セッションのとき、クライエントさんにお伝えします。
「ご自分の高い意識に、なんでもたずねてみてくださいね。自分でやるよりもずっと早いし、安心ですよ。人やものに依存するのは耽溺するという問題があるけど、自分の高い意識にはどれだけ依存しても大丈夫。もともと自分の一部ですから。高い意識にいつも答えを出してもらうのがいいのです」と。
高い意識とは、直感やひらめきがやってくる自分の「正気」の部分。時空をこえてすべてを俯瞰してる、なんでも知っていて答えてくれる存在です。
すると、「たずねても、答えがこないんですけど・・・」とクライエントさん。
ひとはみんな同じように、どんなときでも高い意識から絶大なるサポートを受けて見守られています。気づこうと、気づくまいと・・・。
以前にも「メッセージを受けとるには・・・」というお題で同じようなブログを書いたことがありましたけど、もういちど!
答えがこないと感じられるときには、「答えとは、こういうふうにやってくるものだ」という決めつけがあるため、きているのに無視してしまっているのです。つまり、人とのコミュニケーションのように「ちゃんとした声で聞こえるべき」とか、何かが起こったときのように「目に見えるかたちでわかるべき」と信じていたり。
どんなときでも、高いい意識はその人の全知覚をとおして、総力をあげてメッセージを送ってくれています。だから、かりにイメージで受けとれた場合でも、他の五感にも働きかけられているのです。知覚するものすべては自分の「こころ」のあらわれなので、目に見えるもの、感じるもの、聞こえるものが全部「答え」だといってもいいかもしれません。
わたしの場合は以前書いたように、アタマのなかの声や、まどろみのなかの感覚でやってきます。
アタマのなかの声としてやってくるときは、「それは必要ありません」とか「やめたほうがいいです」とか、とっさのシンプルなメッセージのことが多いのです。
もっとこみいった疑問や問題の場合には、朝のまどろんでいる時間に声ではない「情報」としてやってきます。
「情報」と表現したのは、「わかった!」といういう感じの塊が自分のなかにやってくるので、はっきり言うと「なにがどうわかったのか」はよくわからず、「でも、わかったぞ!」とあとでそれを解釈することになります。
なので、自分が行き詰まっていて「答え」が必要なときには、わざと二度寝、三度寝をして、半分夢見状態のなかで答えのほしいことをイメージしてみます。
臨死体験をされて、半分アチラの世界をかいま見た方は、「あちらにいたときにはすべてがわかった!と思ったのに、こちらに戻ってきたらどんどん失われていく」と話していたのを聞いたことがあります。
寝ている状態というのも身体が消えてスピリットになっているので、ある意味じゃ臨死体験そのもの(そうなんです、わたしたちは毎日死んでは、わざわざ夢の続きに戻ってきているのです)。身体がないスピリットの状態になると全体性にアクセスできるので、言葉ではなく感覚で全部知って「わかった!」となるのでしょう。
でも、身体がリアルになると、どんどん全体性が失われるようで、あのまどろみのなかで「そっか〜!」と叡智に似たものを受けとるのですが、お昼まえには「なにが、そっか〜!だったのか」さっぱりわからなくなります。シラフに戻ったような感じ(いえ、ほんとうは「この世」という催眠状態に再び引き込まれたというのが正しいのですが・・・)。
ところで、きょうの情報の塊を翻訳してみるとこんな感じでした。
「未来に幸せになろうとして、努力したり期待してもムダです。たった今しかありません。いつかなんて存在しません。たった今、幸せになってかまわないのです。今のなかに幸せを、即座に見て下さい。今は完全に満ち足りているのに、将来が心配なのではありませんか? あなたが見ようとするものこそが、あなたに見えるものです。見るというのはそういうことです。外にあるものを漠然と目にしているのではなく、あなたが完璧であるか不完全かを決めて、それを外に映しだしているのです。あながた決めたものしか見ることはありません」
この考えはわたしにとっては新しいものではなく、すでによく「知っている」ものでした。
でも不思議なことに、そのまどろみのなかでは「知ってる」レベルのことが、おなかの底から全細胞レベルまで「ほんとうにわかっちゃった!」感になっていて、あ〜そうか!って完璧さのなかで確信できるのです。
難解な本でも、二回、三回読んでいいると、突然、「あ、これってこういうこと?」と、理解のレベルが全然変わっていて感激することがあります。そんな感じ!
すでに「知っている」ことが、もっともっと深いレベルから、叡智の感覚でわかるような体験なのです。一部でわかるのではなくて、他のすべてとつながってまるごとわかったという感じでしょうか。
人によっては、起きるまえのまどろみの時間帯には、怖れなどのいやな感情がたくさん出てきてしまうことがあります。
それは抑圧されて感じるのを避けていたものが、まどろみによって扉の制御がきかないため、じゃんじゃん放出されている状態。そのときには、怖がってそれを押しもどそうとするのではなく、ただ「感覚」として無防備に感じてあげます。そうすると、半開きの扉のすきまから、きれいにサヨナラしていってくれるのです。
隠しもっていたものの、せっかくの浄化のチャンスなので、くれぐれももとの場所に引き戻さないようにいたしましょう。
きょうの気づきから、「そっか〜、わかったつもりだったけど、たった今、このときにはなんの問題もないよね(未来を持ちださないかぎり・・・)。だから、ノーテンキでいて、たった今、幸せになっていいのね♡」とわたし(じっさいノーテンキになってみると、どれだけ身体に力が入っていたのかあらためて気がつきます)。
みんなそうですが、どっか「ノーテンキはダメ!」 「生きるってもっとまじめにシリアスにしなくちゃ、バチがあたる!」、とくに問題があるときには「襟を正して、正座して、真剣に向き合わないと解決しない!」って思っているみたいです(小さいときからイゾップや日本むかし話などで、勤勉、マジメをたたきこまれていますからね〜・笑)。
問題って、じつはこころがでっちあげたイメージでもともと存在していないので、真剣に向き合うと注意が注がれて、どんどん現実味をましてしまうのですね。
ノーテンキな生き方のススメ・・・これが今朝の高い意識さんからのメッセージなのでした。
では、たった今、まったりすることにいたします。お茶でもいれよっと♪
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )