以前、友人とイタリアを旅をしていたときのこと。
夜なにげでテレビをつけたら、「マジソン群の橋」という映画をやっていました。もちろんイタリア語で。
イタリア語はわからないので、このさい音声は消してしまって、私と友人がそれぞれメリル・ストリープとクリント・イーストウッドになってアフレコ遊びをしていました。好きなセリフをてきと〜にあてはめていたのです。
言うまでもありませんが ・・・ 見るかげもないほどまったく違うストーリーになっちゃいました(汗)。あの橋のうえのせつないシーンだって、情緒もへったくれもあったもんではありません。そっけないことこのうえない(笑)。
映像はまったくそのままなのに、ただセリフを変えただけでストーリーってまったく違ったものになっちゃいます。
ということは、そこで起こっているように見えること(映像)よりも、それにどういう意味をもたせるかっていうことこそが、そのドラマがどういうものであるかを決定しているのですね。
ところで、わたしたちが毎日見ているこの世界、この日常も、もしも最初から音声などついていない映像だけだとしたら・・・(つまり無声映画です)。
そして、それを見ているひとりひとりが、それに勝手にアフレコしたり、好きなように解釈あたえているとしたら・・・。
そりゃ、同じ映像を見ていたとしても、ひとりひとりが違うストーリーを体験することはまぬがれません。そして、違う体験をしているからには、まったく違う解釈や意見をもったり、また違う気持ちを感じるというわけです。そこで食い違いがうまれてあたりまえです。
あの音のない「マジソン群の橋」を、アフレコや解釈によってどんなドラマにも仕立てることができるように、私たちの日常もじつは「音のない」「決まった意味もない」映像にエゴが勝手にセリフや解釈をでっちあげて、独自のエゴストーリーを展開しているとしたら・・・? 耳にする音も、うかんでくる考えも、解釈も、すべてエゴがアフレコしているとしたら ・・・?
それはエゴのストーリなので、きまってジェットコースターのような急転直下に見まわれたり、最後はお決まりのエンディング「御愁傷さま」状態が待っているというわけです。
う〜・・・ん。だったら、自分でセリフをつけない解釈しないに限りますよね。
だからといって、エゴを黙らせることも、エゴの考えを阻止することもよい考えではありません。それをしようとすると、エゴと戦うことになって、存在するはずのないエゴがよりリアルになり、またすべてのエネルギーをエゴとの戦いに費やすことになってしまいます。
それよりも、エゴのセリフや考えを「エゴのもの」として静かに気づいていることのほうが大切です。ただ気づいている、ただ見ている、ただ耳を傾けている・・・。おもしろいもので、じっと観察していると、それはだんだん弱まってくるのです。静かになります。
「これはエゴが言っているんだな」「これはエゴがびびっている」と気がついて、じっと観察して、耳を傾けている・・・おもしろいもので、すぐにエゴくんはシン・・・としてきます。
ってことは、観察しているホンモノの自分とエゴは元気いっぱいにに共存はできないらしく、ホンモノ60%、エゴ40% というように、両方でいることはムリらいのです。となると、どうやら、「私」がエゴにまるまるのっとられているか、あるいは正気でエゴを観察しているか、ふたつに一つのようです。
気がつけるようになると、今までは知らぬまにエゴにのっとられ放題の瞬間ばかりだったのが、だんだんエゴの出番が少なくなってきます。出てきても、すぐにわかるようになります。
どうやら私たちの人生にしても、無声映画のごとくストーリーはストーリーとして独自に展開していくようです。だから、わたしたちにできるのは、アフレコしたり独自の解釈を加えてエゴのストーリー展開にしないことなのです。これこそが、なにも手だしをしないで「ゆだねる」「おまかせする」ということ。
エゴは意味を見つけることこそが賢いことだと思っているので、つねに「これはどういう意味?」「なにが起きている?」「〜にちがいない」と意味を見つけることに必死になります。でも、エゴの見つける意味は自分を幸せにはしてくれないようです。
ただ無声映画をみているときのように、ストーリーがストーリーを展開していくにまかせておくこと。
エゴが介入しない人生独自のストーリー展開には、独自の知性と完璧さがあらわれてくるようです。
だから、「人生が人生を生きるにまかせる」。つまり、わたしがいちいちちゃちゃを入れない。私はこの言葉が好きです。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )