おもしろいもので、セラピーのテーマというのは週を通して一貫していることがよくあります。ある週は虐待セッションオンパレード (;_;)、ある週は男女間のもめごとあれこれ (+_+) とか・・・。
さて今週は・・・というと、自分の「感情がわからない」シリーズ。あのクライアントさんも、このクライアントさんも、「感情がわからないんですぅ」。そうなると、なんだかこの地球上こぞって「感情わかりません」状態になっているような。(余談ですが「世の中みんなそうだから」と発言するとき、「みんな」はたいてい三人で十分なんですよ。)
さて、「感情が感じられない」みなさまは、最初からその相談にいらっしゃるわけではなく、他の問題が入口でした。お話ししてゆくうちに「えっ?!わたしって、じつは自分の感じていることがわかってないの?!」ということが発覚。
「感情がわからない」というのは、中年以上の男性には多々みられるケース。たとえば、上司からクビを宣告された男性。その男性に「今、どんなお気持ちですか?」とたずねると、「仕事がないと生活できないし、女房の文句も絶えないし、困ります」。わたしは気持ちについて尋ねたのであって、彼の考えやまわりの状況について尋ねたのではないのですが。気持ちの描写はぬけているのですね。
感情がわからない人に「気持ち」を尋ねると、きまって一般論か、頭で分析した結果について述べるだけ。実際、自分がそれに対して何を感じているのか、「不安」なのか、「自信をなくしている」のか自分の内側が語られることはないのです。
この男性にとって、「どんな気持ちですか?」というのはまるで未知の質問のようでした。「それって何のこと?」「気持ちってなに?」とポカンとした状態になってしまいます。
こういう方はほんとうに感情がわからないのかというと、いえいえそんなことはありません。断言できるのは、人並み以上の「感じる」力があるからこうなった、ということ。
どういうことかというと、幼少の頃に「感情」というのは自分を傷つける刃物のように感じてしまったのです。で、「これ以降は、感情に関することは見えない、聞こえない、感じない、まったくかかわらないことにします!」と決めました。それは、親や兄弟の爆発的な感情の表現に圧倒され、それによって自分が抑圧されたりコントロールされた経験があるのかもしれません。あるいは、幼い自分が感情を自由に表現すると、親にたしなめられたり拒絶されたことがあるのかもしれません。また、対処できないほどの苦しみや悲しみにさらされ、その感情とどのように向かってよいのかわからなくなった場合も。いずれにしても感情というのは自分も人も傷つけるキケンなものだと信じてシャットしてしまったのです。
つまり、「感情を感じられない」どころか、じつは「感情に敏感」であった。それゆえ、圧倒的な感情の波にさらされて被害甚大だったわけです。で、身の安全を確保するため感情をスイッチオフしてしまうという手しかなかったのです。だから、いったん感情を感じはじめると、「ああ、わたしはこんなにも豊かにものごとを感じられる人だったのか」とみなさん驚きを感じるほど。モノクロだった人生がいきなりフルカラーになるような感じ。そして、誰よりも「感情のエキスパート」だったことに感動します。
そうですよね。学校でも家でも、正しい感情とのつきあい方は教えてくれませんものね。親が正しい感情の現し方を知っていたとしたら、わたしたちも「傷つけ合う」感情ではなくて、「理解しあえる」感情の表現を学べたかもしれません。でも親も知らないってことは、おじいちゃん、おばあちゃんも知らず、7代先もたぶん知らない、ということです。
「感情」であるハートが道を閉ざされると、わたしたちは頭のおしゃべりである「思考」が優勢になります。そうすると、価値判断したり、批判したり、怖れを感じたり、あーだ、こーだと忙しく考えはじめ、「人生って、ああ疲れる」あるいは「恐れでいっぱい」ってなことになってしまいます。
そう、わたしたちの中には二つの声があるのです。「感情」からの声と「頭(思考)」からの声。この二つはまったく別のもの。さて、どっちがほんとうの自分なのでしょうか?しあわせになるには、どちらの声を聞くべきなのでしょう?
(その2に続く)