おそらく、じゅうぶん昔からパンダだった夫の真実を見ようとせずに、なぜに他の動物を期待してしまうのでしょう?
そもそも、わたしたちは予想外なことが大嫌い。人が自分の予想したような行動、言動をとってくれないと、怖れを感じる生き物なのです。予想外なことに対処できなければ、生存をおびやかされるかもしれません。その怖れのせいで、相手が好き勝手しないようにコントロールしておかなくちゃ!と感じ、それが人間関係の軋轢になります。
わたしたちは自分の安全確保のために、「わたしが心地よくなるように、あなたはわたしが思ったような生き方をすべきだ」と迫ります。決して、相手の「そのまま」の姿をよしとはしません。自分のモノサシをふりまわし、「ああなるべきだ!こうなるべきだ!」と迫ってきます。パンダがパンダでいることを許さないのです。
そしてもう一つの理由としては、「自分の人生」がつまらなく感じていると、他の人の人生にちょっかいを出すことに生きがいを見い出してしまいます。ほんとうは自分の人生をどうにかしなくちゃいけないのですが、自分の人生の違和感を他の人のせいにして、他人を正すことにやっきになってしまいます。ホントは他人の人生に頭をつっこめばつっこむほど、さらに自分がむなしくなるという悪循環にはまってしまっていることに気がつかないのです。
何よりも、他人を自分の思いどおりにコントロールしようとすることほどエネルギーを消費することはありません。戦いを挑めば挑むほど、相手は強者になってゆきます。相手を正すことにすべてのエネルギーを使い果たし、自分の未来を創り出すエネルギーはちょっとも残っていない状態となります。そして、相手の人生に干渉すればするほど、自分の人生はすっかりお留守となってさらに寂しくなるばかり。
結局、「何が苦しみを生み出すのか」というと、(決定的に)「そうであるもの」を「そうでない」と信じようとするときです。「事実」をそうと認めず、別のものに変えようとする努力だからです。パンダはパンダ以外のものにはなれないし、ごろごろしているだんなさまはごろごろしている以外の何かにはなりえないのです。本人が変わりたい!と思ったときは別ですが。(本当のところ、問題はだんなさんではなくって、「事実を許せない」おくさま自身がセラピーの焦点になってしまうのですね。汗)
「事実」を受け入れる潔さは苦しみから解放してくれます。
それに、人はそもそも「自分が生きたいように生きる権利」があるのです。
わたしも思いあたります。自分に対してもやってしまうのです。たとえば、何度こころを決めてもぜんぜん早起きできない自分。「一時間半早く起きて、あれしてこれして」と思いつつも、結局はいつもの時間。なんで早起きできないの〜?なんで決めたことが守れないの〜?と何度もヘコみましたが、堪忍して「いつもどおり に目覚める自分」をよしとして認めることにしました。「自分がいつも起きる時間が、まさにわたしが起きる時間なんだ」と。
で、ちょっとでも早起きできた日は賞賛してあげたり、ご褒美をあげることにしたのです。すると責めたり、自己嫌悪におちいっていたときよりも、だんだん早起きの回数が増えてきました。「〜できない」と思うよりも、できたときに褒めてあげるほうが、よっぽど目標達成が簡単になりましたよ。事実を心地よく認めると、その出発点から気持ちよくスタートをきれる感じです。
ロジャーズが言うように、肯定されてこそ人間は変わることができるのですね〜。
そして他人の人生に批判的になっているときには、じつは同じ分だけ自分に対しても批判的になっているものです。いつだって人にやっていることは、自分にやってしまっていることの「目くらまし」なのですね。だから、まずは自分に対して、現状を認めてやさしい目線をもつこと。自分にやさしく。そうすると、夫やまわりに対しても自然とやさしい目線を持てるようになることでしょう。
ゲシュタルト心理学にこんな言葉があります。
「ゲシュタルトの祈り」
私は私のために生きる
あなたはあなたのために生きる
私はあなたの期待に応えるために、この世にいるのではない
あなたは私の期待に応えるために、この世にいるのではない
あなたはあなた、私は私
もし偶然に出会うことがあれば、それは素晴らしいことだ
たとえ出会うことがなくても、それはそれで素晴らしいこと
自分のココロを心地よく尊重できるとき、わたしたちはまわりにある事実も心地よくありのままに尊重できるようになるのですね。(^_-)v