「明日、ダライ・ラマに行ってきま〜す」と友人にメールしたら、「ダライ・ラマに行くって・・・スゴイです。聖地みたいな響き」と言われました。
(笑)。たしかに・・・。ダラムサラかダライ・ラマか・・・。どちらも、ありがたい。
なまダライ・ラマは、さぞお可愛いかったです。チベットの高層の法王さまにそのような言葉は失礼ですが、ダライ・ラマ法王はいつだって屈託のない無邪気な少年のそのものに見えるのですもの。だからこそ、好きなのですが。
この日も、通訳のあいまに大きなあくびしちゃったり、あちこちボリボリ掻いていたり、はたまた可愛いタオルで顔を拭きまくったり・・・かなりオチャメな振る舞い。
講演最後のQ&Aでは、なんという価値判断やエゴを超越した受け答え(講演、全体を通しても、まったく指導的でも教育的でもありませんでした)。仰天するような質問者や批判的な質問内容にも、何ら抗うことなく、いつもどうりにこやかに、批判するでも説教することもなく、また取り繕うことも感情をあらわにすることもなく、そのまま自然体で素直にすべてを味わい愛でているこの態度。スゴイと思いましたね〜。「あるがまま」って、こういうこと?これぞ、セラピストのかがみ!!
わたくしごとですが、日々セラピーをしてゆくなかで強く感じるのは、「結局、みんな幸せになりたいんだな〜。各自がそれを求めて必死になることによって、また対立や問題がおきてしまうのだ」ということ。
法王さまの講演もまさにそんな内容でした。「結局、人は幸せになりたいと思っている。自分が好きでない人も、害を与える人も、その望みは同じ。このままならないこの世の中で、わたし同様に幸せを求めてもがいているのだ、とそこに共感をもてるようになると、争いがなくなる」と。つまり、いやがらせをされても、この人は自分同様、幸せになることに必死なんだ。わかるよその気持ち。みんな同じだね〜、という感じです。
自分の境界線を広げる・・・ということ。セラピーの場面でも、自分のことばかりを考えている人はどんどんつらくなってゆきます。そこで、目線を転じて、人の役に立とうとする、自分という存在を与えようとする・・・と目線がぐっと広がって、つらい頭の思考から抜け出すことができます。
すべてとの一体感、つながりを感じるということは、まわりの役にも立つし、なによりも自分が穏やかでいられるという大きな恩恵があるのですね。