このあたりではよく見かけるバギーにのせられてお散歩するワンちゃんの光景。
奥さんがバギーを押しながら、お洋服を着ておめかしたワンちゃんに話しかけています。そのすこしあとから、だんなさまと見られる男性がトボトボ・・・とついてくる。
かつてはきっと、ワンちゃんのリードをひきながら、ふたり肩をならべて歩いていたでしょうに。今や、ワンちゃんとだんなさんのポジションが完全に入れかわったような・・・。
奥さんの言い分としてはきっと、「愛がなくなったわけじゃないのよ。あの人、なにをしてあげても無反応なの。でもね、この子はいつも機嫌がよくて、シッポをふったり跳びはねたりして全力で喜んでくれるのよね」。
ダンナさんにしたら、「そもそもシッポなんてないし・・・ 跳びはねるなんて腰が痛くってもってのほか!」といわれそう。(ハイ、ごもっとも!あなたは犬ではありません!笑)
「愛してあげても、わたしの期待と要求にこたえようとするどころか、感謝すらしてくれないし・・・。それなら今後、愛の供給はストップさせていただきます」・・・そんな奥さんのセリフが聞こえてきそうです。
わたしたちはその関係から自分が欲しいものが手に入っているあいだは「愛」があるように感じています。が・・・ いざ、そこからなにも吸いとれるものがなくなると「愛は冷めた」といわんばかりに、かつて愛していたはずのひとはワンちゃんよりもランクが下になっちゃう。
ワンちゃんのゴハンのほうが先!ワンちゃんの洋服代はだんなさんよりも多い!いつも見つめてもらって、たくさんの愛の言葉もかけてもらえる!
「愛」ってそんなにあったり、なくなったり、あっちに行ったり、こっちにきたりするものでしょうか?
それは「愛」と思っていたものが、じつは「必要性」が「愛」のフリをしていただけでは?!・・・世で俗にいう「愛」(とくに恋愛)とは、「必要性」を「愛」と呼んだもの。だから、この彼氏(夫)から自分の必要性が満たされなくなると、「そろそろ他をあたる時期かしら?」と乗りかえの作業(別れ)がはじまります。(たんに、自分の欲しいものが以前にくらべて手に入らなくなっただけなのですが。)
人はそれぞれ自分の人生を生きていて、自分の人生を生きることこそが人生の目的。だから、相手の必要性を期待どおりに満たせるはずもなく、また相手の必要性を満たすことばかり考えていると自分の欲求がお留守になり、犠牲した感が強まり、相手に対して怒りが湧きあがってきます。(相手に尽くしすぎると、いつかは相手に対して怒りを抱きます。これも「ここまでやったのに、なにもなしか!」という策略したのに思うように手に入らなかったというがっかり感です。)
ハイ! 自分の必要性は自分で満たしましょう! 他に期待したり、依存すると、常に失望か怒りへ行きつきます。
奥さんがだんなさんに「愛の供給はストップさせていただきます」と言おうとも、わたしたちはもともと「愛」の存在。本質は「愛」。だから、「愛」を止めると苦しくなってくるのです。
その結果、どこかにそのたまっていた溢れんばかりの愛を注ぎたい! それこそが、近頃のワンちゃんへの溺愛なのでは?! と思ってしまいます。(外国人が、あのバギーやお衣装を見ると「ウソだろ?!あれはイヌだぜ!」といいます。海外では動物は動物。決して人間と同じレベルにはなれないのですね、)
そう考えると、日本人は人間関係における愛の交流に、なにか問題があるのだろうか? と思わざるをえません。だって、このあたりの朝のオープンカフェはワンちゃんを抱えた人たちが集まってきて、椅子にブランケットをひきワンちゃんが坐りお茶会がはじまります。そんなグループがあちこちに。
もちろんワンちゃんをかわいがるのは問題はないけれど、溺愛はどこか大切な人間関係における愛の欠落を感じてしまうのです。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ヒプノセラピスト・心理カウンセラー )