気づきの日記「もっと楽しめるようになるには?」

そのむかし、私には理想がいっぱいあった気がします。たくさんのゴールをかかえていて、それを達成することが人生であり、生きることだったのです。

それにくらべて ・・・ 今は、理想も目標もゴールも、明日やることリストさえ存在しません。べつに無気力になったわけでも、人生を放棄しているわけでもないのです(苦笑)。穏やかに、やる気まんまん! (´▽`)

私たちはみんな、ものごころつくころから、「何かを達成すること」= 「生きること」になってしまいます。

幼稚園の「アンパンマン体操が上手にできるようになること」にはじまって、小学校にはいれば「九九を全部覚えること」 ・・・ 「テストで満点をとること」、「○○高校に合格すること」、「○○ちゃん(くん)を恋人にすること」、さらにある資格をとることや、昇進すること、家族をもつこと、家をもつこと、痩せること、もっと健康になること・・・ひとつが片付けばすぐに次が提示されて、人生の終わりまで延々と続いていって、頑張ったあげく、はい、おしまい! というかんじ。

で、どこかでそれがもくろみどおりにいかないとなると、いわゆる「挫折」というものがやってきます。つまり「挫折」とは、思うようにならないこと、何かが間違っている感じ、私が悪い、私には足りない、という罪悪感そのもの。

ひとたび「人生とはゴールを決めて、思うようにするべきものだ」と信じてしまうと、「思うようにならない」経験があらわれると自分の能力や価値を疑うようになります。

「自分でうまくできない」「何かが間違ってしまった」「どうにかしなくちゃ」「立て直さなくちゃ」 ・・・ すべてを自力でどうにかしようとするので、「どうにかならない」と自分に対する不信感・罪悪感が深まります。

でもね、長〜い目で見たとき、おそらく誰もが、「過去のあのことは失敗だと思ってヘコんだけど、いまとなってはあのことがあってこそうまくいている。あれでよかった」といえることがきっとあると思うのです。

なのに、私たちは「長い目でみる」という忍耐をついつい忘れてしまって、ピンポイントでじっと見つめ、目のまえのことが思いどおりにならないと「なぜなのだ!?」と苦しみます。「 こんなに努力しているのに。やるべきこともやっているのに」と。

そもそも私たちの人生というのは、もっと違った目線でプランニングされている・・・ということ。そしてそれは、力を抜いて、なるようにさせてあげるときにしか、つまり「私」というエゴが邪魔をしないときにだけ、完璧さという真実をあらわしてくれるもののようです。

だから、コントロールも抵抗も疑いも価値判断も手放して、ただリラックスしてほっておくこと。楽しんで過ごすこと。

そして、「起っていることは、あるがままですべて完璧だ」を自分の絶対的な唯一の信念にすること。

「おもいどおりにならない」ことでどれほど自分が守られているのか(もしかしたら、とっくに命をおとしていたかもしれないし)、「おもいどおりにならない」ことでどれだけうまくいく方法を早く学んでいるのか ・・・ ということなのです。

誰もが隠しもっている「自分は間違っている」という罪悪感こそ、なにげで私たちの人生に様々なトラブルを引き起こしています。

意識できていなくても、私たちはほんとうにたくさんの怖れや罪悪感という間違った感情を隠しもっていて(本当はまったく的をえない不要なものですが)、それを抱えているのがツラいあまりにいろんなことをやらかします。

たとえば、ツライ状況もイジワルな人もうまくいかないことも、じつは、自分のなかのイヤな感情が先にあって、でもそんな感情が自分にあるなんて認めたくないから、外側のものを悪者にでっちあげて、そのせいで私はこんなにツライ感情を味わっている、と原因をすりかえてしまいます。

たとえば、せっかくおいしくお酒を飲んだのに、暴れたり、ひどい感情をぶちまけたり、ひどい結末になる場合。ひとはお酒のせいで・・・というけど、そうじゃない。どうにもならない感情が先にあって、それが苦しすぎて、それをなんとか放出してしまいたいがためにお酒にかこつけてぶちまけたまでなのです。お酒が悪さをしたわけではないのです。

先日も笑っちゃいました。友人とスウィーツをいただいたとき、「おいしい!おいしい!」と楽しんでいたはずなのに、そのうちに「クリームが気持ち悪い ・・・」と具合わるそうにしているのです。 ꒰⁎×﹏×⁎꒱ ༘ ありゃりゃ?! おいしくいただいたはずなのに・・・。

ちょうど友人は自己探求をしていたので、ちょっとアドバイスさせていただきました。

「スウィーツは攻撃してこないよ」と。つまり、スウィーツが「気持ち悪くしてやる〜!」と意地悪するのではなく、スウィーツには何の罪もないということ。それは、自分のなかにあって、折りあらば解放したいとチャンスを狙っていたいやな感情が、スウィーツにかこつけて放出されて、あたかもスウィーツにやられたかのように誤摩化された・・・ということ。(スウィーツと一緒に、その感情が解放されたということ。)

気づきが早い友人は、納得するとともに笑っておりました。(よかった!よかった!そうやって、ひとつひとつ自分に何が起きているのかを意識することが大切なのですよね。気づいたら、もう終わりにできるから。)

私たちは自分のいらない感情を捨てるためだったら、どんなチャンスでものがしません。「最近、イヤな状況、イヤな人など、さまざまな問題に遭遇するな〜」と感じるときは、自分のなかで捨てたい感情がいっぱいいっぱいになっていて、何かや誰かのせいにしないとやっていられないわ!というときなのです。

そんなふうに、せっかくの楽しい場面を台無しにするがごとく現れる罪悪感の巧妙なカラクリに気づくことができるようになると、楽しむべきものごとにいちいち汚点をつけなくてもすむようになります。ただ楽しめばいいものを、わざわざ何かツライ経験にする必要がなくなります。

そして、自分に起ることすべてを宇宙からの嬉しい贈りものとして素直に受けとれるようになると思うのです。

 


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