最近テレビをつけると、芸能人にしろ、政治家にしろ、大統領にしろ、怒りのタガがはずれまくって、怒り大放出のご様子。
いいかげん耳にやきついてしまった「ちがうだろーっ!!この○ゲー!(怒)」という女性議員の絶叫やら、うわ目づかいで怪談のような語り口で「聞いてくだ
さい・・・」と YouTube に投稿をつづけるタレントさんとか、プロレスごっこで CNN
をボコボコにしちゃう大統領まで(だ、だ、大統領ですよ〜・汗)・・・。
目にするたびに、「あ〜あ・・・またか。ウンザリ」となるわけです。
先日クライエントさんと話していたとき、「呆れはするけれど、じつはこころのなかで私もやってるかも・・・」と。
なるほど・・・ なんとも正直なご意見!
もし、それぞれのこころに拡声器がついていたら、世のなかそれはそれは賑やかなことでしょう。だって、誰ひとりこころのなかで他の人を責めたことがない人
はいないし、他の人に怒りをだいたことがない人はいないのですから。(ってことは、彼らはこころに拡声器がついちゃってて、外にダダ漏れなわけね?!)
ときには、怒りや非難があまりに無意識になっていて、自分ではまったく気づいていない場合もあります。あるいは、怒りや非難が感情というエネルギーのままで「言語化(セリフ化)」されないために、自分では怒っているとは思っていないこともあります。
しかし、ムカっと、イラっと、ぶちっときた時点で、すでにそれは十分に怒りなわけです。
怒りや非難はエネルギーなので、はじめからセリフがついてはいないのです。あの方々のように激しいセリフや行動がともなわなくても、ふつふつとネガティブな感情が湧いてきた段階で、まったく同じなのですね。
話題の方々は、それにセリフが与えられ行動がくっついて、アウトプットされ、電波にのって人目をひいちゃった、にすぎないというわけです。
さらに、さらに・・・
わたしたちの「こころ」はじつはすべてつながっています。なぜなら、「ひとつ」だからです。
わたしが抑圧してなきことにしてきた怒りの数々は、じつはあの方々がまとめて請け負ってくださっているのかもしれません(ありがたいことに・・・)。
火山は世界中あちこちにあって、休止中の火山もあれば、活動中の火山もあります。休止火山は今たんにお休みしているだけで、火山でなくなったわけではあり
ません。そして、どの火山も地球のエネルギーに突き動かされて爆発するわけです。でも、いつ爆発するかはじつは火山に選択肢はありません。
つまり、わたしたち一人一人が火山口であって、おおもとのマグマである「こころ」はたったひとつ。そこにある怒りがどこで爆発し噴出しようとも、火山口が
悪いというよりはマグマである「こころ」のせいなのです。だから、「あ〜あ、あの火山、節操もなく爆発しちゃって。恥ずかしいね〜」とはならないのです
ね。もとは、みんな同じだからね。
わたしたち全員のなかには、残念ながらもれなく同じ怒りがあります。凶暴性があります。破壊的なものがあります。そうでなかったら、わたしたちはとっくにここ、この世界に怖れながら存在しているはずがないのです。
その怒りや凶暴性は、ひとつのこころのなかにあって、ひとつひとつの「個」のものではありません。それが個人という噴火口を使って、噴出してくるわけです。
個人という噴火口を使うことで、その怒りの大もとが消滅しないようにうまく守られているのです。個人というトリックによって、「お互いを非難する」というワナにはまり、おおもとの怒りは解消されることをまぬがれるからです。
つまり、その大もとの怒りはうまくカモフラージュされているわけです。個人というカモフラージュのうえ、さらに抑圧という力によって、潜在意識という闇の奥ふかくへとしまわれています。そうやってエゴは生きのびます。
もしこころのなかで、ある人、ある出来事を非難してしまうと、わたしたちは「ひとつのこころ」を否定することになり、お互いをまるで見知らぬ存在にしてしまうため、お互いの分離感が深まってしまいます。それによて、互いの距離がうめられなくなります。
それが、わたしたちが根本的に感じている孤独感であり、この世にいて感じる怖れの原因です。結局、なみいる敵のなかに孤立無縁でサバイバルしている気分になるのです。怖くないわけがありません。
怒りから叫ぶ人もいれば、叫ばない人もいる ・・・ それもこの世界の二元性であり、バランスです。全員おとなしく善良になるわけにはいかないのです。必ず、両方が存在します。
そして誰かが抑圧してしまえば、他の誰かが激しく表現してくる。そうやって、「ひとつのこころ」はバランスを保ちます。
今回はどうやら、その「激しく出して、みんなに後ろ指をさされる」という役回りを自分はまぬがれていることをありがたく思うことが大切なのです(前世では、あるいは来生では、激しく切れる役だった、あるいはその役になるかもしれませぬ・・・汗)。
どんなことが起こっていたとしても、それが凶暴な出来事だったとしても、今回は自分の番ではなかったことを感謝しつつ、それを非難することよりも、そもそもの原因となっている「ひとつのこころ」のなかにためこまれた怒りや怖れを解消することに務めることが大切なのです。
そしてネガティブな感情は、それが上がってきて、それを実際に感じているときにしかお片づけするチャンスがありません。だから、誰かを見て何かイヤな気分になったら、お片づけのまたとないチャンス! 感謝です!(見せてもらえた! 感じさせてもらえた! ことに)
せっかく、この頃たくさんの方々が怒りを見せてくださっているので、それを非難することによって自分の怒りをさらにふやすようなことはせず、お掃除の機会にできたら言うことはありません。
来世(が、あるなら)、そしてそこで必ず誰かしらが怒りでシャウトするのかが当番制であるなら ・・・ ちゃんと自分の感情の責任をとっていたら、そのお当番制を免除してもらえるかもしれませぬ(笑)。
いえいえ、そこまでいかなくても、まずはシャウトしている人はたんにまわってきた配役なのだと理解しながら、今回シャウトする役でないことに感謝しつつ、さらに目にしている怒りを利用して自分の抑圧した感情をお掃除することに務めれば ・・・
自分のなかの抑圧したネガティブな感情がなくなればなくなるほど、自分の目にする世界は確実に穏やかになってゆきます。私たちの目にしている世界は、いつだってこころの反映で、自分のこころの「なか」にこそ存在するのですね!
イヤなものを見た!と思ったら、非難するのではななく、その感情をあるがままに受けとめて、自分のこころのお掃除に精をだしてしまいましょう!
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )