あけましておめでとうございます
今年も軽やかな足どりで、楽しげな足跡を残しながら進んで行きましょう♪
本年もどうぞよろしくお願い致します。
オフィス・るん
古川 貴子
あけましておめでとうございます
今年も軽やかな足どりで、楽しげな足跡を残しながら進んで行きましょう♪
本年もどうぞよろしくお願い致します。
オフィス・るん
古川 貴子
今年のシメのスウィーツはペニンシュラホテルのアフタヌーンティーでした!
背景と一体化してスウィーツタワーがわかりづらいのですが、
実際にはこんな感じ。可愛いスウィーツやセイボリーが、宙にういているみたいな演出となっています。
新春にむけて、香りゆたかなストロベリーがテーマです。
セイボリーは4種類。ズワイ蟹にサーモン、帆立、ゴルゴンゾーラとイチジクなど、ちょっと大人なテイストでシャンパンとともに。飲めないわたしたちは、このシャンパンですっかりイイ気分。アタマのネジがふっとんだようで、ちょいと会話がヘンです。まあ、年末ですしね! (´ー`)ノ
そして、6種類のストロベリースウィーツとスコーンも。






ペニンシュラのアフタヌーンティーはかなりオシャレなので、見た目だけかしら? と思っていたのですが、期待を大きく裏切られました。
すんご〜く(のさらに2乗)おいしかったのです。二人で「おいしいね〜♡」を連発。スコーンにはじまって、タルト生地も洋酒の香りのクリームもクオリティが高いのです。これは、外人パティシエか?!と思って聞いてみれば、フランス人の方だそうです。
今年はあちこちでアフタヌーンティーをしたけれど、スウィーツのクオリティときめ細やかさは、ペニンシュラが No.1 です(また来年、まだ制覇していないアフタヌーンティーめぐりをいたしますが)。
スウィーツに興味がなかった友人も、すっかりアフタヌーンティーファンとなりましたよ♪
というわけで、今年のスウィーツの旅も素敵に幕をとじたのでした。最後はとびきりのアフタヌーンティーでしめることができて幸せです♡
ベルボーイのクマちゃん。たまにラウンジに姿をあらわします。
女の子のテーブルで油をうってる(いえ、サービスにいそしんでいる)図。・・・ すっかり地が出ちゃってやしませんか〜?!(なんか笑える・・・ 手元がね)
それでは、みなさま、よいお年を〜♡
29日ともなると街ゆく人もせわしなく、年の瀬の雰囲気が感じられますね。
みなさまはもう、仕事納めをされましたか? 一年間お疲れさまでした。
じつは、私はまだお仕事続行中なのです。ギリギリまで頑張りま〜す!(汗)
昨日は、セッションにいらして下さったお友だちとランチ♪
ともに中華な気分だったので、「るん」のトイメンにある「花壇」さんへ。
ここのランチは、サラダ、ザーサイ、デザート(杏仁豆腐、キャラメルプリン)のブッフェつき。あれこれたくさんとっていたら、オーダーした五目焼きそばが予想外のボリューム。
野菜の具が、これでもか!というぐらい山盛りで、食べども食べども麺にたどりつけません! 具2:麺1 ぐらいに感じましたよ。でも、野菜不足にはもってこいです。
お友だちの炒飯も、負けずにモリモリでした。
PS お互い「こんなに食べられるかな?」と心配しつつ、結局は全部たいらげて、「すんご〜くお腹いっぱいだね! 」といってるそばから、直後にお茶をしに行ってデザートまでいただきました(いつだって、スウィーツははずせませぬ!笑)。
ずいぶん以前から、たびたびプレゼントしていただいている GODIVA のコーヒー、ヘーゼルナッツクリーム。
ピギーもお気に入り♡
これ、ほんとうにいい香りで、やみつきになります。淹れているときから、香りだけで満足できちゃう。
濃いめに淹れると、リキュールのような味わい。なんか酔っぱらう〜。꒰⁎×﹏×⁎꒱ ༘
一緒にいただいたハリネズミさんのチョコ。この子たちもヘーゼルナッツのプラリネで、GODIVA のコーヒーにとってもマッチします。
三匹で談合中 ・・・ 逃走を計画しているのか?!(汗)
こちらは、彩りの美しいフルーツゼリー。
可愛い薔薇の花の形で、童話の世界のお菓子みたい。ながめているだけで癒されます。
じつはフルーツゼリーて、フルーツ以上にフルーティなのですよね♪
お味は、ふじ林檎+バラペーストとか、パッションフルーツ+マンゴーとか、10種類ものさまざまな果物の味が楽しめます。
そして、箱をあけるなりいい香りがあふれるリアルフルーツも!
わあ、イチゴがおっきい〜!どれもまるまるしててかわいいです♡
スウィーツも好きだけど、フルーツもいくらでもいただけちゃいます。
ごちそうさまです♡ どれも大切にいただきます ٩(๑❛ᴗ❛๑)۶
Merry Christmas ☆
昨日、すでに盛りあがってしまいました? ケーキも食べちゃいました?
でも、きょうがクリスマス本番ですよ〜1
小学生の頃、クリスマスの日は終業式でした。
給食費のあまりで、箱にはいったケーキをひとつ渡されるのですが、それが生クリームのケーキでとってもおいしくて感動したものです。
なんせ、その頃のクリスマスケーキといったらバタークリームこてこてで、このスウィーツ好きな私でも少しづつしか食べられなかったのです(ああ、平成生まれはバタークリームのケーキなんて知りませんね・苦笑)。
きょうのクリスマスケーキはこちらで〜す♪
けっこうおっきいぞ〜!٩(๑❛ᴗ❛๑)۶
Q:委ねることが大切だと教えていただき、いろいろなことを高い意識に委ねるようになりました。しかし、自分の達成したい「ゴールをもつこと」や「自分で決めること」などを、どこまでしていいのかわからなくなっています。
A:そうですね。私たちは成長してゆく過程でつねに、「自分の意志をはっきりともつことが賢いこと」であると教えられてきました。
「あなたはいったいどうしたいの?」「ちゃんと自分の意見を言いなさい」「自分のことなのだから、自分で決めなさい」「自分のゴールももてないの?」
それができないと「はっきりしない子」「決められない子」と、ダメな子のレッテルを貼られたものです。だから、こどもの頃の学校生活のなかでは、しっかり「決められる」、ちゃんと「自分の意志がある」子が「ヨイ子」だとと言われてきました。だから、そうなろうとみんなで頑張りました(汗)。
でもじつは、これこそが「わたし」という「我(エゴ)」が肥大してゆくプロセスといえます。
幼児の頃には、私たちは「わたし」という意識はあまりなく、自分と他のものの境界もあいまいで、自然と調和しながら生きていたのです。簡単に自分をなくすことができるので、悩まないし、衝突も少なかったのです。
でも、鏡に映る自分が自分だとわかるようになり、名前が書けるようになり、「あなたはどうなの?」「あなたは」「あなたは」と言われ続けるうちに、「わたし」が強調され、個としてのエゴの感覚がだんだんと強くなってゆきます。
この「わたし」をたくましくすることこそが、エライこと、成長の証だと勘違いしてしまいます。
これこそが、人との対立や、人からの孤立、あらゆるものからの分離、そして問題というものが生まれる起源ともいえるのです(そもそも「わたし」という感覚がないと、問題も存在できないのです。)
だから、成長の過程で肥大化してしまった「わたし」、問題の根源であるエゴの「わたし」を手放すことこそが、問題を収束させ、安らかになる道なのです。
安らかに生きてゆくためには、ほんとうのところ「わたし」という意識は重要でないのです。ほっといてよいのです。手放しちゃっても大丈夫です。
たとえば・・・まだシニアデビューしたてのフィギュアスケートの選手。
彼らは、優勝も狙っていないし、とにかく大きな舞台で滑ることが嬉しくって、思いっきり演技をします。シニアになりたてのMちゃんなんて、笑いながら軽々とトリプルアクセルを完璧に飛んでたし、Yくんもこわいもの知らずでオリンピックも金でした。
彼らは身体のことなんか忘れて、まさにジャンプになり、スピンになり、ステップになり、音楽になり ・・・ そこには欲望も野心もありません。で、びっくりするような高得点が出て、まわりも本人さえも仰天するのです。
でも・・・ 成功しちゃった「わたし」のプライドが出てくるとやっかいなことが起こります。もう、あの魔法がなくなっちゃう。
素晴らしいアーティストの歌を聴いているときも、そのアーティストがただ旋律の流れになっていて、「わたし」の「わ」の字も残っていないのが伝わってきます。ただ歌声のその響きとして存在しているのです。
そんなふうに、素晴らしいパフォーマンスには、じつは「自分」というエゴの意識は余計であり、邪魔なのです。
パフォーマーに「自分」という我が入っていると、なんか余計なものが混じっている感じがしてダイレクトに伝わってきません。引き込まれ度がぜんぜん違うのです。
「ゴールをもつこと」は悪いことではないけれど、まったくそれに執着しないことが大切なのだと思います。
なぜなら、そもそもそのゴールは何のためなのか? なぜ達成したいのか? ということなのです。
私たちが何かを欲するとき、そこには欠乏感があります。無価値感があります。それらの下には、怖れがあるのです。「それを達成しないとマズイ状況になる。コワイことが起こる」という。
ゴールそのものが、怖れに根ざしているということになります。そして、すべての動機は結果に結びついています。怖れを動機として行動を起こすと、もれなく結果に怖れがくっついてきます。動機と同じ種類のものを手にすることになるからです。
よくあるご相談として、経済的な問題があります。「お金に不安があって、増やすためにあれやこれやすべての手を尽くして行動しているのに、まったく改善のきざしが見えないのです」と。
この場合、動機に怖れと危機感があるままあれこれ動き回ってしまっているために、どこまでも危機感はつきまとってくることになります。
まず見なければならないのは、「この怖れと危機感にさいなまれている自分とは、いったいどういう存在なのだと自分で信じているのか」ということなのです。
たとえば、「見捨てられている」「助けてもらえない」「ひとりぼっち」・・・。
じつは、すべての問題はこの「自分に対する認識」という問題に行きつきます。自分という存在を誤って認識している限りは、何をしようとも、どんな努力をはらおうとも、その怖れはなくならず、どんな行動をも望む結果に結びつけることはできないのです。
自分の目に映るものは、つねに自分のこころの思いをあらわしているからです。
自分に対する認識を調べることとともにもう一つ大切なことは、自分の小さな自己(エゴ)を手放して 〜 なぜなら、このエゴさんはあまりにも極小すぎて何も知らないし、コワがりすぎるし、うるさいので 〜 本来の自分自身(高い意識)とつながって、よいコミュニケーションをとることなのです。
私たちは、エゴの言葉に耳を傾けすぎたあまり、ほんとうの自分の声を聴き分けることができなくなっています。エゴはコワいことしか言わないので、このほんとうの自分の声を聴くことができないことが怖れの原因です。源からのサポートがまったくこないことと同じなのです。
あるいは、ほんとうの自分がいることさえ気がついていないのかもしれません。
自分の育ての親よりも、誰よりも、自分のことを大切にしてくれていて、いつも幸せに導いてくれる存在がいるのにもかかわらず、その存在とまったく疎遠になってしまっていることが問題であり、それに気づかなくてはなりません。
その見守りサポートしてくれている存在に気づくようになると、じつは自分が考えるゴールなんていらなくなってしまいます。なぜなら、その存在におまかせして何もしないことこそが、いちばんうまくいく方法だということがわかってくるから。ヘタに手出しをしないことこそが一番安全、というわけです。
結局、「わたし」が何かをしようとすることは、「エゴ」が手だしすることと同じだということ。そこにすでに存在する完全さを台無しにしてしまうのは、いつだってエゴのひとことであり、エゴが手出ししてくることによってなのです。
私たちがやらなくちゃいけない唯一のことといえば、思考として口をはさんでくる「エゴ」に対して、いちいちお答えしないことぐらいです。
エゴが「ああ!たいへん、どうしよう!どうしよう!」と言ったとしても、「ほんとだ〜!ああなるかも、こうなるかも」なんて、お答えしないことです(みんなエゴに対して優しすぎて、全部お答えして、延々と会話をしています)。
ラジオやテレビがしゃべっているのに対して、いちいちお答えしないのと同じです(え? テレビにお答えしてる? 汗)。
エゴは勝手に一日中しゃべっていて、それはまるで自分が考えているように思えます。いいえ!勝手におしゃべりがやってきているだけなので、ただスルーしましょう。
ほっておかれて相手にしてもらえないとわかると、エゴ(思考)はちゃんと静かになってきます。凶暴でもなくなります(エゴがうるさくて、残酷なことを言うのは、ちゃんと聴いちゃって、話しをあわせているからです)。
すべてはほっておいたほうがうまくいくのです。なぜなら、そこには全体である完全性があるから。
「自分でしたい、決めたい」と感じるときには、その動機を探ってみましょう。きっと、コワがりのエゴが「絶対そうしないとダメだよ。こんな悪いことになっちゃうよ〜」と言っています。
その怖さを見つけたら、何か新しい行動を起こすよりも、その怖さを探求して感じきって、終わりにしてしまいましょう。そうすると、その行動じたいに重要性がなくなります。
あとは、人生がどのように展開するかただ静かに見守るだけで大丈夫。私の人生に勝手にやってもらうのです。
そうしておけば、必要なことは必要なときに、ほんとうの自分からちゃんとお知らせがやってきます。そのお知らせを受けとるためには、エゴ(思考)のお相手をし続けていると気づくことができません。エゴ(思考)はほっておきましょう!
エゴちゃんが退いてくれると、大いなる自分が煌めきを放ってくれるようになります。その煌めきのなかでは、今までの風景が違って見えます。
そのとき、ゴールをめざすことも、決めることも不要となります。大きなる自分という星の煌めきを頼りに進みましょう!
私は「あなた(エゴ)がいなくなると、神(ほんとうの自分)がはいってくる」という言葉が好きです♡
☆★☆ Merry Christmas ☆★☆
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
Q:委ねることが大切だと教えていただき、いろいろなことを高い意識に委ねるようになりました。しかし、自分の達成したい「ゴールをもつこと」や「自分で決めること」などを、どこまでしていいのかわからなくなっています。
A:そうですね。私たちは成長してゆく過程でつねに、「自分の意志をはっきりともつことが賢いこと」であると教えられてきました。
「あなたはいったいどうしたいの?」「ちゃんと自分の意見を言いなさい」「自分のことなのだから、自分で決めなさい」「自分のゴールももてないの?」
それができないと「はっきりしない子」「決められない子」と、ダメな子のレッテルを貼られたものです。だから、こどもの頃の学校生活のなかでは、しっかり「決められる」、ちゃんと「自分の意志がある」子が「ヨイ子」だとと言われてきました。だから、そうなろうとみんなで頑張りました(汗)。
でもじつは、これこそが「わたし」という「我(エゴ)」が肥大してゆくプロセスといえます。
幼児の頃には、私たちは「わたし」という意識はあまりなく、自分と他のものの境界もあいまいで、自然と調和しながら生きていたのです。簡単に自分をなくすことができるので、悩まないし、衝突も少なかったのです。
でも、鏡に映る自分が自分だとわかるようになり、名前が書けるようになり、「あなたはどうなの?」「あなたは」「あなたは」と言われ続けるうちに、「わたし」が強調され、個としてのエゴの感覚がだんだんと強くなってゆきます。
この「わたし」をたくましくすることこそが、エライこと、成長の証だと勘違いしてしまいます。
これこそが、人との対立や、人からの孤立、あらゆるものからの分離、そして問題というものが生まれる起源ともいえるのです(そもそも「わたし」という感覚がないと、問題も存在できないのです。)
だから、成長の過程で肥大化してしまった「わたし」、問題の根源であるエゴの「わたし」を手放すことこそが、問題を収束させ、安らかになる道なのです。
安らかに生きてゆくためには、ほんとうのところ「わたし」という意識は重要でないのです。ほっといてよいのです。手放しちゃっても大丈夫です。
たとえば・・・まだシニアデビューしたてのフィギュアスケートの選手。
彼らは、優勝も狙っていないし、とにかく大きな舞台で滑ることが嬉しくって、思いっきり演技をします。シニアになりたてのMちゃんなんて、笑いながら軽々とトリプルアクセルを完璧に飛んでたし、Yくんもこわいもの知らずでオリンピックも金でした。
彼らは身体のことなんか忘れて、まさにジャンプになり、スピンになり、ステップになり、音楽になり ・・・ そこには欲望も野心もありません。で、びっくりするような高得点が出て、まわりも本人さえも仰天するのです。
でも・・・ 成功しちゃった「わたし」のプライドが出てくるとやっかいなことが起こります。もう、あの魔法がなくなっちゃう。
素晴らしいアーティストの歌を聴いているときも、そのアーティストがただ旋律の流れになっていて、「わたし」の「わ」の字も残っていないのが伝わってきます。ただ歌声のその響きとして存在しているのです。
そんなふうに、素晴らしいパフォーマンスには、じつは「自分」というエゴの意識は余計であり、邪魔なのです。
パフォーマーに「自分」という我が入っていると、なんか余計なものが混じっている感じがしてダイレクトに伝わってきません。引き込まれ度がぜんぜん違うのです。
「ゴールをもつこと」は悪いことではないけれど、まったくそれに執着しないことが大切なのだと思います。
なぜなら、そもそもそのゴールは何のためなのか? なぜ達成したいのか? ということなのです。
私たちが何かを欲するとき、そこには欠乏感があります。無価値感があります。それらの下には、怖れがあるのです。「それを達成しないとマズイ状況になる。コワイことが起こる」という。
ゴールそのものが、怖れに根ざしているということになります。そして、すべての動機は結果に結びついています。怖れを動機として行動を起こすと、もれなく結果に怖れがくっついてきます。動機と同じ種類のものを手にすることになるからです。
よくあるご相談として、経済的な問題があります。「お金に不安があって、増やすためにあれやこれやすべての手を尽くして行動しているのに、まったく改善のきざしが見えないのです」と。
この場合、動機に怖れと危機感があるままあれこれ動き回ってしまっているために、どこまでも危機感はつきまとってくることになります。
まず見なければならないのは、「この怖れと危機感にさいなまれている自分とは、いったいどういう存在なのだと自分で信じているのか」ということなのです。
たとえば、「見捨てられている」「助けてもらえない」「ひとりぼっち」・・・。
じつは、すべての問題はこの「自分に対する認識」という問題に行きつきます。自分という存在を誤って認識している限りは、何をしようとも、どんな努力をはらおうとも、その怖れはなくならず、どんな行動をも望む結果に結びつけることはできないのです。
自分の目に映るものは、つねに自分のこころの思いをあらわしているからです。
自分に対する認識を調べることとともにもう一つ大切なことは、自分の小さな自己(エゴ)を手放して 〜 なぜなら、このエゴさんはあまりにも極小すぎて何も知らないし、コワがりすぎるし、うるさいので 〜 本来の自分自身(高い意識)とつながって、よいコミュニケーションをとることなのです。
私たちは、エゴの言葉に耳を傾けすぎたあまり、ほんとうの自分の声を聴き分けることができなくなっています。エゴはコワいことしか言わないので、このほんとうの自分の声を聴くことができないことが怖れの原因です。源からのサポートがまったくこないことと同じなのです。
あるいは、ほんとうの自分がいることさえ気がついていないのかもしれません。
自分の育ての親よりも、誰よりも、自分のことを大切にしてくれていて、いつも幸せに導いてくれる存在がいるのにもかかわらず、その存在とまったく疎遠になってしまっていることが問題であり、それに気づかなくてはなりません。
その見守りサポートしてくれている存在に気づくようになると、じつは自分が考えるゴールなんていらなくなってしまいます。なぜなら、その存在におまかせして何もしないことこそが、いちばんうまくいく方法だということがわかってくるから。ヘタに手出しをしないことこそが一番安全、というわけです。
結局、「わたし」が何かをしようとすることは、「エゴ」が手だしすることと同じだということ。そこにすでに存在する完全さを台無しにしてしまうのは、いつだってエゴのひとことであり、エゴが手出ししてくることによってなのです。
私たちがやらなくちゃいけない唯一のことといえば、思考として口をはさんでくる「エゴ」に対して、いちいちお答えしないことぐらいです。
エゴが「ああ!たいへん、どうしよう!どうしよう!」と言ったとしても、「ほんとだ〜!ああなるかも、こうなるかも」なんて、お答えしないことです(みんなエゴに対して優しすぎて、全部お答えして、延々と会話をしています)。
ラジオやテレビがしゃべっているのに対して、いちいちお答えしないのと同じです(え? テレビにお答えしてる? 汗)。
エゴは勝手に一日中しゃべっていて、それはまるで自分が考えているように思えます。いいえ!勝手におしゃべりがやってきているだけなので、ただスルーしましょう。
ほっておかれて相手にしてもらえないとわかると、エゴ(思考)はちゃんと静かになってきます。凶暴でもなくなります(エゴがうるさくて、残酷なことを言うのは、ちゃんと聴いちゃって、話しをあわせているからです)。
すべてはほっておいたほうがうまくいくのです。なぜなら、そこには全体である完全性があるから。
「自分でしたい、決めたい」と感じるときには、その動機を探ってみましょう。きっと、コワがりのエゴが「絶対そうしないとダメだよ。こんな悪いことになっちゃうよ〜」と言っています。
その怖さを見つけたら、何か新しい行動を起こすよりも、その怖さを探求して感じきって、終わりにしてしまいましょう。そうすると、その行動じたいに重要性がなくなります。
あとは、人生がどのように展開するかただ静かに見守るだけで大丈夫。私の人生に勝手にやってもらうのです。
そうしておけば、必要なことは必要なときに、ほんとうの自分からちゃんとお知らせがやってきます。そのお知らせを受けとるためには、エゴ(思考)のお相手をし続けていると気づくことができません。エゴ(思考)はほっておきましょう!
エゴちゃんが退いてくれると、大いなる自分が煌めきを放ってくれるようになります。その煌めきのなかでは、今までの風景が違って見えます。
そのとき、ゴールをめざすことも、決めることも不要となります。大きなる自分という星の煌めきを頼りに進みましょう!
私は「あなた(エゴ)がいなくなると、神(ほんとうの自分)がはいってくる」という言葉が好きです♡
☆★☆ Merry Christmas ☆★☆
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
中目に遊びにきてくださったC子ちゃんとランチデート♡ いつも足を運んでくださってありがとう。
きょうは、川沿いにある Huit さんへ。
ボリュームたっぷりのポークのマスタードソース。自家製パン、サラダ、コーヒーつきです。(デザートはのちほどお喋りしながらゆっくりとね!)
今は寒々とした冬木立ですが、春になると景色は一転! 窓いっぱいに桜があふれます。ランチしながらゆっくりお花見できるお店ですよ。お花の季節には是非!
楽しい時間でした♪
夕方のセッションを終えて外に出ると、すでにまっくら闇。夏だったら西日がジリジリと照りつけている時間帯です。
なぜか道のあちこちに警備のおじさんが出没しているな〜と思ったら ・・・
まあっ!!
目黒川の桜並木が一変してキランキラン☆に輝いておりました。いつのまに・・・。
まだ認知度が低いらしく(だって、地元の私も知らぬまですから)、人もまばらです。
なので、警備のおじさんたちはヒマそうです。いつもは歩けないほどの人なみになってしまうのですよね。本日はまだ、イルミネーションをひとりじめです。
ということで、しずかに光のお散歩を楽しむことができました♪
Q:「いろいろな本に、“ すべては完璧です ”と書いてあるのを目にします。しかし、私にはその “ 完璧さ ”の意味がまったくわかりません。いろんな状況は、完璧とはほど遠い状態です。いったい “ すべては完璧 ”とは、どういうことなのでしょうか?」
A: たしかに、たしかに ・・・。以前、私もそのように思ったことがありました。「完璧って言われても ・・・ ぜんぜん思うようになってないしぃ〜」って。
そもそも、“ 完璧さ ” ということじたいが、「私が望む」「私がイメージする」私の好きな完璧さではないのです。「私が望む」完璧さは、私の欲求、ニーズにあっていて、私だけに利益があり、私がこうだと信じている幸せへとたどり着くためのもの。
でも、その「私」「私」と声高に主張している存在がクセモノなのです!
「私を幸せにしろ〜〜〜!!(怒)」って。 ・・・ その「私」っていったいどなたですか?
私たちが「私」というとき、それは個人である自分です。身体をもった孤立した私というエゴが、「あの仕事がしたい」だの、「将来こうなりたい」だの、「ああなるべきだ、こうならなければならないのだ」と願望を抱いていて、それが叶わないと「ぜんぜん完璧じゃないじゃない」とぼやきます。
その「あ〜したい、こ〜したい」のベースになっているのは、じつは怖れをベースにした自己防御の気持ちなのです。怯えている気持ちが動機だということです。
怯えているからこそ、自分の主張が叶わないとキケンだわ、安全に生きていけないわ、大変なことになるわとあせりまくり、いろいろな願望としての「あ〜したい、こ〜したい」が生まれてくるわけです。
でも、私たちを運んでくれている大きな人生の流れは、何も怖れることがないまさに「完璧な私」に気づくことに向かって流れているので、そんな小さなエゴのおびえた叫びなど、どうだっていいわけです。
それよりも、「なんでそんなにコワがっているんですか〜?」ということのほうが先決問題です。
「なにがコワいのか?」 ・・・ 私が思うような道筋で、私が思うような成果をあげ、私が思うような成功と幸せをくれ〜〜!、さもないと・・・。こんなにせっぱつまっていて、自分にとっての本当によいことがわかっているのでしょうか?
結局、完璧さとは誰にとっての完璧さなのか ・・・ なのです。
小さなエゴの自分から見た完璧さなのか、それともホンモノの限界のない自分から見た完璧さなのか、ということなのです。そして、それぞれの完璧さには、それなりの結果がついてきます。
無限の宇宙のなかでおびえたように小さくしている存在の幸せは、まわりの大きさにのまれないように闘うことかもしれないし。無限の存在にとっての幸せは、すでにそこにあるので何もしなくてよいことでしょう。ただ受けとるだけ。
私たちはつねに、自分のこころの状態の反映を目にするこになります。自分が小さなエゴとしての自分だと思っている限り、完璧さは見えないし、また覚えることもやめられないというわけです。
エゴが口をひらいて、価値判断したり、文句を言ったり、コントロールしたり、抵抗したり、画策したり ・・・ エゴが参画してくることによって、もともとそこにあった完璧さが跡形なくなくなってしまいます。
「完璧さ」とは、エゴが手をふれていないことによる完璧さなのですね。
だから、人生の流れに対して口をはさみたくなったら、逆にエゴに質問してみましょう?
「なんで、文句を言いたいの?」「なんで自分の思いどおりにならないとイヤなの?」と。結局は、「そうでないと、困る」「大変なことになる」・・・そして「生きていけない」「死んじゃう」というところまでたどりつきます(汗)。
それってホントのこと? とりあえず今は生きているし・・・。今ここには問題はないし。 ・・・ そして、今に問題がなければ、それでOKなはず。未来だって、いつも今になるわけだし。
エゴが叫んでいるときには、ただ静かに見守っていてあげましょう(そう、この見ている方がホンモノの自分です!)。しだいにエゴの大騒ぎも静かになって消え去ってしまいます。相手にしなければ消え去るのですね。
また、しばらくするとエゴは参戦してくるかもしれませんが、そのたびに静かに見てあげましょう。見るやいなや、エゴは口を閉ざしてしまうのもおもしろいところです(けっこう素直じゃありませんこと?!)。
このくり返しで、うるさいエゴもだんだんと静かになってゆきます。
ホンモノかニセモノか、どっちの自分を大切にするのか? 大切にしたほうが健やかに育ってしまうというわけです。
「完璧さ」を知りたかったら、静かにしてみること。ニセモノの自分を。
「完璧さ」は、エゴに黙ってもらって、この今という現実に指一本ふれないでいてもらうことで現れてきます。
それは、忍耐するこころと信頼する力も必要となります。何か言いたくてもジッと口を閉ざし、静かに見守りながら待つこと。
エゴの提供しようとする幸せは、どれも最後にはくじかれて痛みに変わって、私たちを苦しめるけれど、この現実という流れのなかにもともとそなわっている完璧さは、エゴの妨害さえなければちゃんと花ひらいてくれるものなのです。
なので、エゴのおしゃべりが始まったら、すぐに気づいて、そこから離れて、ただ見てみることをしましょう。そして、本当の自分であるハイヤーセルフをたびたび思い出して、しっかりとナビをしてもらえるようにお願いいたしましょう。
「完璧さ」は創り出すものではなくて、すでにそこにあるもの。私たちがエゴで汚さない限りは、静かに受けとることができる贈りものなのですね。 ( ・◡・ )♫
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )
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