ほんとうに私たちのこころというのは、自由で、柔軟で、パワフル・・・。
ある意味じゃ、躾られていないお子ちゃまのようでもあります。野放しにしていると、知らないうちに自分のこころのパワーで自分の首をグイグイしめあげることになってしまうことも ・・・ご用心!
といっても ・・・ ほとんどの方がすでに手遅れで(汗)、気づかぬうちに何らかのこころの呪縛につながれてしまっています(もし、完全に呪縛がとけていたら、とっくにここになぞいないことでしょう)。
呪縛にかかっていることにさえ気づいていないのだから、本当は不自由なのにそれを問題だとさえ感じていないかもしれません。だから、みんな誰もが自分のこころのパワーのギセイ者だ、といえるのです。
どんなふうに ・・・ ?
たとえば、小学校にあがる頃、なかなか自分の名前が書けるようにならなかったとします。
何度も教えながら、ついに業を煮やしたお母さんはイライラがきわまって言うのです。「こんなことも覚えられないなんて、ほんっとあなたってバカだわ」。
すると、「お母さんがそう言うんだから(こどもにとって親は神さまのような存在なので)、そうに違いない」と、自らに『ぼくはどうしようもないバカです。そのうえ愛されていません』というレッテルをはって、以降、10歳になっても、30歳になっても、80歳になっても、そのレッテルどおりに生きようとします。
そのレッテルが間違いであること(つまり、発達には個人差があり、それは自分の価値とは関係ない、つまりバカではないこと)に気づいて、意識的に正されない限りは、ずっと『ぼくはどうしようもないバカ』を自らやり続け、自分自身をそのように扱い、人にもそのように扱わせます。つまり、「バカなひと」のポジションに自らおさまり続けるのです。
他にもさまざまなバーションがあって、それらはそんなに大ごととは思えないことですが、それがこっそり呪縛となってしまっています。
例えば外で遊んで、汗だく真っ黒で帰宅したときのお母さんのひとこと。「あなた、ホントくさいわよ」と言われて、自分という存在は「くさいのだ」と決めてしまい、以後人のそばに行くことを避け、ずっと自分を孤独にしていた人もいました。
でも、その原因である「自分はくさい」は忘れさられ、なぜ自分は人に近づけないのか自分でもわからないのです。
あるいは、お手伝いをしなかったことから、「まったく気のきかない子だね」と言われてしまったことで、逆に過敏なまでにまわりに気をつかいまくる子になっちゃったり。
幼稚園から帰ってきて、いろんなことを報告したくておしゃべりしていたら、お母さんのムシのいどころが悪くって、「まったく、つまんないことばっかりしゃべってるんじゃないわよ」と言われて、それからは妙にコメディアンチックに脚色したおもしろい話しを必死でするようになったり(この場合、必要以上に場を盛りあげる人になったりします)。
また、女の子によく見られるのは、生まれたときのお父さんのひとことによるもの。「また女か ・・・(チッ)」(男の子がほしかったのですね)。
赤ちゃんだからわからないと思っていても、この言葉は意外にもちゃんと理解されていて(というよりも、態度でわかっちゃうんですよね)、人生最初の拒絶としてこころに刻印されます。するとその子は、女の子であることに無価値感を感じて、男の子のようにふるまったり、自己卑下したりし続けます。
このようなひとことは、親も人間なので、そんなに悪気もなくふと出てしまったか、あるいはムシのいどころが悪かったか、あるいはこころが傷ついていたというだけなのですが、それを受けとったこどもはその愛のないひとことで、自分の価値に傷をつけ、一生自分に呪縛をかけてしまうのです。
呪縛はそのうちとけるのでしょうか・・・?
残念ながら、そうはいきません。
こころにはそれだけのパワーがあり、その呪いはちょっとやそっとじゃとけないのです。とけないように、ちゃんとこころの深いところにしまわれて、忘れさられます。
だから、そもそも自分がなぜ「自分をバカだと信じているのか」「自分は汚いと決めているのか」「自分の気持ちをギセイにして気づかうのか」「必要以上に明るくふるまおうとするのか」「自分を嫌悪するのか」 ・・・ その理由がまったくわからなくなります。ただ、そういうものだと思ってしまいます。
それが本当の自分ではないのだ、ということにすら気づけません。でも、どこか苦しさを感じていることでしょう。
言えることは、バカだと思っている人は絶対バカではないし、汚いと決めている人は汚くもないし、気づかいをしすぎる人はリラックスして動けるはずだし、ヘンに明るいひとももっと自然体でいられるはずだし、自分を嫌悪する人は自分に対して好きも嫌いもなくそのままでいられるはずなのです。
こんなふうに、「自分で自分に呪いをかける」ということをとてもわかりやすく描写していたアニメがありました。
「心が叫びたがっているんだ。」 ・・・ 最近は実写も話題になっているようですが、私はアニメで見ました。
この話のなかには、お母さんの自分に対する態度と言葉から、自分に呪いをかけてしまった女の子が出てきます。口がきけなくなってしまうのです。
しかし、呪いをかけてしまったことにはまったく気づかず、この呪縛がかかった状態が自分なのだと思って日々をおくります。つまり、本当の自分を閉じ込めた状態。
これを見たとき、ああ、大なり小なり、私たちみんな、もれなくやっているよね〜 ・・・、人ごとではないと感じました。
この女の子は「自分で自分に呪いをかけていた」と「気づく」ことによって、はじめてその呪いをとくことができるのです。本来の自分へと戻ることができるのです。
これは私たちも同じ。すべての呪縛は、それがどのようなことなのか、「自分に対して何をしたのか」を認識して、はじめてそれを手放すことができるのです。
だから、どんな痛みや苦しみ、不具合、問題にしても、それを無視しつづけて、顔をそむけたままでは、決してそれを解決することができません。
けれど、ああ、こんなことをこころに決めてしまっていた、それを信じてしまっていたからそうなっていたんだ。そして、その決めていたことはもう必要ないと、ちゃんと認識してあげることによって、はじめてそれを解除して、呪いから自由になることができるのです。
すべての問題は、自分以外のところ、自分の外側で起こっていることはひとつとしてありません。
いったい「自分で自分に何をしてしまったのか?」 ・・・ それをしっかりと認めるまでは、やめることができないのです。たとえ、それが母や父や、他の誰かが原因のように見えたとしても、結局は自分のこころがあることを決断して、その状況で自分を生きやすくするために自分に呪いをかけるのです。
すべての問題は、しっかりとひも解いて、「ああ、こういうことが起こっていたんだ」と認識することが欠かせません。うやむやにしてもそのうち解決は望めません。だから、ちゃんとそれを手のひらにのせて、しっかりと見てあげること。
ちゃんと認識してあげる、直視したときに、その呪縛をはじめてとくことができます。本当の自分へと、選びなおすことができるのです。
だから、何か人生で不具合が起きているときには、ちょっと落ち着いて、何が起こっているのか、しっかりと向かい合って見てあげること。
呪縛を解いてくれる王子さまを待ち続けるのではなく、自分が自分の王子さまになるべく、自分の呪いを解いてあげましょう!
(「気づきの日記」バックナンバーはこちら: 古川 貴子/ ヒプノセラピー・カウンセリング )