメント(跳躍の瞬間)」といわれるこころの変化のときを迎えます。

それはある日突然やってきて(ダイアー博士の場合は、気づきとともに花のようなかぐわしい香りを感じたそうです)、根本的に自分の生き方を変えてしまったと。

外的な成功を求めて自分を満たそうとする野心そのものの「エゴの生き方」から ・・・ 流れに身を委ねながら、大いなる源に身をまかせ、あるがままに自分を輝かせて、それを他者とわかちあう「真の生き方」へとシフトしたというのです。

それまでは、社会的な成功に重点をおかれて書かれていた博士の著書とはうってかわって、「超越したも存在を迎え入れて、それに自分を委ねること」をしながら、「自分をどのように与えることができるかを考えながら生きること」とか、「生かされている、ありのままの自分に戻ること」が語られています。

そしてこれこそが、いっけん「喪失」と感じられる人生の午後をよりよく生きる生き方なのだと。

たしかに、私たちはものごころついて社会化される頃から、この社会でサバイバルするためにどれだけ自分自身に有益性をプラスできるかの闘いをしてきたといえます。少しでも多くのものを手にするために、野心というものを植えつけられ、エゴ的な生き方を強要されるのです。

そのために、他を出し抜くことが重要な目的となります。見栄えのいいかっこをし、マナーを身につけ、好かれるためにおせじのひとつも言えるようになり、資格や特技をより多く身につけるべく必死でお勉強をし、よい仕事につき専門性を高め、自分にとってメリットのある伴侶を見つけ ・・・ どんどん武器をふやします。

何のために出し抜くかというえば、より多くをえるため。より好かれ、愛され、尊敬される自分になって、人よりも有利な立場に身をおき、人よりもスペシャルになることで幸せになれるだろうと。いわば、レースの先頭に躍り出て、走りぬけるためだったわけです。

こんなすべてを冷静によくよく見てみると、そこには他と友和的につながってわかちあうという安らかさはなく、まるでケンカを売っているような、闘いをいどんでいるような、攻撃的な姿勢が隠されているのがわかります。

こんな気持ちが土台にあったなら、他の人とともに安らかに幸せになどなれるはずがないのです。なぜなら、まわりはいつだって敵だから。

いっけん危機に見える人生の午後の時間を、どう生きるべきなのか ・・・それは、外的な成功のために奔走していた「エゴの自分」を手放して、「本来の自分」、つまり生まれてくるまえにお母さんのおなかのなかで育っていたときの自分を思いだすべきだといいます。

おなかのなかにいたときには、自分もそしてお母さんも、どこに目をつけるかとか、鼻の位置は大丈夫かとか、何もコントロールはしていないのに、ちゃんと完璧な人間の姿で生まれてきたということ。自分が手をださないことによって、叡智がすべての面倒を見てくれていたということなのです。

生まれ出てから野心というものにそまってしまった私たちは、すべての面倒をぬかりなく見てくれていた全能の神のポジションを奪ってしまい、何から何まで自分で決めて、自分の思いどおりにしようと頑張ってきたわけです。

結局何から何まで自分で決めようとしたことで、すべての面倒を自らみるハメになり、たいへんな苦労のわりには神の技の完璧さを見ることができなくなってしまったというわけです。

ダイアー博士は、「アップルパイの一切れが、アップルパイであることを思い出さなければならない」と言っています。アップルパイは、小さな一切れでもアップルパイだということです。

私たちも、自分がどこからやってきた何ものなのかをちゃんと思い出すべきだと。

身体が消えたらほんとうに消滅してしまう自分なのか、それとももっと大きなものからやってきた不滅の存在なのか。それを知るためには、動き回るのではなく、静寂のなかにとどまり、源と調和し、耳を傾け、導かれる必要があると。

その源を感じることができれば、おなかのなかの赤ちゃんのように、すべてをまかせることができる・・・と。

そういう彼自身も、午前の時間から午後の時間へのシフトを体験したとき、外の世界に価値を与えていた人生が転換し、自分の内側とつながるとことで、大いなる存在とひとつになる体験をしたそうです。そこから、心理学を語るよりも、スピリチュアルを語ることに喜びを感じるようになったとか。

だから、人生の午後の時間とは、大いなるちから(源)に身を委ね、生かしてもらいながら、自分を与えることで、源の意志を生きることだといっています。

著作の大家自らのシフト体験がとってもわかりやすく語られていて、この作品にふれることでそれぞれのこころのなかでうずうずしていたほんとうの自分が呼び覚まされて、ダイアー博士のいう「クアンタム モーメント」を自分なりに体験できるかもしれません。

 

 

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梅雨の晴れまのランチタイム

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

ついに梅雨入りしましたが、さっそくの晴れまとなりました。吹く風もここちよく、どこかヨーロッパの夏のように感じる気持ちのいい日。

きょうはお友だちのお誘いで、サンドイッチランチ♡  それも、緑の美しいお庭をながめながら ・・・です。

オータニのサンドイッチ&スウィーツブッフェ。テーマは、6月のイメージカラーで「抹茶・メロン・チョコレート」です。

こちらのブッフェはもう何回か来ているので、お気に入りのマイ定番メニューはだいたい決まっています。

サンドウィッチだったら、ローストビーフサンド、ブルスケッタ、エッグベネディクト、カツサンドはかならず。そして、あたたかいクリームスープとつめたいビシソワーズ。

スウィーツは、オータニ名物(?)メロンショートのプチサイズに苺のショートケーキ、クレームブリュレ、チョコケーキのオペラ、そしてラムレーズンアイス ・・・ これらははずせないマイメニューです(サンドウィッチより、スウィーツに夢中♡)。

サラダやあたたかいお料理も、いろいろあります。

お昼まえにやってきたのに、すっかりおしゃべりがはずんで太陽は西に傾いて・・・。

おなかもこころも満たされた楽しい休日でした♪

 

 

気づきの日記「マイケル スーダラに学ぶ」

お友だちから送られてきたオモシロ動画。



マイケルがスーダラ節を踊っちゃってます(笑)。イイ感じでシンクロしていますね〜。

「じつは、こっちがホンモノだったりして?」「パラレルワールドかも?!」

パラレルワールドか〜、たしかに ・・・ 。

私たちの見ている次元のバージョンではゾンビがぞろぞろ。マイケルまでもがゾンビで、怖れがいっぱいの「スリラー」版です。別次元に存在するバージョンは、みんなイ〜イ気分の酔っぱらいで、楽しくノーテンキにスーダラ節を踊っている平和な図となっています。

パラレルワールドでは、なんでもアリですからね。

私たちの知覚には、たしかにふたつのバージョンがあります。

ふたつのチャンネルのあいだで、つねに切り替えが可能なのです。

ひとつは、いつも見ているやり方。つまり、身体の目で見る見方。

もうひとつは「星の王子さま」がキツネに教えてもらった、こころの目で見る見方。

「こころの目で見ないとよく見えない。大切なことは、(身体の)目には見えないんだ」と。これはキツネだけの特許の見方ではありません。じつは真の知覚であり、ほんとうの自分が見る世界の見方のことを言っているのですね。

そして、それぞれの見方によって、まったく見える世界が変わってしまいます。「スリラー」と「スーダラ」ぐらい、まったくの別ものです!

片方は、何の秩序も存在せず混乱と怖れのみが存在し、もう一方は高い叡智が司る幸せな秩序だけが存在します。

見ているものが、まさに「スリラー」で怖れそのものだと思って構えていたのに、見方を変えたらじつは「スーダラ」でお気楽、ノーテンキな出来事だったのね(汗)・・・ というように。

制限をもった身体の目で見ると、制限しか見ることができません。何かが始まっては必ず終わりをむかえ、永遠につづくものなどなにもなく、制限ゆえに怖れにみちた画像。どんなに楽しく見えていようとも、必ずどこかにこっそりと怖れという毒を含んでいるわけです。

身体の目で見ているときには、一点だけをピックアップして切りとって見ています。たとえば、「あら、○ちゃん、お腹あたりが太ったんじゃない?」「まあ、そのシミ、前回会ったときにはなかったわよ」みたいな。○ちゃんを切りきざんでバラバラにして、「ここはヨシ」「こっちはダメ」というように、そのすべてに自分なりのダメだしをしています。ひとつだったものをバラバラにして等級をつけて自分なりの価値判断するので、全体としての意味が失われてしまいます。すでに、「○ちゃんがどういう存在なのか」まったくわからなくなってしまいます。それこそが怖れの原因です。こんな感じのことを、すべてに対してしています。

一方こころの目で見てみると、制限を越えてすべてをひとつとしてとらえます。○ちゃんに例えれば、○ちゃんのこころだけを見ています。そこには完全なものとしての意味が完全なものとして守られています。そして、葛藤も制限もないので、あるのは解放感、自由、お気らく、ノーテンキ、はればれ、すべてこれでよし!という感じ。

だから、同じものや出来事を見ていたとしても、どちらのチャンネルにチューニングしているかによって、似ていてもまったく非なるものや出来事となるわけです。

マイケルの「スリラー」か「スーダラ」かというように、まったく場面の意味あいが変わってしまいます。私たちの意味づけという制限がはずれたときには、どうやらノーテンキにしかなりようがないようです。

私たちは、このふたつのチャンネルを一瞬一瞬選んでいます。無意識的に。

それは、つねにふたつにひとつ。「怖れ」か「平和(愛)」かのふたつの選択しかなく、それも100% 怖れか、100パーセント 平和(愛)かのどちらかです。

「平和(愛)」にたったの 0,0001パーセントでも「怖れ」が混じってしまったら、それはもうアウト。それは「怖れ」になるのです。「平和(愛)」のなかに「怖れ」という概念は存在せず、「怖れ」の居場所はたったの 0,0001パーセントでさえもありえないのです。

なにか怖れが見える、敵意がみえる、孤独が見える、不安が見える、よからぬことが見える ・・・ というときには、もれなく制限のある身体の目で見ているサインであり、その結果として様々なかたちの怖れに出会うというわけです。

そもそも私たちは身体ではないので、身体なんていうまがいものの目をとおして見ると、存在すらしていいないまがいものに出会ってしまうのです。

私は一個の身体であると信じているとき ・・・ 他と分離しているので孤立はまぬがれず、孤立の怖れを感じているともれなく敵があらわれます。敵があらわれると、守るための闘いがはじまりまり、そのようなキケンを感じていると、「ここはキケンなところだ」という信念から、さらにキケンを目にするように自分に仕向け・・・(信じていることを証明してくれます)。怖れが増幅されます。

一方、ほんとうの自分であるこころの目にチューインングしているときには、ほんとうの自分の特権である平和、安らぎ、愛があります。すべてにいだかれて、自然な流れとともにあります。

こころには身体が感じているような分離の感覚がないので、守ることを必要としません。こころには限界がないので、すべてをすでにもっています。すべてであると知っているので対立を知らず、平和だけがあります。

平和、安らぎがあるので、さらに安らかさを証明するような出来事を見ることになります。そうすると、さらに平和と安らぎへの確信を深めます。ほんとうの自分の源は、平和、安らぎ、愛そものもなので、それを思い出すことができるのです。

身体の目で見たときにあったはずの怖れは、「あら〜、ヤダわ!ただの勘違いだったのね〜」と却下されるので、怖れは去ってしまいます。

こころの目にとどまっているときには、安心感があります。穏やかです。広がりがあります。だから、さらにその穏やかさがどこまでも広がってゆき、目にするものがすべて平和で穏やかになります。

これが本来の私たちの自然な状態です。ほんとうの自分の状態です。ほんとうは、自分が本来もっている穏やかさを見ているだけなのですが。

私たちは身体の目で見ることを見ることだと信じてきたので(つまり、目に見えないものは「存在しないもの」と決めてきたので)、こころの目を使うためには少し訓練が必要です。意識してチャンネルを変える必要があるのです。

身体の目で見て不都合(怖れ、不安、苦痛)を感じているときに、まずは立ち止まって、ちゃんと気づいて、それからこころの目にスウィッチしようというクセをつけることです。

じつは自分ひとりではスウィッチすることができないので、助けが必要です。

ほんとうの自分じゃないと気づいたら、ハイヤーセルフにさし出して、お願いしてしまいましょう。

「いま私はズレていてニセものの目で見ています。だからこそ、存在しないものが見えています。どうか、スピリットであるほんとうの自分に戻してください。そして、こころの目で見させてください。ほんとうのこと、真に存在するものを見せてください」と。これだけです!(簡単!)

一日に何度も、どんなプチな怖れでも、不安でも、地道に気づいてさし出してゆきます。見え方を変えてもらいます。

怖れが見えるときには、もれなくまがいものの自分になっています。身体だと思って、身体の目で見ています。しかし、私たちは制限いっぱいの「カラダ」などではなく、あくまでも自由そのものの「スピリット」です。身体というのは自分のこころのなかにあるイメージにすぎないのです。

身体の目には、身体の目にしか見えないものが見えてしまう! それこそが、怖れであり、苦しみであり、残酷さだったのです。

「カラダ」だと信じて、「カラダ」の目だけを頼りにしてしまったところに、すべての間違いがあります。

制限がかかって、苦しみが生まれ、まったく平和なほんとうの世界は見えなくなってしまったということ。まさに、ニセモノの目をとおして架空の世界を見てアセっているわけです。

この目をとおして見ていると、あらゆるものについて「スリラー」バージョンしか見えません。しかし、いったんこころの目にスイッチしてもらったら、どんなに悲惨に見えていることでも「スーダラ」バージョンに変化させることができて、あ〜 ・・・ なにもコワイものなんてなかったんだ〜(汗)、ということに気づきます。(だまし絵の別の見方が見えたときのような、「あ〜!なんだこういうこと」みたいなひらめきがあったりします。)

なにかを変えたいとき「スリラー」バージョンのなかで必死にも変えようともがいて努力するのは、いわばエネルギーのムダづかいなのです。

ただハイヤーセルフにお願いすることで、チャンネルをスイッチして別バージョンを見せてもらいましょう。(ただお願いするだけ、というシンプルさ!)

身体の目で見る世界では、すべては実るようで実りません。しかし、こころの目で見ることができる平和な「スーダラ」バージョンへと切り替えをお願いするだけで、余計な心配も策略も努力もいらなくなります。実らせることすら必要ないのです。高い叡智の秩序にしたがって、誰にとってもハッピーとなる結末が約束されているからです。

ただ、スイッチするために気づくこと。お願いすること。スーダラ節を踊るために必要なことはとてもシンプルです!

そして、自分がスーダラを踊っていることに気づくと、まわりの仲間もきっと一緒にスーダラを踊っていることでしょう♪

 

 

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ここから一年、また元気に・・・

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とくに ・・・ 目標もゴールも、なにもなく ・・・

イメージとしては、空気のごとく(?)さらにゆるゆると、流れのままに、たゆたうように、すごしてゆけたらいいな〜と感じています(無色透明で、なんのくくりもなく、どうでもいい感じ・笑)。

自分が元気で過ごせているのは嬉しいけれど、毎年お祝いしてくださる親しい方々も変わらずにお元気なのもなによりも嬉しいこと。

感謝、感謝です!♡♡♡

 

気づきの日記「下水管から金のパイプへ」

最近お気にいりの芸人さんに、くっきーさんという人がいます。

白塗り芸、いまや大人気ですよね。わたしは、シリーズになっていた「絵描きうた大好き邦彦おじさん」がおもしろくってハマっていました。

え〜!と度肝をぬくような発想で、シュールでちょとコワイけれど、アーティスティックで、その根底にはいつも愛を感じるのです(芸というよりも、もう全体がアートになっているのですが)。

私のお友だちもくっきーさんが好きで、たびたびその話題で盛り上がっています。

先日、くっきーさんが江原啓之さんと一緒に番組に出ていたときに言われていたことは、「あなたはインスピレーションが強いし、サイキックなのね」と。だから、どんどんアイデアが浮かんでくるし、これからはもっと人々に受け入れられるようになるだろう的なコメントをもらっていました。

それを聞いて、「なるほど〜・・・そうか」 とうなってしまいました。

なぜかというと、以前、くっきーさんはどこかの番組で「自分は生まれてすぐに下水に捨てられたので、お母さんはいちばん大きなパイプだ」と冗談を言っていたのです。すごい発想ですね〜(汗)。橋の下というのは定番ですが、下水に捨てられ、お母さんがいちばん大きな土管とは(笑)。

そっか〜・・・ってみょうに納得したわけは(冗談話にしても)、いちばん大きなパイプをお母さんだと思っていたってことは、この方は最初から自分の本性がパイプだと知っていた(?) ってことかと。

どういうことか ・・・ というと、私たちは「パイプのように存在すると生きやすい」と思っているからです。

それは、どんな想い、どんな感情、どんな体験がやってこようとも、じゃんじゃん自分のなかを通過させてあげるだけであり、まったくせき止めることも(抵抗することも)、流れを変えようとすることも(コントロールしようとすることも)、不平不満を言うことも(価値判断することも)ありません。ただ、無抵抗に自分のなかを通過させてゆくだけです。

そうすることによって、ただの土管だと思っていた自分自身が徐々にお掃除されて、浄化されて ・・・ ただの土管だと思っていたけれど、「あれ? きれいになってる! 私って、金色の光り輝くパイプだったの?!」と、自分で自分にびっくりします。

ついに「自分の本性に気がついてしまったなら」ば、こんどは汚水にかわって、美しい光という恩恵やインスピレーションション、安らぎ、喜び、愛がじゃんじゃん流れこんでくるようになるのです。

そして、それを他の人たちへと流して広げてゆく作業をすればするほど、さらにパイプは太く、美しくなってゆく、というわけです。

そんなパイプのイメージがあったので、江原さんんがくっきーさんのことをインスピレーションがある、サイキックなところがあるとコメントしたのを、「なるほど〜! やっぱりパイプだと自覚していたからか」と納得するにいたったわけです(笑)。

私たちは自分のところにやってくるものに対して(体験にしろ、考えにしろ、感情にしろ)、「なんでこんなことばかりが起こるんだろ〜!(驚愕)」とか、「どうしてこんなヒドい考えをもってしまうんだろう(後悔)」とか、「こんな最悪な気持ちばかりでうんさり(嫌悪)」と抵抗し、それをどうにもできない自分を責めてしまうときがあります。

でも、ご心配なく!

みんな誰でも、こころの深いところには同じようなものをしっかりともっています。

しかし、今回の人生でお片づけをしないと決めている人は、それをチラリと目にすることもないかもしれません。でも、存在しないわけではないのです。顔をだしていないだけのこと。

もし、じゃんじゃんそういうものに出くわしてしまうとしたら ・・・ 「ああ、私はもう隠さずにこれらを終わりにしよと決めているんだ」「自分のパイプのなかを無抵抗に通して流してあげることで、もうほんとうに捨て去ろうとしているのだ」「ほんとうの自分を取り戻そうとしているのだ!」と思い出しましょう。

果敢にも、自分のパイプのなかをただ通してあげる許可をだしたのです。永遠に終わりにするために。ぴかぴかのパイプである自分を思い出すために。

そんなときには、体験であれ、考えであれ、感情であれ、自分のなかをただ行かせることによって、十分に感じきって(受けとめて)みます。

そして、十分受けとめたあとには、いったん自分が後ろに退いてみて、パイプがただそこで輝いているのを感じてみてください。自分がどいてみると、そこに安らぎ、喜び、あたたかさ、楽しさ、これで大丈夫という感覚 ・・・ が自然とあらわれます。

ちょっとでもヨイ感じをキャッチしたら、それを大切にして、しっかりと注意を注いで、受けとめてあじわってみましょう。自分のなかいっぱいに、広げてみましょう。

そしてさらに、自分とつながりのある人へと(大好きな人も、そうでない人も)、その光を広げて包みこんでしまいましょう。

光はわかちあうことで、どんどん大きく強く、いきいきとしてきます。そのともに光輝く感覚をしっかりとうけとめます。楽しみます。

もしも、何かを教えられたような気がしたら、ひらめきがあったのなら、それを行動に移してみてもいいかもしれません。行動はつねに、この感覚から起こされるものなので、この感覚とともに動くときにはいつでもびっくりするようなことが起こることがあります。

それはきっと、自分のこころのなかにあった天からのギフトにあらためて気づくことであり、その輝きを外に映し出だしてめにすることができるのだと思います。

そんなインスピレーションに従っていたら、くっきーさんのように奇才になっちゃうかもしれません♪(笑)

 

 

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ランチ&お茶デート@代官山

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代官山にご用でいらしたお友だちと、ランチ&お茶デート♡

ちょっとストレスのかかるお仕事直後で「胃の調子がイマイチ・・・」ということだったので、お腹にやさしいおうちゴハン風自然食レストラン rinato さんへ。

ここは女の子やら、ママやら、働く女性に人気の和食屋さん。おうちで食べてるようなあたたかみのあるメニューがいろいろ。私も、以前からよくかよっているお店なのです。

「胃の調子が・・・」と言いつつ、ふたりでまさかの揚げものチョイス(笑)。

こんもり小山のように盛られたひとくちカツでしたが、みごと完食です。身体は正直! おいしくて、好きなものだったら、喜んで食べてくれます。

さっぱりした口あたりで、サクサクとってもやわらかくておいしいひとくちカツでした。

こちらのお店は、メニューはいろいろあるし、定食もおかずや小鉢の種類、また具沢山のお味噌汁のお味噌の種類、お茶の種類までチョイスが豊富で楽しいです。お野菜もたっぷりとれます。男性でもおなかいっぱいになること間違いなし。

ちなみに、本日のランチは ¥1050 。こばらコースでしたが、満腹でした〜!

その後、カフェ アクイーユさんにてお喋りティータイム。

こちらは、2017年パンケーキ日本いちのお店でとてもおいしそうですが、本日挑戦するのはさすがにムリっ!

ケーキもおいしそうなので、ピスタチオのケーキとプリンで。

夕方になると、ハッピーアワーということで飲み物やらおつまみ系がオール ¥300 となります。ハッピーアワーではレモネードを注文してみましたが、こちらも美味しでした。

本日のお友だちとの会話は、おいしいお店情報 ・・・ でもなく、美容について ・・・ でもなく ・・・

もっぱら、「くっきー」と「聖☆おにいさん」という、まさかの話題(学生さんですかっ?!ていう感じ)。

わたしたち、芸人 くっきーさんの邦彦おじさんや白塗りがだ〜〜い好き。また、劇場版アニメの「聖☆おにいさん」(ブッダとキリストの立川アパート暮らし)にもはまっています(笑・キリストがみょうにオネエさんぽかったりして・・・)。

つっこみどころが二人ともおんなじで、おかしくって楽しいひとときでした♪

 

気づきの日記「存在するのは、ひとつの感情・ひとつの世界」

「愛と怖れ」という本(G・ジャンポルスキー著)に出会ったのは、もうかなり昔のこと。

「愛」にしても「怖れ」にしてもふだんから耳にする言葉だけれど、「愛」に対比するものとして「怖れ」があるという考えは新鮮に感じたものです。「愛」の反対側は、「憎しみ」とか「愛がないこと」だと思っていたから。

人にはたったふたつの感情しかなく、それは「愛と怖れ」だといいます。

しかし、真に存在しているものは、ただひとつのもの(ワンネス)というか、「ひとつ」とも名づけることができない「すべて」なわけですが。そうなると、「愛と怖れ」という二者は存在できず、どちらかがまがいものとなります。

すべてを支配するたったひとつの力(神・宇宙・全能性)が「怖れ」であることはありえないので、ホンモノが「愛」だとするならば ・・・ 「愛」以外のすべてはことごとくまがいものであり、存在すらしないということになります。

では、「愛」とはなにものか? というと、安らぎであったり、平和であったり、思いやりであったり、喜びであったり、豊かなこころであったり ・・・ 喜ばしい要素のすべて。それが真に存在するもの。

一方、あるように見えながらも存在すらしていないという「怖れ」とは、「愛」に分類されることがないすべてのものをいいます。「愛」でないなら、それはすべて(行為も考えも)「怖れ」なわけで、架空のものということになります。

たとえば、テレビを観ながらこころのなかでチッと舌打ちしてしまうような攻撃的な想いとか、家族と話していて「なんでこうなのよ!」とイラっとくる怒りの感覚とか、まだ起こっていないことについてあれこれ心配する怖れの気持ちとか、「やっぱり私はダメに違いない」とか「しょせんムリだわ」と自虐的に考えてしまう自己卑下とか、ただモヤモヤとした倦怠感とか、ムカムカする嫌悪の気持ちとか ・・・、全部私ではありえない、ニセモノがやっていること。

これを自分がやっているのだ思うと、さらに怖れや罪悪感がが大きくなってしまいます。なぜなら、これらはまったくコントロール不能で、いつどんなときに襲ってくるのかわからないからです。コントロールできると思うと挫折感が強くなります。

よくよく注意してみると、私たちは「怖れ」という感情にほぼ病的に耽溺していることがわかります。

すでに耽溺していることすらわからないのは、中毒になっているということ(中毒症状とは、それなしでは生きていけないのです)。

すると、ほぼ怖れと一体化していると言っていい状態 ・・・ っていうことは、存在すらしないものと一体化してすごしている、つまりヘンなものに憑衣されたがために(といっても、じつは自分がそれを握りしめているのですが)完全に占拠されたというわけです。寄生獣に完全にのっとられた状態ですね。

私たちは、存在すらしない「怖れ」になってしまったのです。

だから、この「怖れ」ときっぱりと決別しない限りは正気の自分になることはありません。正気でないということは存在しない幻覚を見続けることになり、自分に与えられている全能性からくる権利をまるまる放棄していることになります。

私たちはつねに自分の「想い」というものを「目のまえに確認する場」として世界をつくりだしています。

世界は固定的に外側にあるののではなく、毎瞬ごとに自分のこころが提示しているイメージを見ているにすぎません。すると、この「愛か怖れ」の選択が目にするものを毎瞬々々決めているのです。この「愛か怖れ」の選択こそが、自分が目にするものの明暗をわけるのです。

つまり、こころの状態にあわせて2タイプの世界があるようなものです。「愛」のこころで見る真に存在する愛の世界と、「怖れ」のこころがねつ造する存在すらしていない怖れの世界。同じ世界のなかに、愛と怖れが共存しているわけではないのですね。

そして、寄生獣が見るのは、もちろん「怖れ」です。

「怖れ」とは、批判、価値判断、自虐、落胆、後悔、罪悪感、攻撃心、自己嫌悪、無価値観、憂鬱、退屈、怖れ、優越感、特別性、苦痛、病、死 ・・・ etc、これらはまるで自分の首についている縄のごとく、「怖れ」をもつたびに自分の首をしめあげてゆくようなものです。首がしまると幻覚が見えます。

まさに、自分のこころのなかにある怖れの考えを、自分の身を呈して体験しているというわけです。その縄はしだいにどんどんきつくなり、息ができなくなって、身動きもできなくなるのですが、自分ではなぜそうなっているのかわかりません。

一方、「愛」とは、穏やかさ、安らぎ、平和、喜び、楽しさ、寛容さ、受容、信頼、慈しみ、共感、赦し、分けへだてないオープンなこころ ・・・ etc、これらを選ぶたびに首に巻きついている縄が細くなり、ゆるくなり、しまいにはそんなものなかったんだ!と解放された気分になります。

「愛」を選ぶことは、自分が囚われているという錯覚から解放されて、制限などないもともとの自由な自分を知る、もともとの自分の権利をしっかりと享受するということです。

しかし、私たちはある意味、エゴにのっとられて憑衣されているので、無意識でいると「怖れ」を選択するクセがついています。

なんせ、「個体」としての自分が生きのびて、安全でいるためには、「守る」か「攻める」かする必要があり、いつも戦々恐々としているからです。だから「闘い」の想いはエゴの定番です。

しかし、生き延びるための定番の想いを選択したはずなのに、縄は喉もとにくいこみ、かえって生き延びることを阻止する結果になります。

存在しているのはただ「ひとつのもの」、「愛」だけであるならば ・・・

私たちは自分のこころをちゃんと調教して、正しい選択ができるように教育してゆく必要があるのです。それは一回教えたらオシマイということではなく、毎瞬々々自分のこころがなにを選んでいるのかということに意識的になることです。

オイシイ匂いがすると(エゴからの呼びかけはたいていオイシイ匂いがするものです)、ついついクンクンとついていってしまう犬のような私たちですが、これをすると完全に道からはずれて迷子になります。

エゴはいつもオイシイ匂いで「こっちにゴチソウがあるよ!」とおびきよせますが、それにのってしまうと、道に迷い、ひとりぼっちで孤独になり、いっくら歩きつづけたとしても、結局そこには何ひとつなく、帰る道さえわからなくなります。

だから「愛」をえらばなかったとき、「怖れ」を選択した結果としてやってくるものは、「怖れ」なんていうなまやさしいものではなく、気がつけば「恐怖」物語、あるいは「ホラー」なストーリーなのです。

自分の見ているドラマという現実が、恐怖の様相を呈してきて、しまいには怪奇ものからホラーへ。それがエゴのもくろみです。

でも、それも全部、自分のなかで無意識のうちに着々と「怖れ」を選びつづけたまさに証なのです。

しかし、「愛」を選ぼう! と意識的になって、いちいち選びなおすことによって、こころの映しだす世界がシフトします。ほんとうの自分がもっている輝かしい恩恵に浴することができるようになるのです。それは、いわゆるすべてであるものの恩恵。

ふたつにひとつの選択なのですが、私たちは無意識のままなので、「怖れ」を選びつづけていることに気づけなくなっているのです。なので、まずは自分が毎瞬、なにを選んでいるのか意識的になることが大切です。

「素敵な自分になる」「もっと素晴らしい自分になる」と、頑張ってみても、この「愛か怖れ」の選択が間違っていると、全部水の泡になってしまうのです。

「愛」のこころには「愛」の世界が、「怖れ」のこころには「怖れ」の世界が ・・・ それぞれご案内先はまったく違った世界です。こころにそったものしか見えません。

そもそもこの選択さえまちがわなければ、「素敵な自分」になる必要もなければ、「もっと素晴らしい自分になる」必要もありません。

首にかかっている縄さえとれてしまえば、もともとそなわっている完全な自分らしさに出会うことができるのです。完全な自分になる、というのは、作ったり、くっつけたり、でっちあげたり、目指したりする種類のものではなく、もともとあるものを解き放って、そのままにしてあげる以外にはすることがないのです。

だから、私たちが注意深く取り組むべきことは、ていねいに自分の「こころを見張る」こと。

「愛」以外になっていることに気づいたら、すぐに却下して、高い意識にさし出して、こころからその感情や考えを取り除いてもらうお願いをすることです(間違ってしまった自分には、訂正はできません)。

「自分ではないものをとりのぞいてゆく」、つまり「愛」でないものを却下し続ける作業をしてゆくと、おのずと「愛」だけに気づくようになり、「愛」をとおして正しい知覚がもどってきます。それにふさわしい世界だけを見るようになります。

「愛」を通して見る、というのは私たちがおなじみの「愛」という名のフィルターでものごとを見ることではないのです。

ただひとつの存在するものを選びつづけたときに思い出すことができるほんとうの自分の記憶であり、視力であり、ものの見方。

それはどうやら、私たちが知っている「愛」の概念とは違うもので、そういう制限さえもこえたまっさらな目線をいうのだと思うのです。

今の自分の状態がどうであろうとも、ただシンプルに真に存在する思いを選びつづける努力をすることで、自分の足かせがはずれ、ラクチンになり、自由の身になり、より幸せで楽しくなるのであれば、やっぱり存在するものだけを選びつづけるという地道な作業を一瞬々々つづけられたら ・・・ と思うこのごろです。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

 

5月のブライスちゃんちは・・・

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

ブライスちゃんち(代官山 Junie Moonさん)のまえを通るのは楽しみです。

ブライスちゃんちは、ただの着せ替え人形屋さというよりは、それぞれの作家さんたちの渾身の作品を展示販売する個展のような場となっているようです。

だから、そのときのテーマにあわせたファッションや小物だけでなく、それにあわせたブライスちゃんのヘアスタイルやメイクまでもが完成度が高いのです(ブライスちゃんのヘアスタイル講座みたいなのもやっているようです)。

今月は、アメリカンダイナーのイメージで、ブライスちゃんはローラースケートをはいたウェイトレスさんです。

Tシャツ、スニーカー姿も!(手にもっている小さなハンガーにちゃんとTシャツがかかっています)

ブライスちゃんのついたJunie Moon のショッピングバッグをもつブライスちゃん(ショッピングバッグのピンクと、ドレスと帽子のリボンの色がちゃんとコーディネートされています)。

私たちは、頭が小さければ小さいほどお洋服の着こなしが上手にできると信じていますが(バービーちゃんのように)。ところが、ブライスちゃんはほぼ三頭身です。そして、どんなお洋服も、お着物も完璧に着こなします。

顔の表情だけでなく、手や足先までしっかりと表情があるのですよね。

少しまえのディスプレイはこんなでした。ちょっとシックでクラシカルな感じです。

次も楽しみ〜♪

サイキック カフェ??

古川貴子のブログ、ヒプノセラピー/カウンセリング

朝カフェ中です。きょうは、お仕事が午後からなのです。

この近所にあるカフェには、サイキックな店員さんがいます。

私がお店に一歩足をふみいれると、私のためのスコーンが自動的に温められ、マグにコーヒーがつがれ、私がカウンターに行くころには私の食べたいものがちゃんと出てくるのです。

って、なんのことはない ・・・ 長年かよっているので、私の定番メニューを用意してくれているだけなのですが(笑)。

ハタから見たら、ちょっとサイキックに見えるかもね ・・・ と笑っておりました。

でも、きょうはサイキックが通用しないフェイントをかけちゃいました。

フレンチトースト♡

新境地。おいしかったです♪

昨日は雨ザーザーだったので、いきいきとした緑をながめながらのモーニングタイム。気持ちがリフレッシュします☆

 

 

気づきの日記「私はこころのなかの住人」

「私たちのこころにある秘められた目的が、何を目にするのかを決めている」

「秘められた」ってことは自分でも気づくことができない想いがこころにあり、それこそが自分の目にする世界をつくっている?!

私たちは物理的な世界に住んでいて、その物理的な世界は自分の外側に存在している、と信じています。そして、その世界からやってくる刺激の数々に反応し、折り合いをつけること。

それが、私たちが考えている「生きること」。

でも、(現在の量子物理学でも言われていますが)じつは世界とは私たちのこころのなかに存在しているイメージであると言われています。つまり、意識がただ夢を見ている状態です。

そして、自分でも気づくことがない秘められた「こころの想い」というものを、つねにイメージにして世界という形で見つづけているというわけです。

実際、外側というものは存在せず自分のこころが発信しているならば、目にするものに反応してしまうと、自分のこころのなかにある思いこみをどんどん強化することになります。

知らぬまに、世界という形をとった自分の思いこみの被害者になってしまいます。自分は外と闘っていると思っていても、じつは闘っている相手は自分自身なのですね。

人生とは、自分の外側に存在する世界とかかわることだ ・・・ と信じる時点で、私たちは世界という名の自分のこころのなかに閉じこめられてしまいます。自分のこころがつくりだしたイメージの、登場人物の一人と化してしまったのです。

世界というものは、自分が信じていることしか映しだせないのだとすると、同じことのくり返しを生きることになります。景色は変わっても根底にあるパターン・力動は変わらないからず、なにかが同じなのです。

昼がきて夜がくることも、暑い日があって寒い日があることも、大雨があって干ばつがあることも、生まれて死んじゃうことも ・・・ 私たちのこころが正気でないことをあらわしているイメージにすぎません。こころが分裂していることから、つねに相反する二つのあいだを行ったりきたりする二元性という葛藤に悩まされているのです。

そうなると、人生も登ったかと思うと下って、下ったかと思うと登る ・・・ これもこころのなかの二元性のあらわれであり、当然の成りゆきとなります。

しかし、私たちは自分で何がどうなっているのかまったくわかっていないので、それを修正するすべがありません。

そもそも、目に映るものが自分の外にあると思ってしまった時点で、コントロール不能になってしまい、世界 対 自分という葛藤のドラマに巻きこまれてしまったのです。さらに、その被害者であると信じることで、自分のこころのなかの世界にどんどん取りこまれてゆきます。

何かがうまくいかなくなったとき、必死で外側のことを変えようと努力すると ・・・ 一見うまくいったように思えても、じつはなかなか長続きする結果にはつながりません。

なぜなら、自分に何かを思いこませたり、信じたりという表面的なこころのパワーを使って変化を起こそうとしても、少しは変わったような錯覚は起こっても、やはりそれは表面だけのこと。心底のパターンが変わるという、真の変化にはいたらないのです。

じゃあ、真の変化はどこからやってくるのでしょうか?

それは、こころのなかに囚われている自分(この世界にいる自分)に頼らなくなったときです。こころのなかの世界の囚われ人には変える力がありません。

囚われ人がホンモノの自分であるはずがないからです。これがニセモノであるなら、必ずホンモノがいるはずです。

まずは、「目にしてることにだまされない」ことが重要です。「自分が見ていることは、こころが見たいように見ているからそうなっている」ということを理解する必要があります。こころによって、知覚は自在に変わるからです。

「ヘンなものが見えている!」「ああ、これは私のこころ自体がおかしいからだわ」と、過度なリアクションをすることをやめます。

そして、「自分のこころは、じつはこのような葛藤(問題)を信じていたのだ」と改めて認識します。私こそが望んでそれをしていたのだ、私がこうしていたのだ、ということを受け入れます(被害者をやめます)。

私はイメージのなかに囚われている人なのか、それともそれを外から観察している存在なのか、もう一度選びなおします。

イメージの外にいる制限のない存在、大いなる無限のワンネスとひとつである存在であるなら、自分の当然の権利である完全さを求めてよいはずです。

囚われ人のニセモノの自分を頼りにすることなく、自分の正気の部分である高い意識(ハイヤーセルフと呼んでも、スピリットと呼んでも、エンジェルでもかまいません)とつながり、訂正のお願いをします。「自分がでっちあげている世界を手放したい」「ここから脱出して、ほんとうのことを見たい」「ほんとうの自分を体験したい」と。そして、間違ったこころとその結果となった知覚を取り消してもらいましょう。

この取り消しをしてゆくことは、自分の勘違い、つまりこころのゴミを取り除いてゆくことです。

こころのゴミはたまりすぎて、間違った人格を主張しはじめました。私になりすましているニセモノです。ニセモノだからこそ、落ちこんだり、行き詰まったり、とち狂ったことをしてしまいます。

結局、自分の人生に立ちはだかるように見える障害は、どこか外側から急にやってくるのではなく、自分のこころがゴミでいっぱいになってしまったために目のまえの世界(というイメージ)をゴミ捨場にしてしまったのです。そして、それを見て「なんでこんなところにゴミ(問題)が!」とびっくりしているだけなのです。

でも、たんねんにこころのゴミを取り除く習慣をつけてゆくと、もう外の世界へゴミ出しをする必要はなくなります。あるがままの自分、ワンネスとしての完全な力をもつ自分が輝きだすことができるようになります。

すると今度は、ゴミの山ではなく、自分のなかにある真の輝きを目のまえに映し出すことができるようになります。この輝きのなかには完全さがあるので、何かを引寄せる努力をする必要も、なにかをクリエイションする必要も、違った自分になる必要もありません。

自然体のこころでありながら、安らかさが感じられるようになります。なぜなら、自分が目にしているのは、自分のこころのなかにあるほんとうの安らぎだからです。

こころのゴミ出しをしてゆくと、ネガティブな記憶、感情、思いこみが少しずつ清算されてゆきます。

それらは、すべて「こんなことがあった!」「あんなことも起こった!」という過去の思いなので、ゴミがどんどんなくなると、自分にとっての過去というものもあまり意味をもたなくなってゆきます。

過去を手放すと、現在の目にするものに対しての見方がまったく変わります。なぜなら、私たちは何を見たとしても、すべて過去の知識、判断、思いこみ、記憶をつかって、「これはどういうものか」「どういう意味があるのか」を決めているからです。過去を手放すとラベリングがなくなり、すべてがただのまっさらな「あるがまま」へと落ち着くのです。

これによって、世界の見え方、意味がまったく変わり、新しい知覚が生まれます。

それはある意味、罪のない知覚、無垢の知覚といえるかもしれません。

この無垢な知覚は二元的ではないので、相反するものを含むことがなく、自分を守ろうとする必要もなくなり、怖れや不安という感情も少なくなってゆきます。

私たちの受けてきた教育では、外に見えるものを判断して、どうするか行動を決めるように教わってきました。

でも、残念ながら真実はまったく逆なのでした。外に見えるものが好きでなかったら、いったんスルーして反応せず、まずは原因であるこころへと立ち返ること。自分のこころのなかのイメージを見ているのだ、と認めること。

そしてこころのなかにある分裂や、攻撃、怖れの想いに気づくことで、それらを危険物処理班である高い意識にひとつひとつ申告して、きっちりと処理してもらうことです(これは、自分のこころのドラマの登場人物にすぎないエゴである自分にはできません)。

ひとつひとつ片づけてゆくと、知覚が変化してゆきます。外にあったはずのすべてが、だんだんこころのなかに戻ってきます(外というものがなくなってきます)。まるで、手袋が裏返るようなヘンな感覚(どんな感覚?!笑)。

そして、必ず自分がもともともっていた輝きや完全さというものにふれる瞬間が多くなってくるのです。そうすると、こころに安らぎが生まれ、より高い意識とのプロセスを信頼することがでるようになります。流れを信頼できると、新たな循環が生まれます。

お部屋もこまめな掃除機がけが必要なように、こころもこんなお片づけの習慣をもってみることによって、アタマで考えているのとはまったく違った変化というものを体験できるようになったりするのです。

 

 

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