そのときに自分が本当に感じていることを、言葉にすりかえることなくそのまま感じて、そこにぴったりとピントがあったときには、びっくりするぐらいオオモノの感情に出会いびっくりすることがあります。
ほんのわずかな不安感ぐらいだったはずなのに、感じているうちに指の先までビリビリしてきたり、わけもわからず大泣きしてしまったこともあります。
じつは、ささいな感情の下にはとてつもないマグマのようなエネルギーをはらんだ感情のかたまりがあって、その感情のバクハツを怖れているがこそ、私たちは感情を感じることをさけようとしてしまうのかもしれません。感じそうになるやいなや、すぐに言葉や分析やラベリングに逃げてしまいます。
まさかそんな地下にうごめくマグマのように物騒なものを抱えているとは、誰も思ってもいません。だからびっくりします。そしてそれは、私にかぎったことではなく、みんな涼しい顔をしながらも、誰もが抱えている宇宙もふっとぶような強力な感情(怖れ)のかたまりがあるのです。
それをあるがままにちゃんと感じられたときには、かなりの達成感! なにかがゴソっととれた感があって、スッキリと軽くなります。少しまえまで感情を感じながらさめざめとしていたのがウソのように、いきなりピカーン!と青空な気分になります。
何かコトがあって感じるというよりも、「理由もなく、そこはかとなく不安」とか「なんだか落ちつかないわ」と感じたときには、感情にフォーカスしてみることをおすすめします。
アタマのなかですかさず、セリフと分析、ラベリングがはじまるまえに、感じてしまうことです。ほっておくと、「なんでこうなのよ?」「どうしてこうなったかな?」「じゃあ、どうしよう・・・」と探求に入ってしまいます。
あるいは、自分の外側のもの(お酒、ギャンブル、買い物、食べ物、恋人、仕事、・・・)で感情をごまかしたくなる誘惑にかられます。ごまかすまえに感じてしまいましょう。そうすれば、外側のものに依存、執着、耽溺しないですむようになります。
「感情」と言われると「え?? よくわかりません」という方は、「身体の感覚」と考えていただくとわかりやすいかもしれません。
心臓がドキドキする、胃のあたりが重たい、頭がしめつけられるよう、手や指や足がびりびりする、喉がしめつけられる・・・。この感覚こそが、感情のあらわれです。深く呼吸をしながら感じて、しっかりとピントがあったときには「ずぼっと根っこごと抜けた感じ!」「予想以上に根っこがおっきくてビックリ!」てな手応えを感じられることでしょう。
怒りも感情の一つだから「私はちゃんと感じているにちがいない」と思ってしまいがちです。しかし、先ほども書いたように怒りは本当の感情を隠すためのダミーです。
自分のことをとても小さく、無価値に感じているとき、その反動として自分を守るためにこころが刀を抜いている状態が怒りなのです。だから怒りは、勇ましい感情などではなく、じつはおびえているとき、怖がっているときに起こります。
あとよくやってしまうのは、「感じています」といいながら、じつは思考に走ってあれこれ考えていて、考えでアタマが満杯なってしまうことです。「感じること」と「考えること」は同時にはできません。だから考えに走ってしまうと、もうそこで感じることはシャットアウトされ、アタマで架空のストーリーをでっちあげてしまい別の世界をつくりあげてしまいます。そして、そこで感じそこねた感情は、自分のなかでまたくすぶることになるのです。
こころには自浄作用があるので、感じそこねた感情がたまりすぎると、まるでゴミ出しをするようにさまざまなかたちで目に見える世界へとこころのゴミをばらまいて捨てることになります。それが様々な問題としてあらわれるのです。
目に見える世界には自分の身体も含まれるので、ゴミ捨ての結果として身体に不調があらわれる場合もあります。
だから正しく感じるということはとても重要なのです。
そして、そのときどきの感情をあるがままに受けとめて感じられるようになると、こころのゴミがどんどん片づけられるようになります。あるいは、片づける(感じる)のに慣れてくると、こころも「じゃあ、これも捨ててね」「次はこれね!」とどんどんいらないものをさし出してくれるようになります。そして、ゴミを片づけたあかつきには、ゆらぐことのないほんとうの自分の輝きがあらわれてきます。
世の中ではポジティブであること、前向きであること、明るいこと、ヘコまないことこそが「正しい感じ方」「よい生き方」だと思われています。
でも無理にポジティブなふりをすると、あとでいっきにネガティブのつけがまわってきます。なぜなら、無理にポジティブにするということは、もともと自分はネガティブだと無意識のうちに気がついていたからこそなのです。
また、無理にエネルギッシュ、力強い自分を装うことも同様です。そもそも装う必要があるということは、じつはほっておくと自分がどれだけペシャンコなのか、ふがいないのか、じつはわかっているからです。
そのネガティブさを無理に抑圧するために、かえってそれが自分の見ている世界に噴出することになります。
ネガティブであっても、後ろ向きであろうとも、それもただひとつの「感覚」です。抵抗も抑圧もせず、ただ感じてあげることで、それは本来の自分の意識のなかに統合されて、ただ自然な状態へと戻してあげることができます。
どんな感じにしろ、あるがまま感じるままに感じる・・・あまりにも自分とは違うもののフリをすることに慣れっこになってしまった私たちにとっては、そもそもの「あるがまま」に気づくことからはじめなければならないのかもしれません。
そのためには、なるべく言葉を使わないこと、反応しようとしないことです。
そして、あるがままを感じることの恩恵は、じつは思っている以上のものがあります。
あらゆることは「ただ感じられるままに感じる」だけなのに、わざわざ問題としてでっち仕立てあげることが少なくなります。
また、こころのなかの負荷が少なくなってくると、だんだんと意識が広がっていきます。そして、徐々に本来の自分への目覚めというプロセスがはじまります。小さく制限された個人という自分から、本来のもっと大きな境界のない自分へと変化が起こりはじめます。
本来の自分とは・・・感じるままを感じ、起こることをそのまま体験し、受けとめ、それでいてお気楽な感じ。そうなると、今までの自分がいかに無意識のうちにヤマアラシのように針をつきたてていたか、そして固く身体をこわばらせなが防衛することに必死だったかに気がつきます。
感じるままに感じることで、ものごとが自分のなかをとおりすぎてゆくことによって、静かにそれに「気づいている」自分に落ち着いていられるようになってくるようです。
「あるがままを感じられるようになること」こそ、じつはセラピーにおいて、そして本当の自分へと解放されるために、いちばん大切なことかな〜と感じます。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )