15-01-10 被害者にならない、今どきの子育て

最近の子育ては、少し変わってきているのだな〜と若いお母さんを見ていて感じました。

以前はひとりっ子で過保護にされすぎで、まるでこどもがコワレモノ扱いだったような。転べば大騒ぎ、ひざをすりむいたりケガをしようものなら事件にもなりかねない ・・・。

へんに大切にされすぎたこともは転んで泣けば「痛かったのね〜。かわいそうに」とより大切にされる、注意をいっぱいもらえると勘違いして、すっかり「かわいそうな無力な被害者」な自分を演じはじめます。そんなに痛くないのにわざと泣くとか。

でもそれを演じているうちに、だんだん自分が無力なのだと信じはじめてしまうのがこわいところ。

昨日、カフェの隣のテーブルにいた若いお母さんはちょっと違っていました。

よちよち歩きのこどもがテーブルに思いっきり頭をぶつけて烈火のごとく泣き出したとき、そのお母さん、それはそれは冷静に「あら、自分でぶつけたのにおかしいな〜(泣いてるなんて)」、そして「ほら、痛い痛いの飛んでけ〜」と宙に放りなげるジェスチャーをすると、こどももそれを見てもうニコニコしていたのです。

「このお母さん、やるな!」と思いましたよ。

自動的に「痛くてかわいそうなわたし」になりそうなところを、さっさと自分で責任をとらせているのです。「ぶつけたのはあなたですよ。それは外から襲いかかってきたのではありませんよ。あなたの不注意です」と。そして痛みはさっさと放り投げるようにして処理をして、「被害者意識」と「痛み」がいっしょにならないようにしているのですよね。

こどもが「痛み」を感じたときに、「かわいそうに」と言ってそれに注意をむけすぎると、こどもは「痛がれば」いつもにはない余分な愛がもらえるんだと勘違いしてしまいます。「愛」は「かわいそうな人」にならないともらえないと擦りこまれてしまうのです。

また、わたしたちは、おうおうに「痛み」をかんじるとその痛みをそのままにはせず、そのあとに頭で考えた判断をつけ加えます。「ついてない自分」とか「いつもこうなっちゃうわたし」「これは罰にちがいない」とか・・・自分のよけいな考えを「痛み」にくっつけて、「痛み」に意味を与えてしまいます。ほんとうは、「痛み」はただシンプルに「痛み」、ただそれだけなのです。頭でいろいろとセリフを考えなければ、わたしたちは被害者にも、かわいそうな自分にも、報われない自分にもなっていないはずなのです。

この若いお母さんは、あざやかに「こどもに自分の人生の責任をとらせる」ということを理解させ、なおかつ「痛みはそのまま手放せばいいのだ」ということも教えていました。

わたしたちのこころの中にある「わたしこそ、かわいそうな存在」という(すでに無意識にまでなっている)思いこみこそが、じつは自分の人生の山や谷をつくっているのですよね。「かわいそうなわたし」と思えば思うほど、それに答えてくれるわたしたちの「創造力」!
(これこそ、自由意志)。

わたしもお店の店員さんの態度がよくないときとか、何かが思ったようにいかないとき ・・・ いまだに被害者、かわいそうな自分をやっていることに気がつくときがあります(腹を立てていることじたい、すでに被害者になっているのですよね)。しみついた習慣はなかなか消えない・・・。まだまだ、気をつけないといけないな〜と感じます。

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ヒプノセラピスト・心理カウンセラー