13-04-07 「べき」が大好き!わたしたち その1

「なんで、妻は片づけられないのか?(掃除は、毎日するべきだ!)」

「夫はどうして、だらしないのか?(もっと身だしなみを整えるべきだ!)」

「○○ちゃんのファッション、超似合わない。(もっと、トシ相応にすべきだ!)」

「上司(部下)はこうあるべき・・・」

「○○さんには、ああすべきではなかった・・・こうすべき」「

こんな「べき」言葉が、セラピーではよくつぶやかれます。

何をそんなに気にしているのでしょう?じつは、これらはみんな「他人」についてのことなのですよね。「自分」についてのことじゃない・・・。他の人のことだったら本来どうでもいいはずなのに、それがなぜか「どうでもよくない!」。そして、「こうすべきだ!」と首をつっこんでしまうわたしたち。そこにストレスや苦しみが生まれます。

わたしたちには、「人はこうふるまって、あたりまえ」「ものごとは、かくあるべき」という自分独自の決めつけやルールがあります。そして、そのルールのモノサシを人やものごとに安易にふりかざし、押しつけようとします。

でも、押しつければ押しつけるほど、自分の理想と現実とのギャップを思い知らされるだけで、結局その落差に苦しむのは自分なのです。「べき」と言うたびに、自分の中にいらぬ苦しみをつくってしまいます。

「こうであるべき」と、いくら言ってみたものの、たいてい相手がしていることはその人にとってはごく「ふつう」のことなのですよね。つまり、わたしの「ふつう」と相手の「ふつう」がイコールではないのがこの世の中。(自分の「ふつう」は、じつはすごく「ヘン」かもしれません。)

相手の「ふうう」=つまり「あるがまま」に自分の「ふつう」=「こうあるべき」を押しつけると、結局は「こうあるべき」は敗北するしかなくなります。相手の「あるがまま」はまぎれもなく、今の現実だから・・・「そうじゃない!」「そんなはずじゃない!」「こうしろ〜!」といくら叫んでも、静かにそれは「そうである」のが事実なわけです。

「こうあるべきでしょ!」と理想をふりかざして迫られても、しょせんそれは「あなたの考え」、「なんでわたしが、あなたの理想にあわせなきゃいけないのよ?」ということになってしまいます。

そうなのですよね。「そうであるもの」「そうである人」は、今の時点では限りなく「そうである」のです。いくら地団駄踏んで、「ちがうよ〜!!そうじゃないでしょ〜!」と叫ぼうとも、そうであるものは現実に「そう」なのでした!残念ながら・・・。

「そうじゃない!」と叫び続けるだけ、かなりのエネルギーを消耗します。自分の中のストレスが増していきます。

なんでわたしたちは自分をこんなに苦しい状態にしてまで、現実である事実に「そうじゃないんだ!こうするべきだ!」と抵抗したいのでしょうか?自分がストレスでいっぱいになろうとも、なぜに自分のルールを押しつけたくってしょうがないのでしょうか?

自分のルールは、自分だけで大切にすればいいはずなのにね。

自分のルールと相手の「あるがまま」とに、いったいどんな関係やこだわりがあるのでしょう?

(その2につづく)

(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/心理療法家・ヒプノセラピスト)