昨日、ドハデに転んでしまいました(汗)。
階段をふみはずし、転んでから二回転ぐらいして、クツが片方どこかにふっとんでおりました(苦笑)。近くにいた女性二人が助けてくださって、とびさったクツを捜索してくださりことなきをえました。ハデに転んだわりには、負傷していなかったのが幸いです。
「ああ、やっぱりやっちゃいましたか・・・」というのが正直な感想。じつは、この2〜3日まえから予感がしていたのです。なにか「イタタ」なことが起こりそうな・・・。
なぜか・・・ というと、あることに腹をたててイライラしていたから。イライラした日がつづくと、転ぶというジンクスがあったのです。
そんなにしょっちゅう転んでいるわけではありませんが、過去のデータから、転んだときにはきまってなにかに腹がたっていたのに気がついていました。
腹がたっている = 攻撃的な気持ちになっている → 攻撃的になると、無意識のうちに反撃をおそれることになる → 反撃されるまえに「イタタ」ということをみずから起こして、自分が被害者であるフリをする → そうすれば「もう痛いめにあったから、これで帳消しね!」と、反撃をのがれられると信じている ・・・というわけです。
私たちの無意識のこころには、こんな自己防衛のメカニズムが働いています。日頃、「イタタ」という経験が多い方は是非、ご自分のなかの攻撃心や怒りをチェックすることをオススメいたします。じつは、自作自演なのです。自分のなかで抑圧されていて気づいていない赦せない気持ちが、じつは赤々と燃えさかっているかもしれません。
ここ数日、自分が腹をたてていることを知っていたので、それが引き金となって自分を痛めつけることが起こりそうな ・・・そんな気持ちになっていたのでした。
だからといって、さっさと怒りを手放す気にならないのが、怒りという感情のしつこいところ。怒りはものごとに執着します。
最近観た映画、「光をくれた人」のなかにあったセリフで、「たった一回だけ赦せばいいんだ」というのがありました。それは、その後の人生を「赦せない」という気持ちで生きるぐらいなら、「たった一回だけ」赦すことが大切だと。
しかし、実際にはそう簡単にはいきません。赦せないのは結局、自分にとっての幸せを脅かされたと感じているから。その痛みがリアルだから。そして、赦すことで被害者をやめてしまったら、自分の痛みをないがしろにされるようでいやなのです。傷ついたその痛みに執着したいのです。
この物語のなかでは、かつて自分にとって最愛の男性だったはずの人が、ある出来事を機に「この男だけは絶対に赦せない」という憎悪と憤怒の対象となってしまいます。それは、自分にとってのかけがえのない幸せをおびやかされたと感じたから。
それだけ、「自分に危害が及ぶ」、つまり自分の幸せをおびやかされたと感じたときには、人を赦すことが難しくなります。
今回私が腹をたてていたのは、まったくもってシリアスなことではありません(苦笑)。でも、ハマってしまった・・・。それぐらいエゴは巧妙なのです。ウカウカすると、足をすくわれます。
何だったかというと・・・ 会うたびに周りの人への不平不満を口にしているA子さんがいて、本人いわく「これは私の投影(自分のなかのものを外に見ている)なんだけどね」と言ってはいるものの、半年以上、不満のほこ先をそこにかかわる人全員へと向けていて、ぜんぜん改善の余地がありません。
最初は「まあ、彼女の問題だわ」と思って冷静に見ていたのですが、ついにそのほこ先が私にも向けられてきて(ハイ!危害がおよぶ感覚ね)、そうしたら私のエゴも一気に目覚めて反応しはじめて凶暴性をおびてきたわけです。
そこで、「ねえ、いつも自分の投影だとかって言っているけど、結局それってすべての人に不平不満を言っている攻撃と同じことだよね」と。
心理学とかを勉強していると「これは私の投影なんですけど・・・」と前おきして、うまくオブラートにくるんで不平不満を正当化してしまうことがあります。そんな正当化を見つけたような気がして、ムカッときたのです(それに今までは人ごとだったけど、ついに自分にもほこ先が向いたし・・・。その内容がおそらく私にとってビンゴだったから、もっとムカッときたのでしょうね・笑)。
自分に危機がおよぶ感覚を感じると、私たちは一気に防衛という名の反撃にでます。それも結局は、「攻撃」となんら変わらないのです。私がムカッときたA子さんと、なんら変わりません。
ふだんは「ムカッ」とくることがあったら、そこにくっついているストーリーも状況もセリフも無視して、ただ感情だけを処理することに専念します。なぜなら、その「ムカッ」ときた感情は、じつはその目のまえのこととはまったく関係がなくて、じつは自分が抑圧していたものがこの出来事に刺激を受けて浮上してきただけだからです。
私たちは「この出来事」が原因で自分は腹をたてている、イヤな気分になっていると信じていますが、じつは違うのです。みんな誰でももれなく、すごい怒りを抑圧・貯蔵しています。もっていない人はいません。でも涼しい顔で、そこに焦点があたらないようにうまくかわしながら生活しているのです。まるで、巨大な爆弾をかかえながら生活しているようなもの。
ムカッとする感覚でそこにアクセスしようものなら、エゴはどんどん爆弾を投げ込んできます。そうすると、ときにはどうにも怒りがおさまらなくなって、ついには自分が何を何のために怒っているのかさえわからなくなったりします。
本当はムカッときたときこそ、自分のなかをお掃除するチャンスなのです。そうやって気がついたときにしか、お掃除はできないからです。
このちょっとした自分への危機感、攻撃された感覚が、隠しもっていた感情をまんまと刺激して、一気にイライラとなって浮上してきました。
エゴは被害者になって怒り狂いたいので、なるべくそれが怒りの本当の原因でないことがバレないように、さまざまなストーリーをすぐさまでっちあげます。
「まったくこの人、半年以上も次から次へと不平不満だらけだわね」「投影っていいながら、まったく処理できていないのはたんなる不平不満という攻撃じゃない」云々。じつはこのとき不平不満を言っているのはまさに自分自身なのですが、エゴはこの不平不満を言うことでがぜん偉くなってパワーアップしたように感じて、どんどんふくれあがっていくのです。
こうなると、自分を正すことができなくなります。もうやめられません。でも、ひそかに反撃を怖れます。
そしてついに ・・・落下の二回転。
でもそこで、完全に目がさめました(苦笑)。
いつもだったら感情を素早く処理するのに、そこで起きているストーリーに耽溺して、自分のエゴの凶暴性にのっとられて、感情を処理するのがすっかり遅れていた、いえ拒否していたのです。
そうしたら、このありさまです。みごとな落下の二回転。 ・・・そしてエゴは言っているのです。「今のすんごく痛かったよ。だから、あなたのこと目一杯攻撃したけど、これでおあいこね。反撃はなしだよ」・・・って。いえいえ、もう、被害者のふりをした攻撃ごっこはおしまいですよ!はい、ゴング!(カンカンカン!!)
私たちは「この目のまえで起きていることが原因でわたしは動揺している、怒っている」と信じこんでいます。そして、そのことに対して反撃しようとします。
私たちはどこまでも、自分は正しい、間違っているのはあなただ!と言いたいのですね。
それも、おびえている証拠でしかないのですが・・・。
でも、いつだって自分の感じている不快な感情は、自分だけのものであって、相手とはいっさい関係ないのですね。どんなことが起きていようとも、それは自分だけで向き合うべきものです。
昨日は家に帰るやいなや、すぐさまイライラ、怒り、正したい気持ちのすべての感情を処理いたしましたよ。このままほっといたら、次になにがおこるやら・・・汗。
なんかつきものがとれたようにすごくさっぱりしました
そして気がついたけど、ここ数日、眠りが浅かったのですが、とってもよく眠れました。じつは処理しなければならない「いにしえの感情の塊」が浮上してきていて爆発寸前で、安眠を妨げていたようです。
それらをほっておくと、今目のまえにあるものとすぐに結びつけて「このせいで気分が悪い!」と言いたがります。でも、違うのです、すべての不快な感情は今ではなく、いにしえのものです。
誰かにイラっときたら、すぐに自分の内側に向かえるようにいつも心したいと思います。もう青たん作りたくありませんものね・・・笑。自分を虐待するのはやめましょう。
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )