お茶の間シネマトーク「たかが世界の終わり」

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「えっ?! 終わった?」という、ひさびさに不完全燃焼型、尻切れトンボ的エンディング。

カンヌのパルムドールをとってるぐらいだから、なんかもっとあるはずでしょ?・・・ ってことは、途中まんまと寝落ちした??

い〜え、そんなことはありません。つまり全編、とりとめのない家族の会話、あるいは感情的な言い争いだけ ・・・ それ以外とくにストーリー展開はありません。

35歳のルイは成功している劇作家。12年ぶりに家族のもとへ帰りします。それはなぜか? 自分の余命がいくばくもないことを知ったから・・・。

家族に再会し、食事のデザートのときにそれを切りだそうとしていたのですが ・・・ あら ・・・デザートまえに終わった ・・・?

登場人物は ・・・ 久々に息子と会うために着飾って、直前まで大騒ぎでマニュキアすることに忙しい母親。それから妹が一人いて、幼い頃から会っていないのでルイのことなど覚えていません。そしてナイーブな兄は、ひょっこりあらわれたルイに対して怒りをぶつけまくります。 ・・・ そして、あくまでも自分の都合でやってきたルイ。

映画が終わってあっけにとられたけど、そっか ・・・ これがタイトルの「たかが世界の終わり」なのだわ。

ルイの「世界の終わり」の話しはまだきりだされていないけど、母親は久しぶりに会う息子のまえでキレイでいることで頭がいっぱいだし、気にかけているのはお料理のでき ・・・ 。

母親だけでなく、みんなそれぞれ自分のことに手いっぱい。とても誰かの世界の終わりの話しを聴く耳などもっていないのです。ルイもルイで疎遠にしていたにもかかわらず、自分の重大問題を投げこみにやってきたわけだし。

みんな、誰かの世界の終わりどころじゃない。そんなことより、それぞれ決定的に足りないと感じているものがある。それを満たしたくって必死な感じ。それは、「愛」。

この作品、カメラワークが独特です。マニュキアの指先やら、お料理のボールのなか、汗ばんだ首筋 ・・・ というように画面がピンポイントなのです。

まるで、縮こまった心がみつめている視線の先のよう。とても狭くなっているそれぞれの心の状態をよくあらわしています。

そして、突然ポッポと飛出してくる鳩どけいとか、部屋に飛び込んできた鳥が壁にボコボコあたる様子とか、それぞれの抑圧したやりきれない気持ちも音となっています。

ストーリー展開があっていいはず、という考えがなければおもしろい視点の作品かもしれません。さすがフランス映画!

あら、予告のほうがずっとドラマチックで、なにか起こっていそうに見えるではありませんか!?(笑)

最初からそういう作品だと知っていたら、もっとおもしろかったかもしれません。

 

 

はればれ ( ・◡・ )♫

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確定申告も無事に終わり・・・ 平和な日々がもどってきました。

これで春がやってくる♪

○曜日

朝カフェでまったり・・・。

仕事をかかえてきたけど、つい雑誌のひろい読みに熱中。(スタバ&蔦屋さんのコラボはいいですよね!)

目のまえは、中目 Sta. 朝の喧噪をよこめに、静かなひとときです。

△曜日

遊びに来てくれたEちゃんとランチ。@サルヴァトーレ クオモさん 代官山です。

ブッフェの前菜もりもりにはじまって、それぞれにマルゲリータのハーフがついて、そしてリゾットとパスタ、さらにデザートプレート&コーヒーもついて ・・・

ついつい食べ過ぎちゃう・・・という問題をのぞけば、¥2,000 は嬉しいお値段です♪

テラスがあるので、暖かくなったらお外もいいな〜。

それにしてもいつも思うのですが、ここのサーブしてくれるおにいさんたち、みんな一様に背が高くって、真っ黒で、じゃらじゃらアクセサリーをつけてるタイプ(ちょっとバブリーな感じ)。オーナーのお好みなのでしょうか? いつもレストランらしからぬ雰囲気に「どこに来たっけ?」 と思ってしまうのでした(笑)。

 

17-02-28 スピリチュアルの間違いさがし

「ことば」って、いつのまにか違った意味でひとり歩きしてしまうことがあります。

気がついたら、ぜんぜん違うことになっていたりして・・・。

真理をあらわしていることばも、スピ系の本などではだいぶずれた理解になっていたりして、それが当然のようにあちこちで使われてしまいます。

たとえば・・・

【ワンネス、ひとつであること】

これって、すべてはひとつだから「あなたは、わたしだよね!」みたいな。

だから、理解がすすめば「あなたが完全にわたしに見える」はずだ・・・と。字面だけで考えるとそういうことになるのかもしれませんが・・・。

「あなたが、わたし」というように、個人が個人に対して感じることはまだ分離感があって、じつはワンネスとはほど遠いのです。ワンネスの感覚って、自分という個人がいなくなって、全部のなかに溶けちゃったけど、でもすべてがただ存在しているという、ただ「ある」感覚。

決して「個人」のレベルのことではないのですね。

それから ・・・

【あるがままに見る】

「価値判断をしなければいいのね。それがあるがままに見ることね!」 って思います。

でも、わたしたちが「見ている」とき、すでに価値判断は起きています。そうでなかったら、ここがどこだか、これが何だか、自分が誰だか(人間であるかも)、まったくわかりません。

だから、わたしたちが知る意味での「あるがままに見る」は、記憶喪失になるか、アルツハイマーにならないかぎりは達成されないように思えます。

本当の意味での「あるがままに見る」って ・・・ 「本当はなにも起こっていないんだ」ということを見ていること。

起こっていること(自分も含めて)は、みんな「気づき(意識)」というスペースのなかのかげろうのようなもの。現れては消え、消えては現れる ・・・ そして、どんなものも、なんの原因もなく、原因がないから結果もない ・・・だからなにも起こっていない。(う〜ん ・・・ 言葉にするとそうとう重篤な精神障害レベルに聞こえるな〜・笑)。

「なにも起こっていないんだ」っていうことを「あるがままにわかっていてね」、とでもいったらいいのでしょうか。そこには、なんのドラマもないのです。

あるいは、【与えることは受けとること】

これも、「豊かになるために与えましょう!」みたいな、下心まんさいな解釈になってしまっています。

「そっか〜、与えたら手にはいるのね!」って。「あれ?与えたけど、まだ戻ってこないな〜」みたいな。

これ、ほとんど取引ですね。

この「与えることは受けとること」というのは、モノのことではないのです。

自分がさし出す考え方のこと。

この世界は鏡のように、自分のなかのものを外に見る仕組みがあります。それはたいてい都合よく使われていて、自分のなかに隠しもっているこころのゴミの山を外にまき散らして、「あ〜、世のなかも、人も、みんな汚くってこまっちゃう!」といいはなち、自分は汚れなき人になった気分になります。自分のこころのお部屋はきれいになったな〜って。

つまり、自分の罪悪感を外の世界に投影して、自分は解放されるということ。わたしたちは、これを無意識のうちにやっています。

だから、「与える」ということは、この相手にかぶせてしまった自分のゴミを撤回して、ゴミのかわりに光をなげかけて本当の姿を見てあげるということ。

そうすると、ここは鏡の世界なので、相手(鏡)が美しくなるとおのずと自分も美しいのがわかるようになるのです。

だから、「与える」ということは、自分の間違い(相手に対する間違った見方)を正すことでもあるわけです。

あなたは美しいです、そのままでいいです、完璧です、という考えをさし出す(与える)ことで、それを自分も受け取り、自分がどのような存在であるか確認できる、実感できるということなのです。

あともうひとつ。【欲しいものを、宇宙(神)にお願いする】

わたしたちはなにか欲しいときには、「神さま、叶えてください」と無宗教のひとでさえお願いします。

じつは、「お願いする」ということには副作用があり、逆の効果を生むのです。つまり、お願いすると手に入らない。

なぜかというと、お願いするというのは、「私」という個人がいて、その人ががんばって何かを達成しなければならないと信じていることの現れです。

これは、「私」という分離した、切り離された、つながっていない、ひとりぼっちの、見捨てられてた、なんの供給もない個人を強調することであり、分離感(じつはありもしない分離なのですが)のミゾを深めることになります。そして、そのミゾを埋めるためにもっともっとたくさんのものが必要になります。

お願いするよりは、「私」という個人の分離感を手放そうとすることの方がずっと役にたちます。

個人を手放して、すべてであるものである宇宙(神)のなかに溶けこむ ・・・ それこそが、自分はすべてを持っていることを自分に教えてあげることなのです。

感覚的なことをことばにするのはむずかしい〜!(汗) だからこそ、なんかズレた意味でとられてしまうのでしょうね。

また、気がついたら書きま〜す! ٩(๑❛ᴗ❛๑)۶

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子ヒプノセラピーカウンセリング

 

 

気づきの日記「スピリチュアルの間違いさがし」

「ことば」って、いつのまにか違った意味でひとり歩きしてしまうことがあります。

気がついたら、ぜんぜん違うことになっていたりして・・・。

真理をあらわしていることばも、スピ系の本などではだいぶずれた理解になっていたりして、それが当然のようにあちこちで使われてしまいます。

たとえば・・・

【ワンネス、ひとつであること】

これって、すべてはひとつだから「あなたは、わたしだよね!」みたいな。

だから、理解がすすめば「あなたが完全にわたしに見える」はずだ・・・と。字面だけで考えるとそういうことになるのかもしれませんが・・・。

「あなたが、わたし」というように、個人が個人に対して感じることはまだ分離感があって、じつはワンネスとはほど遠いのです。ワンネスの感覚って、自分という個人がいなくなって、全部のなかに溶けちゃったけど、でもすべてがただ存在しているという、ただ「ある」感覚。

決して「個人」のレベルのことではないのですね。

それから ・・・

【あるがままに見る】

「価値判断をしなければいいのね。それがあるがままに見ることね!」 って思います。

でも、わたしたちが「見ている」とき、すでに価値判断は起きています。そうでなかったら、ここがどこだか、これが何だか、自分が誰だか(人間であるかも)、まったくわかりません。

だから、わたしたちが知る意味での「あるがままに見る」は、記憶喪失になるか、アルツハイマーにならないかぎりは達成されないように思えます。

本当の意味での「あるがままに見る」って ・・・ 「本当はなにも起こっていないんだ」ということを見ていること。

起こっていること(自分も含めて)は、みんな「気づき(意識)」というスペースのなかのかげろうのようなもの。現れては消え、消えては現れる ・・・ そして、どんなものも、なんの原因もなく、原因がないから結果もない ・・・だからなにも起こっていない。(う〜ん ・・・ 言葉にするとそうとう重篤な精神障害レベルに聞こえるな〜・笑)。

「なにも起こっていないんだ」っていうことを「あるがままにわかっていてね」、とでもいったらいいのでしょうか。そこには、なんのドラマもないのです。

あるいは、【与えることは受けとること】

これも、「豊かになるために与えましょう!」みたいな、下心まんさいな解釈になってしまっています。

「そっか〜、与えたら手にはいるのね!」って。「あれ?与えたけど、まだ戻ってこないな〜」みたいな。

これ、ほとんど取引ですね。

この「与えることは受けとること」というのは、モノのことではないのです。

自分がさし出す考え方のこと。

この世界は鏡のように、自分のなかのものを外に見る仕組みがあります。それはたいてい都合よく使われていて、自分のなかに隠しもっているこころのゴミの山を外にまき散らして、「あ〜、世のなかも、人も、みんな汚くってこまっちゃう!」といいはなち、自分は汚れなき人になった気分になります。自分のこころのお部屋はきれいになったな〜って。

つまり、自分の罪悪感を外の世界に投影して、自分は解放されるということ。わたしたちは、これを無意識のうちにやっています。

だから、「与える」ということは、この相手にかぶせてしまった自分のゴミを撤回して、ゴミのかわりに光をなげかけて本当の姿を見てあげるということ。

そうすると、ここは鏡の世界なので、相手(鏡)が美しくなるとおのずと自分も美しいのがわかるようになるのです。

だから、「与える」ということは、自分の間違い(相手に対する間違った見方)を正すことでもあるわけです。

あなたは美しいです、そのままでいいです、完璧です、という考えをさし出す(与える)ことで、それを自分も受け取り、自分がどのような存在であるか確認できる、実感できるということなのです。

あともうひとつ。【欲しいものを、宇宙(神)にお願いする】

わたしたちはなにか欲しいときには、「神さま、叶えてください」と無宗教のひとでさえお願いします。

じつは、「お願いする」ということには副作用があり、逆の効果を生むのです。つまり、お願いすると手に入らない。

なぜかというと、お願いするというのは、「私」という個人がいて、その人ががんばって何かを達成しなければならないと信じていることの現れです。

これは、「私」という分離した、切り離された、つながっていない、ひとりぼっちの、見捨てられてた、なんの供給もない個人を強調することであり、分離感(じつはありもしない分離なのですが)のミゾを深めることになります。そして、そのミゾを埋めるためにもっともっとたくさんのものが必要になります。

お願いするよりは、「私」という個人の分離感を手放そうとすることの方がずっと役にたちます。

個人を手放して、すべてであるものである宇宙(神)のなかに溶けこむ ・・・ それこそが、自分はすべてを持っていることを自分に教えてあげることなのです。

感覚的なことをことばにするのはむずかしい〜!(汗) だからこそ、なんかズレた意味でとられてしまうのでしょうね。

また、気がついたら書きま〜す! ٩(๑❛ᴗ❛๑)۶

 

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毎度ですが・・・ウンザリ (-_-)

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「なんか静かだけど、元気にしている?」と心配されるほど、シンとしちゃうこの時期・・・。

その理由は・・・ 確定申告。(*>_<*)ノ

これほど、人生において「まったく学習できない!」 ことはほかにありません。

もう二十数回やっているのに、もたもた ・・・ まったく進化向上の気配なし!

山のような領収書の仕訳でまずは相当なウンザリモード。これも対策として蛇腹のファイルがあるのですが、ここにそのつど仕訳さえできない横着さ・・・(汗)。

そのうえ、レシートの山を一枚一枚計算するなんて〜。視線を走らせるだけで計算できる眼鏡とかないの〜?! ・・・と、キレまくっておりますが ・・・

そんなときには、おいしいコーヒーで気分を落ちつけて・・・。それは、C子ちゃんがいつもくださるヘーゼルナッツの香りの GODIVA のコーヒーなのです。

みんな大好き (✿´ ꒳ ` )

「これ癒されるよね〜!そろそろなくなると思って」と、新しいのを持ってきてくださいました。

ホントこれ、ヘーゼルナッツ風味のコーヒーのなかでは別格のおいしさ♡  さすがチョコの老舗、コーヒーじたいがチョコのような味わいで、やみつきになります。そして、わたしにとっては鎮静剤効果あり!

C子ちゃん、これでなんとかサバイバルできています〜。ありがとう♡ 

優秀なユダヤ民族は、こどもに蜂蜜をなめさせながらちゃかりと勉強させるといいますが、このおいしいコーヒーを領収書の山の横においてみると、なんだか楽しいことをする気分になってきます♪ だましだましすすめるゾ ・・・(パブロフくんの条件反射を使うしかないっ・汗)

終わったら、同じく確定申告に苦しんでいる友人とおいしいお寿司でお祝いです!(だから、Mちゃんもがんばってね〜!)

 

 

チョコ、食べた? ♡

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HAPPY  VALENTINE'S  DAY ♡

雪まみれ・・・でも、こころのなかにキミさえいればへっちゃらさ!

鳥になった気分で B.D. ランチ

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お友だちのお誕生会です♪

空気がすんでいる2月なので、ながめのいいお気に入りのお店で・・・ と思っていたら、前日夜遅くまで雪模様。これじゃなにも見えないかも・・・。

ところが、翌日はお陽さまが戻ってきてくれました。神さまからのプレゼント♡

52階からのながめは、東京が一望できて、彼方にはきらきら東京湾、そのむこうの房総半島まで見わたせます。翼があったら、どこまでもひとっ飛び!という感じ。

窓辺のテーブルで、この景色をながめながらのお食事。

この NYグリルは、前菜とデザートはブッフェスタイル。特に前菜は、ブルスケッタ、カルパッチョ、カプレーゼ、そしてチーズやクスクスなど、イタリアン アンティパストが勢ぞろい☆ とってもおいしいのです!

もりもりとりすぎ?!(笑)まだ前菜ですよっ!

そしてメイン。本日は二人ともお肉にしてみました。つけあわせの黒トリュフのマッシュポテトが絶品! ボールいっぱいたべた〜い♡

デザートは、埼玉、栃木方面がみわたせるラウンジへ移動。Mちゃん、お誕生日おめでと〜♡

居並ぶスウィーツにはやるこころをおさえて、1ラウンドめは、つつましく(笑)。

あと3ラウンドほどガッツリといただきました。

お昼まえにやってきたのに、ゆっくり食事をしてお喋りをしたら、もう夕方。ふたたび雪がちらついてきました。

このレストランは、駅から離れてい隠れ家気分が味わえるので好きなのです。Mちゃんも気に入ってくださり、よかった!よかった!

Mちゃん、よい一年をね♡
(・・・って、じつはお誕生日は9月だったのでした〜・汗。遅くなってごめんね〜!笑)

 

 

17-02-09 問題のほんとうの原因を知る

セラピストという仕事をしていると、日々さまざまな問題が目のまえにやってきます。そのバラエティーの豊かさといったら!

世には、ありとあらゆる問題があふれてるから・・・ 。たしかに、そのようにも見えます。

その一方で、こんなことにも気がつきます。

「あれ? いっつも同じセリフ(文句)だね〜?」って。

一難さって、また一難。問題は確実にうつり変わっているのに、なぜか聞かれるセリフ(文句)はいつも同じなのです。自分のことにしろ、まわりの誰かのことにしろ、いつも同じこと言ってるね〜(汗) ・・・って。

これはどうしたことでしょ?

* 「なんで、あいつらは私を無視するんだ」とAさん・・・ 「あいつら」がさった今でも、まだ「私は尊重されていない」とぼやきつづけるAさん。
* 「なんで、私にそんなひどい扱いをするんだ!」とBさん ・・・ あそこへ行っても、向こうへ行っても、場所はかわれども自分に対するひどい扱いは変わりません。まるでおでこに、「私はひどい扱いを好みます」と貼りだしているように。
* 「私はいつも意にそぐわないことをやらされる」とCさん ・・・どの仕事、どのグループ活動に参加しても、いやな役まわりばかり。私はやりたいことがしたいはずなのに。
* 「どいつもこいつも、不誠実だ」とDさん ・・・ Dさんにとってもは、世界は不誠実な人であふれているようなのです。

・・・ 不思議とぼやきのセリフは、その人にとっては不変なのです。

セラピストの仕事をするとき、クライエントさんの問題を「額面どおり」にうけとめて解決しようとすると、混乱するしどんどん複雑になり、しまいには迷宮入りしてしまいます。

なぜなら、起きている問題はもともと「煙にまくためのもの(煙幕)」そのもので、解決できないようにできているからです。

問題となっていることの表面的なあれこれを分析したり、対処しようとすることは、役に立たないのです。それは、家が火事になっているときに、その立ちのぼる煙の大きさにびっくりして、煙を押さえこんだり、吹きとばしたりと、いじくりまわそうとするようなもの。

そのとき火元が見えなくっても、いちばん下に隠れている燃えさかっている「火元」に対処しなければなりません。

つまり表面にあらわれている一見「問題」に見えるあれこれは、まったく「火元」ではないのです。

いろんなことが起こっているように見えますが、そんな問題のあれこれはじつはどうでもいいものなのです。

大切なのは ・・・ その問題を抱えているとき、そのときに感じている「気持ち」そのものです。

これぞ、火元となるもの。これぞ、問題の原因といえるものです。

これをしっかりと対処しないことで、消したように見えても(その問題を表面で解決したように見えても)、また他から火が出ます(かたちを変えて違う問題が勃発します)。どちらも火元は同じなのです。そして、また以前と同じ「気持ち」を感じることになります。

つまり、問題についての表面的なことを解消しても、解決できたように見えているだけ。

問題の火元はいつも、解消されずにないがしろにされたままの「ある感情」なのです。

先ほどのAさん、Bさんたちを見てみると・・・

Aさん、Bさんに見られるのは、「見捨てられ」感情。「私は見捨てられていて、見向きもされない」というのがこの二人が握りしめている感情。これが問題の原因、核心です。これがいろんなバージョンの問題としてチョロチョロ現れているわけです。

Cさん、Dさんの場合には・・・

「無価値」感。「私は価値がない。だから大切に扱われなくて当然なのだ」という考え。この考えがあるかぎり、もれなく大切にされずないがしろにされます。

ほんとうはこれらの感情を処理してほしいがために、問題は現れているのです。しかし、私たちは問題の表面的な出来事のほうにすっかり気をとられて、それをいじりまわすのに忙しいのです。

例えば、コミュニケーションを変えて自信をつけよう!とか、服装などの自己表現を変えて自分の価値をあげよう!とか、ちゃんと自己主張ができるようにアサーションを勉強しよう!とか、人に左右されない自分をつくろう!とか。

どれも、一時的にはうまくいくように思えるかもしれませんが、原因が手つかずにされている以上、問題の再発はまぬがれません。

問題は「原因」をかたづけてもらうために現れているのであれば、「原因」をしっかりと認識する必要があります。

見なければならないのは、問題が起きているときに感じる自分の慢性的な「感情」なのです。

自分の感じていることをほんとうに正直に感じることができるようになると、自分が抱えている問題の根っこにある感情(その問題を抱えているときの怖れや不快感)が、じつはいつも同じであることに気がつきます。

しかし、エゴは私たちがいつも問題を抱えて苦しんでいるようにと、問題を解決できないように煙にまいています。つまり表面上であれこれ起きていると、それこそが問題だと勘違いさせられて、それにガッツリと取り組むあまり絶対解決にいたらないという仕組み。

ホントは、起きている問題は根本の原因である感情を解決させないようにするためのダミー、おとりなのに・・・。

だから、真に問題を処理する、ということは、表面をいじりまわすよりも先に、自分が深いところで感じているパターン化した感情をちゃんとと見つけて、それをしっかりと感じ、終わりにしてあげることなのです。

感情は、現実とは関係がないのではないですか? と思うかもしれません。

でも、ほんとうのところ、「現実」といわれているものは、「こころ(意識)」のなかで起きているできごとです。外にあるように見えるものは、両目で見ていると思っている楕円形のスクリーンという意識のなかにすべて存在しています。

エゴは「すべては外にあり、あなたにはどうすることもできません。あなたはその大きな世界のなかのちっぽけな被害者でしかないのです」と声高に教えようとします。

でも、いったん「世界とは、自分自身のこころが見えるモノとしてあらわれている」ということが理解できるようになると、いろんなことがシンプルになってきます。敵は外にではなく、自分のなかにいるからです。そして、その敵もよく見てみることで消してしまうことができるからです。

日々、さまざまにあらわれる問題にしても、じつはたったひとつの原因であるとわかるからです。問題をあれこれいじらなくても、その問題にまつわるパターン化した感情を感じてあげるだけで問題がなくなったり、流れが変わるのがはっきりとわかるようになります。

未解決の「いやな感情」をそのまま持たせておくために、エゴはつぎつぎと問題というおとりを送りこんできおます。

でも、その問題があるからこそ、じつはすべての問題の原因である「感情」を解放するチャンスが与えられているともいえます。

自分が今感じている感情に正直になって、感情にフォーカスし、いらない感情は素直に感じきって「終わり」にできれば、たくさんの問題は自然といらなくなるのです。

見ている世界が平和になるのですね♡

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子 ヒプノセラピーカウンセリング

気づきの日記「問題のほんとうの原因を知る」

セラピストという仕事をしていると、日々さまざまな問題が目のまえにやってきます。そのバラエティーの豊かさといったら!

世には、ありとあらゆる問題があふれてるから・・・ 。たしかに、そのようにも見えます。

その一方で、こんなことにも気がつきます。

「あれ? いっつも同じセリフ(文句)だね〜?」って。

一難さって、また一難。問題は確実にうつり変わっているのに、なぜか聞かれるセリフ(文句)はいつも同じなのです。自分のことにしろ、まわりの誰かのことにしろ、いつも同じこと言ってるね〜(汗) ・・・って。

これはどうしたことでしょ?

* 「なんで、あいつらは私を無視するんだ」とAさん・・・ 「あいつら」がさった今でも、まだ「私は尊重されていない」とぼやきつづけるAさん。
* 「なんで、私にそんなひどい扱いをするんだ!」とBさん ・・・ あそこへ行っても、向こうへ行っても、場所はかわれども自分に対するひどい扱いは変わりません。まるでおでこに、「私はひどい扱いを好みます」と貼りだしているように。
* 「私はいつも意にそぐわないことをやらされる」とCさん ・・・どの仕事、どのグループ活動に参加しても、いやな役まわりばかり。私はやりたいことがしたいはずなのに。
* 「どいつもこいつも、不誠実だ」とDさん ・・・ Dさんにとってもは、世界は不誠実な人であふれているようなのです。

・・・ 不思議とぼやきのセリフは、その人にとっては不変なのです。

セラピストの仕事をするとき、クライエントさんの問題を「額面どおり」にうけとめて解決しようとすると、混乱するしどんどん複雑になり、しまいには迷宮入りしてしまいます。

なぜなら、起きている問題はもともと「煙にまくためのもの(煙幕)」そのもので、解決できないようにできているからです。

問題となっていることの表面的なあれこれを分析したり、対処しようとすることは、役に立たないのです。それは、家が火事になっているときに、その立ちのぼる煙の大きさにびっくりして、煙を押さえこんだり、吹きとばしたりと、いじくりまわそうとするようなもの。

そのとき火元が見えなくっても、いちばん下に隠れている燃えさかっている「火元」に対処しなければなりません。

つまり表面にあらわれている一見「問題」に見えるあれこれは、まったく「火元」ではないのです。

いろんなことが起こっているように見えますが、そんな問題のあれこれはじつはどうでもいいものなのです。

大切なのは ・・・ その問題を抱えているとき、そのときに感じている「気持ち」そのものです。

これぞ、火元となるもの。これぞ、問題の原因といえるものです。

これをしっかりと対処しないことで、消したように見えても(その問題を表面で解決したように見えても)、また他から火が出ます(かたちを変えて違う問題が勃発します)。どちらも火元は同じなのです。そして、また以前と同じ「気持ち」を感じることになります。

つまり、問題についての表面的なことを解消しても、解決できたように見えているだけ。

問題の火元はいつも、解消されずにないがしろにされたままの「ある感情」なのです。

先ほどのAさん、Bさんたちを見てみると・・・

Aさん、Bさんに見られるのは、「見捨てられ」感情。「私は見捨てられていて、見向きもされない」というのがこの二人が握りしめている感情。これが問題の原因、核心です。これがいろんなバージョンの問題としてチョロチョロ現れているわけです。

Cさん、Dさんの場合には・・・

「無価値」感。「私は価値がない。だから大切に扱われなくて当然なのだ」という考え。この考えがあるかぎり、もれなく大切にされずないがしろにされます。

ほんとうはこれらの感情を処理してほしいがために、問題は現れているのです。しかし、私たちは問題の表面的な出来事のほうにすっかり気をとられて、それをいじりまわすのに忙しいのです。

例えば、コミュニケーションを変えて自信をつけよう!とか、服装などの自己表現を変えて自分の価値をあげよう!とか、ちゃんと自己主張ができるようにアサーションを勉強しよう!とか、人に左右されない自分をつくろう!とか。

どれも、一時的にはうまくいくように思えるかもしれませんが、原因が手つかずにされている以上、問題の再発はまぬがれません。

問題は「原因」をかたづけてもらうために現れているのであれば、「原因」をしっかりと認識する必要があります。

見なければならないのは、問題が起きているときに感じる自分の慢性的な「感情」なのです。

自分の感じていることをほんとうに正直に感じることができるようになると、自分が抱えている問題の根っこにある感情(その問題を抱えているときの怖れや不快感)が、じつはいつも同じであることに気がつきます。

しかし、エゴは私たちがいつも問題を抱えて苦しんでいるようにと、問題を解決できないように煙にまいています。つまり表面上であれこれ起きていると、それこそが問題だと勘違いさせられて、それにガッツリと取り組むあまり絶対解決にいたらないという仕組み。

ホントは、起きている問題は根本の原因である感情を解決させないようにするためのダミー、おとりなのに・・・。

だから、真に問題を処理する、ということは、表面をいじりまわすよりも先に、自分が深いところで感じているパターン化した感情をちゃんとと見つけて、それをしっかりと感じ、終わりにしてあげることなのです。

感情は、現実とは関係がないのではないですか? と思うかもしれません。

でも、ほんとうのところ、「現実」といわれているものは、「こころ(意識)」のなかで起きているできごとです。外にあるように見えるものは、両目で見ていると思っている楕円形のスクリーンという意識のなかにすべて存在しています。

エゴは「すべては外にあり、あなたにはどうすることもできません。あなたはその大きな世界のなかのちっぽけな被害者でしかないのです」と声高に教えようとします。

でも、いったん「世界とは、自分自身のこころが見えるモノとしてあらわれている」ということが理解できるようになると、いろんなことがシンプルになってきます。敵は外にではなく、自分のなかにいるからです。そして、その敵もよく見てみることで消してしまうことができるからです。

日々、さまざまにあらわれる問題にしても、じつはたったひとつの原因であるとわかるからです。問題をあれこれいじらなくても、その問題にまつわるパターン化した感情を感じてあげるだけで問題がなくなったり、流れが変わるのがはっきりとわかるようになります。

未解決の「いやな感情」をそのまま持たせておくために、エゴはつぎつぎと問題というおとりを送りこんできおます。

でも、その問題があるからこそ、じつはすべての問題の原因である「感情」を解放するチャンスが与えられているともいえます。

自分が今感じている感情に正直になって、感情にフォーカスし、いらない感情は素直に感じきって「終わり」にできれば、たくさんの問題は自然といらなくなるのです。

見ている世界が平和になるのですね♡

 

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ラブリーな鬼さん♡

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明日は節分ですね。そして豆まき。

「鬼は外!」ならぬ、昨日からうちにはオニさんがやってきました。

この子!

コワモテにもかかわらず、グラビアアイドル顔まけのポージングにおもわず笑ってしまいます。

太ももから足さきまでの感じがフクフクしていて、あまりにキュートなので「かわいい〜♡」を連発していたら、「あげるよ!」と言われ、もらってしまいました。

じつはこれ、父が陶芸教室で作ったものです。陶芸家の先生の多大なるお力添えあっての作品ですが、他の作品もびっくりするぐらい味のあるものがいっぱいありました。次におねだりするものも決めました! (笑)

私も粘土、こねてみたくなりました♪