友人のAちゃんが予約してくれたホテルのダイニングでピアノとフルートの生演奏を聴きながらの優雅なディナー。
灯りがおとされたフロアーは、おしゃれをした人たちがさざめき、それぞれのテーブルにはキャンドルがゆらめく心地よい空間。
するとAちゃんが、「一生懸命仕事したから、いいよね!(贅沢しても)」と同意をもとめるようにつぶやくのです。「もちろん!」と答えたものの、そう答えたあとになんか違和感を感じてる私。
「あれ? Aちゃんはせっせと努力をしたすえでないと、楽しい思いをしてはいけないと思ってるの?? (つまり、無条件になにもなしで幸せになってはいけない?)」
私たちの多くはこどもの頃から、何かを一生懸命やったからこそ、欲しいものを手にする、あるいはご褒美をもらえる経験をしてきたと思うのです。たんに、一生懸命やったらほめられる、というのもそのひとつ。
さんざん読み聞かされてきたアリとキリギリスの話でも、ハッピーに楽しく気ままにすごしてきたキリギリスは、その見返りとして困った状況に直面し、そのうえ助けがやってこないのです。結局、身体にムチをうって、汗水ながして働きつづけたアリに軍配があがるわけです。
楽しみなどに目をくれず、ひたすら一生懸命、汗水ながして頑張らないなら、何も手にしてはいけない、というわけ。
すると、自然体の「あるがまま」では、とうてい「よいもの」「幸せ」を手にしてはいけないことになってしまうのです。無条件には何もやってこないということ。
「楽しくラクして暮らしたヤツにはつけがまわってくる」というおどし以外のなにものでもありません。
そうなのよね〜!昔話や童話、あるいはカツカツに努力をする「巨人の星」や「あしたのジョー」が、どれほどクライエントさんの辛い信念を構築することになっていることか。
大人になってもその信念にもとづいて生きているので、つらい習慣・体験へと導かれ、くり返しているのです! わたしはこれからのこどもたちのために、イソップやら、これらのマンガをすべて書きかえたい!(笑)
私たちは「私たちであるがゆえに」、ただそれだけの理由で、もう十分によいものを受けとる、幸せになる権利と価値があるはず。
頑張ってこそ、努力してこそ「受けとれる」というのであれば、私たちはそのままで、あるがままで、素敵な体験や幸せな体験を受けとってはいけないということになります。
もし素敵な体験をしてしまったなら、罪悪感を感じることになり、そのあとに意識的にあるいは無意識的に、その幸せな体験のうめあわせとしてつらい体験をしなければならないと感じてしまいます。
その昔、夏の3〜4週間をバリ島で過ごしていたことがありました。お勉強に来ていたのですがそれにもかかわらず、朝から海やプールで泳いだり、船で沖に出て魚を釣って料理してもらったり、日の出を拝むために夜中から山に登ったり、川でラフティングをしたり、パラセーリングをしたり、民族衣装でヒンズー教の寺院をお詣りしたり、小さな島にわたって過ごしたり、ただただビーチで昼寝をしたり ・・・こんなパラダイスな日々にもかかわらず、楽しければ楽しいほど、毎日遊びほうければほうけるほど、強い罪悪感を感じる人がけっこう多かったということ。
こんなに素敵な日々なのに、手放しで楽しんでいないのです。もったいない!
楽しんじゃいけなくって、楽しんだ分だけ苦労するのだったら、いったいいつ、どこで、幸せになれるというのでしょう!?
それにしても、「楽しんじゃいけない自分」って、いったいどんな存在であると “自分で自分を” 思っているのでしょう?
ちなみに、神さまが「楽しむことをよしとしていない」わけではありません。あくまでも「本人自身が自分で自分に対して」、楽しむことはよくないと信じて、おびえているのです。
「私は楽しんではいけない」・・・・ 結局、自分に対するそのような決めつけ、信念が、せっかく楽しいことを経験したのに、罪悪感があとから追いかけてきて重荷をおわせて、心理的なバランスをとろうとしているわけです。楽しいだけじゃダメだよ! 楽しいがあったら、その分苦しむのだよ!と。
だから人は、ものごとが自分が思った以上にうまく運んでしまうと、どこか落ち着かなくなるし(こんなにうまくいったら、あとで何かとんでもないツケがまわってくるに違いない)とか、いつもよりもランクアップした素敵な体験をしていると、自分らしくないと居心地が悪く感じるのです(こんなにいい思いしてしまっていいのかしら? 私にはゼイタクすぎるんじゃない?) ・・・。
そんなときには、自分がいったい何を信じていてそんなに落ち着かないのか、居心地が悪いのか、探求してみましょう。
結局、よくよく調べてみると、自分で自分のことを幸せにしていないのがわかります。自分が幸せになれないのは、自分で自分の幸せにストップをかける「罪悪感の思い」なのです。
そして、それさえなければ、もっともっと多くの豊かな体験を両手を広げて、身体全体で受けとることができるようになるはずです。
自分を解放しないのも、自分を幸せにしないのも、自分を苦しめるのも ・・・ 結局は自分のなかにある思いであり、こころのなかにおしこめてちゃんと見ることをしていない思いなのです。
そんな隠された思いをチェックして、気づいて、手放して ・・・ こころがしっかりと受けとれる準備ができたなら、すでにある豊かさがもっともっと流れこんでくるでしょう。
PS ちょうど今日いらしたクライエントさん、「なかなか素直に 100% 楽しむことができないんです」とのことでした。
ちょいと一緒に探求してみました。
「昨年、スペインを旅しました。おいしいものを食べて、たくさんのきれいなものを見て、のんびりして、楽しくって、本当にいい体験でした。 ・・・でも旅の終わり頃には恐ろしくなってきました。こんなに楽しんでしまったから。怖いんです」
「私は怖い、なぜなら?」とくクライエントさんに問いかけてみると。
「あとで悪いことが起こりそう」「なぜなら、いい思いをしてしまったから」「わたしはそんなよいものを受けとる価値なんてないんです」「なぜなら、神さまに好かれていないから」「なぜ好かれていないかというと、愛されるような自分じゃないから」「つまり、ちっぽけで、ぱっとしなくって、恥ずかしい存在。いつも母が私を恥ずかしがっていたようです」「きっと神さまだって私をみていて、イライラするのです」「そんなわたしによいものがくるはずがないのです。なのに楽しんでしまった」「身のほど知らずは罰せられるのです」「己を知って、醜いなりの努力をしなければならないのです」・・・・
「ああ・・・私は自分を恥ずかしい、存在していてはいけない存在だと信じていました。存在させてもらっているのだから、努力するべきだ、奴隷のようであるべきだ、それでつじつまがあうように感じていたのです。だから、幸せが怖かったのです」と。
クライエントさんの許可をえて、やりとりを掲載させていただきました。こんなふうに間違った考えを明るみに出すと、それをもう終わりにすることができます。すべては光をあてることで、闇を一掃することができるのですね。
みなさまも、罪悪感、怖れなどを感じるときには、是非、探求してみてくださいね。