お茶の間シネマトーク「沈黙 〜サイレンス〜」

ヒプノセラピスト古川貴子のブログ

学生のとき、この小説を読んでショックでした。ずっとこころに残っていました。

キリシタン弾圧下の長崎で、困難な宣教を続けるポルトガル人の宣教師たち。拷問を受けながら、かれらの命の叫びは ・・・ 「神さま、なぜあなたはこたえてくれないのですか?」

キリストの教えをかけて宣教師もキリシタンも次々に命を落としていくという、せっぱつまった状況のさなかで発せられる問いですが、私たちも生きていくなかで「神さま、なぜこたえてくれないのですか?」という問いは誰もが一度は発したことがあるのではないかと思います。

「なぜ、神はわたしにこんな試練を与えるのだろう?」「なぜ、こんな苦しみに満ちた世界を創ったのだろう」「なぜ? なぜ?」 わたしは見捨てられているのか?・・・ 私たちは、どこか理不尽だと思いながらも、それでも必死にこたえをみつけようとしてきたのだと思います。

セラピーをしていくなかでも、それぞれの無意識のこころのなかにとても根深い「見捨てられ感」があるのがわかります。

「どうせ、助けてもらえない」「わたしは見むきもされない」・・・まさに、おおもと(神さま)から私は見捨てられていて、助けなんてこないし、だから自力で必死に生き延びなければならない、苦しい ・・・ この無意識下にある絶望感が、私たちが感じるえたいの知れない恐怖心の原因です。そしてその怖れから逃れるために、自分をさまざまなものへと駆り立てます。

それはお金であったり、お酒、ギャンブル、買い物、恋愛、過食、ワーカホリック・・・ かたちは違ってもすべて怖れをうめるためのてだてとなると信じているものです。でも、それらでは決して満たされることはありません。ほんとうに求めるものでしか、その隙間はうめられないからです。

この怖れは、「見ているものは、自分のこころのなかが原因である」ということがわかるまで決して解決されることはありません。

私たちは「自分の信じているものしか見ることができない」から、自分のなかに深く隠しもっている闇、見捨てられているような空虚感を正直に認めることからはじめなければなりません。信じていることが変われば、おのずと見えるものも違ってくるのです。

本当に見捨てられているのか、自分の思い違いではないのか ・・・。怖れるあまり握りしめているものをいったん手放して、こころを落ちつけて、真実を知ろうとしないかぎり、本当のことは見えてこないのかもしれません。

ところで、この物語のなかでは踏み絵を躊躇する村人たちが次々と命をおとすはめになるのですが、キチジローというキリシタンは三回も踏み絵に遭遇しながらも、そのたびにまんまと生きのびてゆきます。

なぜなら、そのたびごとにバシバシ踏んだから。それでも、彼はさいごまでキリシタンのこころは決してすてていないのです。

人々がキリシタンになったのは、安らぎや幸せを求めてそうなったはずなのに、私たちはしばしば自分の考えの正しさを優先するあまり、本当に求めていたはずのものをみすみすドブにすててしまったりします。

彼はまさに、「正しさよりも、生きのびること(幸せ)」を優先したわけです。

私もキリスト教の環境で育っていますが、もし私がこの時代の長崎に生まれていたら、きっとキチジロー同様、バシバシ踏んでるかもしれませんね〜(汗)。

この作品はマーティン・スコセッシ監督のハリウッド映画です。

ハリウッドの日本を舞台にした作品って、これどこの国? というぐらいヘンテコリンなことになっている場合があるのですが、これは時代考証を日本人が担当しているそうなので違和感はありません。

でもちょっとヘビーで、午前中に観たら午後までへたってしまいました・・・。