気づきの日記「ココロがボッキリ折れたなら・・・」その1

いつも自分を信じて、たくましく生きている人がいた。向上心があり、勉強熱心。つねに新しいチャレンジをかかさない。そんなカッコいい友人のHちゃん。

よくぞここまでエネルギーがある、と腑甲斐ないわたしはいつも感心するばかり。

しかし、このところなんか様子がおかしい。本人もそれを自覚していて、もしやウツではないか、とわたしに相談をもちかけてきた。

彼女いわく、「ずっと自分を信じてやってきたけれど、自分が信じられなくなっちゃった。あせって今までと同じように努力をしてみるけれど、どんどん悪くなるばかり。もう疲れた・・・」と涙をこぼしながら今までになく弱気な発言。どうやら、彼女の中の歯車がどこか狂ってしまって、今や日常生活、仕事、パートナーシップ・・・とあらゆるところに支障をきたしているようなのです。

「そうですか〜。自分が信じられなくなっちゃった・・・それはオメデト〜!」と口には出さずとも不謹慎にもココロの中でつぶやくわたし。

自分のことが信じられなくなっちゃったのは、なぜオメデタイのでしょうか?

彼女のみならず、特にバリバリ系の男性にも多いのですが、自分の強さ、自分のパワー、自分の知識、自分の信念・・・とにかく「自分を信じて」「自分を頼りに」やってきた、そしてそこそこ成功してきた・・・という逞しい方々。彼らにとっては、頼りにするものは自分以外他にはなく、「自分が信じられる」ということこそ、折れない自信、最高の強みに感じられたのでしょう。

でも、四十代後半になったHちゃんはちょこっと更年期気味だし、パートナーとの永年鬱積した問題も浮上中、そして親の健康問題、仕事のマンネリなど、問題山積。いつだって自分が強くいられる状況ではなくなっていたのです。で、もう〜疲れちゃったよ〜!と。

こんなとき、「自分」一本を信頼してきた人はあんがい簡単にポッキリいってしまうことがあります。なにしろ、今まで完全なるよりどころ、ただひとつの頼みの綱であった「自分のパワー」が枯渇して信じるものがなくなってしまったのですから、その先にっちもさっちも行きません。

それに「あの人はすごくパワーがある」とか「いつも、ものすごい勢いで仕事をする」という場合、じつはこれはちょっと不自然なことなのですね。なぜそこまでしてガンバらなければならないか、というと、あんがい自分自身も気づいていない自分に対する無価値観や自信のなさの埋め合わせのため、そして自分の不安な気持ちに気づかないようにするために、がむしゃらに動きまわって何がなんだかわからなくなるまで忙しくしていなければならないのです。つまり、そのままの自分ではいられないという「不安」に突き動かされている場合が多いのです。

しかし、「怖れ」をベースとした行動は、結局は「怖れ」を増幅するような結果にしかつながらないので、こんなにもエネルギーを使ったわりには疲れはてて病気になったり、失敗してもうこれ以上できないようにするとか、結局は自分の潜在意識がブレーキを踏んでしまうことが起ります。

この場合の「自分」というのは、大洋に浮いているボートのようなもの。波もよく、風もよく、お天気もよければ、ずんずん目的地に向かって進んでゆけるのです。しかし、それは決してボートの力ではありません(が、ボートはそんなこと知るよしもありません。ゆえに、自信たっぷり!)。いったん天気が急変しようものなら、ひとたまりもなく波に呑まれてしまうこと必至。悪くすれば沈没の憂き目にもあいかねません。この自分ボートは天候が急変するまでは、天下の「俺サマ」気分でずんずん進んでゆくことができるわけです。

しかし、「自分」のみを信頼してきた場合、いきなり風向きが変わったり、波の状態が変わったりすると簡単に自然(まわりの条件)に翻弄され、今までの自信はどこへやら、こんどは極端に「自分がまったく信じられない」という逆方向に傾いてしまいます。いくら頑張っても、この高波、暴風を制することはできないからです。

「自分を信じて」きたぶん、いったん信じられなくなるやいなや、急転直下、「自信」はあとかたもなくこっぱみじんに打ち砕かれます。

じゃあ、「自分を信じる」って全然役に立たない、あるいは、百害あって一利なしなのでしょうか?

その2へ続く

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/心理療法家・ヒプノセラピスト