「あのことに取りかかりたいけど、それどころじゃないんです!まずこの問題を片づけないと」
「やりたいことはあるけど、いろいろ問題がありすぎて今はムリ」
日々、こんなセリフをよく耳にします。
問題さえなかったら ・・・ 好きなことができるのに。好きなように生きられるのに。でも、「人生には問題がつきものだよね。しょうがないね・・・」とあきらめてしまいます。
つまり、問題 = 幸せになれない理由、でも問題は不思議と次から次へとわいてくる・・・、だから私は一生問題から自由になることははい。好きなことをして、幸せになることはできないんだ。 ・・・ ガッカリ。
でも、もし ・・・ ほんとうは「問題なんて存在しない!」としたら??
「問題があるんだ」と思っているから、リクエストに答えてつぎつぎ問題があらわれるんだとしたら・・・?
私たちは、「目にうつる世界は、自分の外側にある」と教えられ、信じてきたけれど、どうやらほんとうのところは違うようです。
この両目で見ている楕円形のスクリーンは、じつはこころのなかに存在していて、私たちは日々、自分のこころのなかのストーリーを覗きこんで過ごしているようなもの。
だから、世界は完全に自分の内側の出来事!というわけです。
そして、そのストーリーの選択肢はたった二つだけ。 ・・・ ハッピーエンド か ドツボか。ハーフハーフのストーリー展開というのは存在せず、竹をわったようにハッピーかドツボかにわかれちゃうのです。そして、私たちはみずからそのドツボストーリーを選択するのが好きなようです(笑)。
自分のこころのなかの世界では、自分が信じているストーリーしか展開されません。自分がチョイスして借りてきたDVDのごとく、それは自分のお好みのストーリーなのです。
私たちは「自分が何を信じているのか」なんて、ふだんの生活でまったく気にかけていません。この何を信じているのかが、二つに一つのストーリー展開のカギとなります。
私たちは日々、「外側にある」と教えられてきた世界にたち現れるものたちと対峙しなければなりません。とにかく、目のまえのものごとをどうにかすることに忙しい。
ところが、外側というものがないのならば、目のまえの問題をあれこれするのは、まさにこころの中のイメージをいじくりまわすようなもの。つかみどころのないイメージはどうにかできるものではなく、実は何をどうしたとしても何の結果もないのです(なんせ、こころの中ですから)。変えられると思っていてもそれは錯覚です。
問題が消えたかのように見えるとき、それはすぐさま他の問題に姿を変えちゃったというわけです。それはないかもしれないけれど、他のものとしてやってきます。七変化をくりかえしながら、追っ手から逃げる怪物のよう。
問題が外にあると思っている私たちは、それを解決できるとかたくなに信じていて、どうにかすることに必死です。生きるという時間のほとんどを「こころのなかのイメージをどうにかすること」に費やします。根本的な原因がないところで、せっせと時間を使います。
これこそが、問題というもののワナなのです。エゴちゃんがしかけたトリック。存在しないものとたわむれててくださいね! そのまにワルサをしますからって。
目のまえのものごとに忙殺させておくことが、エゴちゃんがサバイバルする手なのです。いくら頑張ってもダメじゃないという無力感、罪悪感、怖れによって、エゴちゃんはますます増殖し、生き延びます。
目のまえのものにキョーフをおぼえさせて、さらにリアルにして、必死で取り組ませて、こころのなかで何を信じているのかなんて忘れててほしいのです。「内側の世界(こころ)に問題なんて存在できない」ということに決して気がついてほしくないのです。
だから、私たちが取り組むべき問題の根っこは、外の世界になど存在しないのです。
イメージのなかで何を見るか!というのは、「何を信じているのか」ということであり、その何を信じているのかは「自分をどんな存在だと思っているのか」ということをそのまま映しだしています。
自分がすべてから切り離された孤独な存在だと信じていれば、孤独なうちに、自力で頑張りながら、助けがやってこない世界のなかで奮闘するイメージで見ることでしょう。
そうです!すべての問題(病気、不和、金銭、仕事)は、この孤独な、切り離された思いのいろいろなバージョンにすぎません。
でも、自分がほんとうは今も源の愛につながっていて、愛されていて、面倒を見られて、ちゃんと守られていて、満たされていることを信じることができれば、ちゃんとその証拠をみることになります。それが自分にとっての現実となります。
たとえ、勘違いをしていっとき問題を見ていたとしても、「自分は守られていて完全に安全なんだ」ということをちゃんと思い出せれば、見えるものがこころにあわせて変わってくるのです。知覚というのは、つねに自分のこころについてくるものであって、こころが知覚に従うものではないのです。
だから、自分が自分に対して何を信じているのか、どんな存在であると思っているのか、という「自分への信頼」がとても大切。
自分といっても、制限の中で自力で生きようとしているエゴの自分ではなくって、無限の源にもともとつながっていてそこに安らいでいる自分のこと、ほんとうの自分のことです。
でも、その自分とつねにチューニングするには、外のものにとらわれてあたふたする自分を静めて、自分のこころの中にある静かな部分、ほんとうはどういう存在かを知っている部分に耳を傾けてつながることが大切です。
ありもしない外にホンロウされてあたふたしているうちは、自分の正気の部分とのつながりが切れてしまっているというわけです。だから、外のことに誤摩化されないことが大切なのですね。
どんな問題があらわれても、目のまえのものをスルーする、ってむずかしいことではあります。だって、私たちは目にするものにソク反応するように教育されているから(目にしたことこそ真実ですよ!そこにあるんですよ!って)。
でも、新しい自分を救ってくれる規則が必要なのです。「目のまえのことは、こころのイメージだ。まず、こころだ!」って。
問題に遭遇するたびに、「ほんとうは問題なんて存在していないんだ。だから、もうこれ以上ごまかされないぞ!」という強い気持ちで、自分のこころにある正気の部分(高い意識)に「こんなもの(問題)は存在していない。本当のことを見せてください」とお願いすることが大切なのです。
でも、これって180度の視点の転換、ホコ先を真逆にすること。時間をかけてこころを教育しなおす必要があります。一朝一夕ではいかないのですね。
身体の不調、人とのトラブル、お金の問題などに直面して ・・・ これがないはずないでしょ! とおもわず叫びたくなりますが、「ほ〜・・・これが全部、じつは存在しないなんてすごいな〜。自分のこころのパワーはなんてすごいんだ。それを見てる自分って、いったい何を信じているのやら・・・?」というふうに探求心がもてたらしめたものです。
自分の信じていることを見てみましょう ・・・ すごく滑稽で、自分でも笑っちゃうことを信じていたりします。それを見つけられると、探求するのが楽しくなり、探求してちゃんと光をあててあげるとその信念はもう終わりをむかえます。(メデタシ、メデタシ!)
問題を解決するって、モノや人やもろもろをどうにかすることとは関係なくって、じつはこころを変えること。それをしたあとに、きっと見ている世界で何をしたらいいのか、インスピレーションがやってくるかもしれません。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )