気づきの日記「 “思考” もペットと同じ、しつけましょ!」

わたしたちを苦しめる元凶ともいえるのが、じつは「思考」・・・自分の考えです。

外からふりかかってくる問題や過去の出来事が自分を苦しめると信じていますが、まさか自分の考えで自分の首をしめていたとは・・・。

実際に起ったことよりも、そのことに対する自分の意味づけ、自分のなかでくり返されるセリフこそが問題! それが、起ったことを自分にとってどんな体験であったかを決めてしまうのです。

たとえば、こんなことありませんか? あ〜だこ〜だと悩み続けて苦しくて、世界もどんよりと暗く見えたのが、ある考えがひらめいたときから、急に希望を見えたり、落としどころが見つかったり、そして世界までもがパ〜っと明るく感じられるようになったこと。実際、現状はまったく変化していないのに「ものの見方」の変化だけで急に未来が開けます。(カウンセリングでやっているのはこれですね!)

つまり、自分を殺すも生かすも、幸せになるのも闇のなかでいきるのも、結局は自分のチョイス、思考のチョイスだといえます。

っていうことは、思考はあくまでもチョイスするものであって、チョイスするべき「誰か」が存在しているということです。

それこそが「自分自身」。あ〜だこ〜だ考えはじめると、まるでそれが自分自身のように感じられますが、決してあ〜だこ〜だと次から次へとわいてくる思考が自分なのではありません。そんな考えに気づいている存在じたいが「わたし」です。

わたしたちはイジワルな考えを持つと、「なんてヒドイ自分なんだ」と罪悪感をもちますが、じつは自分じゃなかった!!(オメデトウゴザイマス!)

つまり、部屋が自分だとすると、思考ってそこに流れてくる匂いであったり、そこにたまるホコリのようなもの。どこからともなくやってくる不思議な存在です。

だから、そんな実体のない存在と真っ向からむきあってご意見に耳を傾けているうちに、完全に一体化してしまうのは懸命とはいえません。部屋であるわたしが、匂いやホコリにのっとられて、自分を匂いやホコリだと思っている状態。

だから思考も、調教する必要がある、と感じます。まるでワンちゃんを教育するときみたいにね。

悪いことは、無視したり、はっきりとノーということで受け入れない。そして良いことはほめてあげる。のばしてあげる。そうすることで、「思考」よりも上の存在である自分をしっかりと自覚します。

自分の自己評価から過去のことまで、「あのときああだったら、もっとよくなっていたのに」「愛してくれなかったから、わたしはこんなになってしまった」「もっとよい教育をうけていたら、こんな人生ではなかったかもしれない」「あの母親でなかったら」「あの環境でなかったら」・・・。

慢性的なネガティブな考えは、それを野放しにして、そこに注意を注いだがために、わがもの顔でのさばっています。ついには、「わたし」のふりをはじめrのです。

そして、不幸な思考はつきることがありません。なぜなら、わたしたちは基本的に被害者、犠牲者であることが大好きで、できることならそのポジションを手放したくないし、誰かを悪者にしたてて、なんとか自分の面目を保とうと必死なのです。

思考の教育方法もペットと同じ。よくないものは、重要視せずにスルー(無視)して、ぜんぜん相手にもしていないことを示すこと。あるいは、その場その場で、しっかりと正しいもの(感じたい感情や考え)にいちいち置きかえていくこと。

つまり、「今、わたしは〜のように感じているけれど、これはわたしが望むものではありません。わたしは、〜(愛、やさしさ、喜び、平和、楽しさ・・・)を選びます」というように。

最近テレビでもおバカ犬を教育するような番組がありますね。あんな感じで、野放し好き放題にふるまっていた思考を、「きょうからはわたしがご主人さまだ!」というのをちゃんと示して、威厳をもって、すきじゃない思考は無視して見むきもせず、それとともに間違いは指摘して正しい思考というのを教えていってあげなければなりません。

自虐的になっても大丈夫、過去があ〜だこ〜だと気になっても大丈夫、そして未来の心配がはじまっても大丈夫。それらのセリフはちっともほんとうのことではありません。何も自分を証明していません。もう、これ以上だまされるのはやめましょう!

いきあたりばったりのことしか考えられない思考がじたばたしているにすぎません。注意を向けることなく、わたしの部屋から出ていってもらいましょう!

その選択肢がわたしたちにはあるのです。

 

 

「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ヒプノセラピスト・心理カウンセラー